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石ころ

引きこもりに引き込んで・・

Aさんから昨夜「明日、会いたいけれどいい?」とお電話があり、何時ものように「いいよ」と答える。「良かったら、家に来てくれない?」と誘われたけれど「私は今引きこもり中、だからこちらに来てね。」と答えた。

本当に最近は買い物に行くくらいで、ほとんど何処にも行っていないなぁ・・。
大怪我をされたご近所のご主人が退院されて、杖をつきながらも元気に歩いて居られ、「今、橋まで行って来ましてん。」とニコニコと話され、ウオーキングをさぼっていた私は大いに反省して、朝歩くようにはなったけれど、「朝は気持ちが良いですね~」と庭先をお掃除をして居られる方と挨拶を交わす程度で、あまり人と交わることもない。
別に何があってということでもないのだけれど・・。

 
でも、久しぶりにAさんにお出会いするとそれはそれでとても嬉しい。ましてイエスさまのことを好きなだけ話せるなんてとても幸せなこと。
昨夜から祈りつつ準備をしていたプリントを、聖書箇所と交互に読む、時々は横道にそれたり・・そんな自由も二人きりの気楽さ。

今日は、旧約から十字架までフルスピ-ドでざっと流す。それは私の必要のためでもあった。「時間がない人に対してどのような伝え方があるのか」そんな備えの必要に、以前から迫られていたから・・。それに基本的なことを整理して復習をするため。

 
「善悪の知識の木」をなぜ神は置かれたのか?彼女の疑問。いろいろと話し合いつつ聖書を読んでいるとき気がついたことがある。
「神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。」(創世記2:9)

今まで何となく、「見るからに好ましく食べるのに良いもの」は、善悪の知識の木の実だけのように思ってしまっていた。でも、事実はすべての木の実がそのようだったのだ。何も「善悪の知識の木」にこだわらなくても、園にはすべての良いものにあふれていたのだ。

「神さまは、初めから『善悪の知識の木』の実を、人が必ず食べるって分かっていたのじゃない?」と彼女、「それは分からない。聖書に書いてあることしか分からないから・・。でもね、神様には一切の罪はなく真っ直ぐなお方だから『食べるな』命じられたときには、人が真っ直ぐに従うと信じておっしゃったのじゃないかと私は思うよ。」そんなことを話し合ったり・・

「聖霊ってなに?」「三位一体の神様。イエスさまが十字架で死んで葬られ天に昇られた後に、イエスさまを信じる人に『助け手』として来て下さった神さま。」「私にも来て下さったのかなぁ」
「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」と書いてあるから、あなたがイエスさまを主と信じて告白しているということは、聖霊がいて下さるという証拠だよ。」
「でも、聖霊を私は知らない。」「いいえ、知っているよ。イエスさまを信じることが出来るように助けて下さった事実があるのだから。」

 
はっきりと確信が与えられるようにお祈りをして、共にイエスさまに感謝したあと、Aさんはわざわざ車を止めては、名残惜しそうに何度も手を振って帰って行かれた。
もう少しゆっくり出来れば良かったのだけれど、今は制限がある中ではあっても、時間いっぱいイエスさまが共に居て下さったことを、私たちは感じることができたのだからとても感謝。

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