石ころ

キリストご自身のバプテスマ ②(ヨハネの福音書1章)

 

 さて、民がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマを受けられた。そして祈っておられると、天が開け、
聖霊が鳩のような形をして、イエスの上に降って来られた。すると、天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」(ルカ3:21~22)

 

キリストはすべてのことに置いて罪人の真ん中に来て、罪に悩む病人の隣で生きてくださった。罪を犯されることはなかったが・・。
聖いキリストが罪人に混じってバプテスマを受けられた。神のみこころを完成する栄光の十字架も、罪人の真ん中で受けられた。それはキリストが罪に染まることは無く、触れる者をきよめる方だからである。

 

イエスを神のキリストと証するものは、キリストご自身ではなく神のことばであり神のみわざであった。
「わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」御子を十字架に遣わされる御父の痛みが伝わってくる言葉である。

 

神には感情も心もないなら、これほどの犠牲を払って罪人を顧みる必要はない。創造主なる神は石ころからでも新しい人を造ることがお出来になるのだ。愛には痛みがあり、理不尽な犠牲を払うものである。
今、生かされている者はすべて神が愛しておられる者であることを、キリストの生涯が証している。

 

私自身もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けるようにと私を遣わした方が、私に言われました。『御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。』
私はそれを見ました。それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」(33~34)

 

イエスに留まる聖霊はヨハネにしか見えない。彼には霊の備えがあり証のための必要があるからである。

キリストでさえ働きのためには、聖霊の臨在と神の祝福による確信と力が必要であった。まして弱い肉に在ってみこころを行うためには、聖霊のバプテスマによる明確な備えと、赦しの確信がどれほどに必要なことであろう。

 

すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。(使徒2:2~3)

 

使徒たちに注がれた聖霊のバプテスマ。聖霊の働きによって起こる事は肉の目に見えることではなく、神と直接繋がっている霊によって知覚することである。この様子も体験した者の霊によって見たことであろう。

 

イエスには神の平和を運ぶ「鳩のよう」であり、使徒には「舌のような炎」とある。キリストをきよめるための炎は必要なく、使徒には福音を伝えるための舌のきよめが必要であったからである。聖霊のバプテスマは働きのための必要なのである。


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