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ヨブ記の最期の祝福の箇所がどうも納得できなかったのだけれど、今その箇所がわかる気がした。
試練の後で、神様はヨブの後の半生を以前に増して祝福されて美しい娘三人息子七人を賜った。このことが、まるで何の心配しなくても良いほどに完成された子として甦ったように感じたのだ。
ヨブは悔い改めただけであった。何をしたわけではない。主がヨブに来てくださって直接ご自身を現してくださったのだ。信仰の欠けを教えて導き、以前に勝る祝福を賜た。真実な神様のなさることである。
主は、誰にもある信仰の欠けをみことばによって教え導きより大きな祝福に至らせてくださるご真実なお方。サタンの働きはその道具となるのである。それは十字架の時と同じ。
ヨブの痛みは授業料。深いお交わりを経験することがあるがそれには少しばかりの授業料を支払うことがある。私たちは捧げものを持って御前に行く。しかしそれは値なく主から賜ったものであり元々主のものである。
主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ記1:21)
お交わりが許される関係に在れば、事の善し悪を越えた平安がありこの世で何を授業料として支払っても、主を知ることの喜びは永遠の財産である。
危急の時、その事態を脇に置いて事の真ん中に主を確認する習慣がある。あの日、バイク屋さんに連れて帰ってもらって救急車を呼ぶまでの数時間、
「主はすべてを知っていてくださいますネ。主の許されないことは何ひとつ起こりませんネ。主は癒し主です・・みこころがなりますように。」などとつぶやきつつ・・みことばを交えて主を見上げていた。
今日は良いお天気だった。
洗濯をして干すことができた。食事を作って美味しく食べることができた。当たり前のことをして、家に住むことができる喜びを噛みしめている。少々の痛みは堪えつつ・・。