弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。
弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。(24~25)
誰もイエス・キリスト以上の迫害を受ける者はいない。キリスト以上に罵られる者もいない。キリスト以上の孤独を味わう者もいない。その権威をキリスト以上に軽んじられる者もない。
でも一つだけ、キリストのご存じない苦しみが人にはある。キリストを責めるすべての言葉は事実無根であるが、人には事の軽重はあっても、罵られ嘲けられるべき事柄があり、責めから逃れられない忸怩たる思いである。
それらを神は「思い出さない」と言ってくださったが、人は罪のあがないを知ってはいても、信仰の不完全によって苦しむのである。
キリストは罪を経験されなかったけれど、人と共に生きてその弱さをよくご存じであり、十字架で「完了した」と言ってくだっさったのは、この良心の責めからも解放して、平安を得させてくださるためでもあった。
主人が、ベルゼブルと呼ぶ者たちに対して一々弁解も無実の証明もされなかったように、その弟子が良心の責めに対して苦しみ続けることは、ベルゼブルという言葉に対して、弁明しようとすることであり、それは間違っているのだ。
そこで正しさを証明することは、主人以上の者となることである。
ですから彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです。(26)
信仰も不信仰も神の御前で露わにされる時が来る。キリスト者には地に生きている間も証してくださる方がある。その義が、ただ神に拠ることだからである。
御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。(ローマ8:16)
世に生きるゆえのあらゆる葛藤の中に在っても、キリストのうちに住んで安息し、御名を崇めて喜ぶことがみこころである。
すでに十字架で完了され義とされたことに留まり、イエスがよみがえられた時、繰り返して命じられた「平安があるように」というみことばに留まらなければ、あがなわれた者の働きは何一つ出来ないからである。
わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。(27)
キリストは私たちに日々新しい命を与え、生かしていてくださっている。歳と共にこのことをはっきりと実感するようになる。元気に暮らしていても、普通に死を感じることがあるからである。
朝の目覚めに、今日の命をどのように用いてくださるのだろう・・と期待する中で、聖霊を通して聴いたことばを伝えたいと願うのは、とても自然なことなのだ。
このことを願うことができるのは、神はご真実な方であり、求めに応じて必要を備えてくださる方だからである。
からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。(28)
死が恐ろしいものではないと知れば、生きることがとても自由になる。死によっても変わることのない神の祝福の中に在って、たとえ、キリストの十字架のように鞭打たれ、非難と嘲りの中の死であったとしても、心のうちの平安は主に守っていてくださる。
愛する者をすでに神の御手に委ねてあり、彼らの祝福は私が生きていようと死のうと変わらない。
キリストは神のご計画によって、すべての人をあがなうための十字架を負われた。
私たちは、地上の命をどのように用いるかを問う十字架を負っている。
それはキリストが最善に準備して下った、一人ひとりのための良き計画が秘められた時間である。キリストとの交わりの中で解かれて行く祝福である。