ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。
さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」(19~20)
新しい世界に踏み出すには確信が必要である。使徒が経験した聖霊のバプテスマは、働きのために必要な確信を与えた。その確信とは主の臨在である。それによって神を守ることからも、自分をまもることからも解かれるのである。
彼らは言った。「百人隊長コルネリオという正しい人で、神を恐れかしこみ、ユダヤの全国民に評判の良い人が、あなたを自分の家にお招きして、あなたからお話を聞くように、聖なる御使いによって示されました。」(22)
キリストを求める者には、主はすべてのことを通してその飢え渇きを満たしてくださる。その時代のネットワークを私たちの周りに張り巡らせて、主を知ることを成長に合わせて導いてくださる。
招かれてペテロは言った。
「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。」(28)
ユダヤ人は神の選びの民として強い誇りを持ち、律法を守ることによってそのことを証明しようとしていた。ペテロもその特権の中に居る者であった。しかし、主の導きはその誇りを覆すものであった。
コルネリオは、
「それで、私はすぐあなたのところへ人を送ったのですが、よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」(33)
彼らにもペテロたちにも穏やかな平安が伺える。一つの御霊に在る平和であり、主によって備えられたことは今も昔も変わらない。
ユダヤ人の特権がひっくり返るような場面にも関わらず、静かにすべてが展開して互いの言葉が真っ直ぐに届いているのは、言葉なる方のイエスの臨在によるのだ。
そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、
どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。(34~35)
特権を惜しむことなく手放し、誰にでも分け与えることができるのは、それ以上のものを得ているからである。
パウロは自分の出自を塵芥と言ったが、遥かに勝る使徒の誇りを得たからであった。
神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。(36)
「イエス・キリストはすべての人の主です。」ペテロは今、確信をもって言ったのだろう。
それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。
私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。(38~39)
ペテロは体験からイエスがキリストであることと、十字架の死と復活を証言し、パウロは経験の中で、イエスが神のキリストであることを命を懸けて証言し続けた。
しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。
しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。(40~41)
イエスは選ばれた者を孤児にはなさらず、ご自身が神のキリストであることを見せてくださった。今も生きていて、弟子には主を知るための必要を満たしていてくださる。主はご真実だからである。
イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。(42)
すべて救われた者は、イエス・キリストは救い主であり、さばき主であることを伝える責任がある。
どのようにしてか・・、それこそ聖霊が、日々のみことばによる交わりの中で、時も相手も言葉も備えてくださることである。
イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。
割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。(43~45)
このことは、彼らの特権がすべての人に解放されたしるしである。聖霊はみことばと結びついて働かれる。真っ直ぐにみことばの語られる中に働かれるからである。
彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。(46)
異言が同時に現れるわけではなくても、今も賛美は必ずある。それは歌を歌うことに限らず、心からあふれ出て神をほめたたえる喜びであり、救いの確信は感謝となって溢れるからである。
「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」
そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。彼らは、ペテロに数日間滞在するように願った。(47~48)