神はヤコブに仰せられた。「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」
それで、ヤコブは自分の家族と、自分と一緒にいるすべての者に言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。(1~2)
シェケムの血に汚れた衣を着替えて神の備えの地に入る。
動機がどのようであっても、戦いには人の肉からの汚れがあり、それらを洗い清めて神の備えの中に入って行く。
偶像を取り除き創造主なる神のみに信頼するなら、生きて働く神の恵みを受ける。それは、彼らが神を恐れることを共に経験し、神の民であることの喜びを分かち合い、選びの民としてのご計画を全うするためである。
今キリスト者にはキリストの十字架の血潮によって、過去、現在、未来の罪汚れは洗いきよめられている。それゆえ、深い感謝によって赦しの恵みを受け、安息することができるのである。それは完璧なあがないだからである。キリスト者の日々の喜びはこの平安である。
私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。(3)
今、私たちのうちにいてくださる神に、私たちの霊は絶えず礼拝していて、生活すべての中に在っても、御前に留まっていることができる。その関係は寝ても覚めても変わることはない。
良い時も悪い時もあらゆる出来事の中で、近しく主に身を避けることができるのは何という恵みであろう。
彼らは、手にしていたすべての異国の神々と、耳につけていた耳輪をヤコブに渡した。ヤコブはそれらを、シェケムの近くにある樫の木の下に埋めた。
彼らが旅立つと、神からの恐怖が周りの町々に下ったので、だれもヤコブの息子たちの後を追わなかった。(4~5)
ヤコブの知らないところでラケルが家から盗んできた偶像テラフィムも、この時主が取り除いてくださったのであろう。
主がすべての責任を持ってくださるから、他に頼みとするものは不要となる。天地創造の神以外に頼みとするものが無くなった時、完全な守りをもって、ご自身を私たちに経験させてくださる。
わたしが【主】である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。(イザヤ45:5)
今も、私たちの明日には神の備えがあり、恐怖の代わりに平安が満ちることを経験し、世にも勝利をたまわっている。
ラバンからヤコブを守られた神は、同じようにヤコブの息子たちを守られた。彼らが正しかったからでもなく、きよいからでもない。ただ、神の愛する民だからであり、神に応答してご計画を遂行する者だからである。