その翌日、ヨハネは再び二人の弟子とともに立っていた。
そしてイエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言った。
二人の弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。(35~37)
ヨハネの言葉を信じた弟子が、イエスについて行くのは健全な反応である。彼らは師であるヨハネから、イエスがどなたであるかをしっかり聴いていたのだ。
ヨハネはイエスに導く忠実な働きをしている。イエスの福音を聞きながら人の教えに留まり続けることは、その教師の無能を現わす。
いのちは生きている限り成長を求めるものであり、それもキリストを求めることは、神に造られた者の健やかないのちの活動である。
イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」(38)
彼らはイエスの質問に答えられずに、お側に留まることを願ったのだ。人は何を求めるべきかを、主に教わらなければわからないからである。
創造主を知らなければ如何に生きるべきかを悟ることはできない。それゆえ的外れなものを求め続けて、いのちの源を知らずに迷子になり短い命を消費してしまっているのだ。
イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。時はおよそ第十の時であった。
ヨハネから聞いてイエスについて行った二人のうちの一人は、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。(39~40)
神の愛と神の義であるイエスに留まることによって、求めるべきものを悟るようになり、キリストに求めて朽ちることの無いいのちに至るのである。
まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)
彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」と言った。
彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンを見つめて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」(41~42)
イエスは彼をペテロ(岩)と呼ばれた。彼はキリストを愛して殉教にまで至り、永遠のいのちを生きる者となり、キリストのいのちである福音を伝える教会の初めとなる。
彼は地方の一漁師であり、弱さを抱えた普通の人であった。いのちに至る良きことは「神から発し、神によってなり、神に至る」からである。
今も昔もイエスの弟子の資格は付いて行くことだけである。学問を積み重ねた律法学者でもパリサイ人でもなく、宮殿の高貴な人でもなく、イエスが選ばれたのは、生活の糧である船を捨て漁師を捨てても、お側にいることを求める人であった。
イエスの弟子はキリストを必要とした人であり、一つの奇跡さえ見ること無くキリストの招きに従って、それまでの自分を捨てることが出来る人々である。
彼らは自分の中に誇るべきものを何も持ってはいなかったので、霊の飢え渇きのままにキリストに従うことが出来るのである。
聖霊のバプテスマを求めないのは、自分の中に多く資産を積み上げているので、それらを主に委ねることをためらうのである。パウロはそれらを塵芥と言って捨てた稀有な人である。
宗教指導者が聖霊を求めないのは、自分の資産に満足しているからであり、あの金持ちの青年のように、多くのものを抱えている人は生まれ変わることを恐れるのである。
使徒が聖霊のバプテスマを受けたときは、彼らが何もかも失ったときであった。