その後、兄たちは、シェケムで父の羊の群れを世話するために出かけて行った。
イスラエルはヨセフに言った。「おまえの兄さんたちは、シェケムで群れの世話をしている。さあ、兄さんたちのところに使いに行ってもらいたい。」ヨセフは答えた。「はい、参ります。」(12~13)
ヨセフは恐れることなく父の言葉に聞き従って「はい」と家を出た。此処にヨセフが選ばれている理由があり、素直さによって神の遠大なご計画も成就して行く。
彼が野をさまよっていると、一人の人が彼を見かけた。その人は「何を捜しているのですか」と尋ねた。(15)
主の御用を成そうとしても、一体どのように振舞えば良いのか。何時、誰に向かって話すべきか、踏み出した次の瞬間に道に迷う・・。
一足踏み出すための、みことばの足のともしび、前を見るためのみことばの道の光が必要である。それは、直ぐに状況が変わる世の輝きとは違って、永遠を照らす光である。
ヨセフは言った。「兄たちを捜しています。どこで群れの世話をしているか、どうか教えてください。」
すると、その人は言った。「ここからは、もう行ってしまいました。私は、あの人たちが『さあ、ドタンの方に行こう』と言っているのを聞きました。」そこでヨセフは兄たちの後を追って行き、ドタンで彼らを見つけた。(16~17)
聴く者に神は敵さえも用いて道を平らにし、行く手を導いてくださる。先に何が待っているのか、神を知らない者のように人に訊き回って探る必要はない。
守りはただ主から目を離さないことにあり、みことばの約束に留まることで十分なのである。たとえ、一歩先に罠が仕掛けられていようとも、先立つみことばは砦である。
兄たちは遠くにヨセフを見て、彼が近くに来る前に、彼を殺そうと企んだ。
彼らは互いに話し合った。「見ろ。あの夢見る者がやって来た。
さあ、今こそあいつを殺し、どこかの穴の一つにでも投げ込んでしまおう。そうして、狂暴な獣が食い殺したと言おう。あいつの夢がどうなるかを見ようではないか。」(18~20)
人の肉性はいつも神を試そうとし、霊は聖霊を慕ってすべてを喜び共に働こうとする。
「あいつの夢がどうなるか見よう」この言葉は、ヨセフの夢がたわいないものだと受け取っていないことである。彼らはその意味を感じ取って、神を試そうとしているのだ。
しかし、ルベンはこれを聞き、彼らの手から彼を救い出そうとして、「あの子を打ち殺すのはやめよう」と言った。
また、ルベンは言った。「弟の血を流してはいけない。弟を荒野の、この穴に投げ込みなさい。手を下してはいけない。」これは、ヨセフを彼らの手から救い出し、父のもとに帰すためであった。(21~22)
ルベンが反対したのは、ヨセフを愛する心からというよりは、父への懺悔の心からではなかったのか・・。
イスラエルがその地にとどまっていたころ、ルベンが父の側女ビルハのところに行って、彼女と寝た。イスラエルはこのことを聞いた。(35:22)
罪の許しを乞うための取引材料ではないか・・。人の言動には複雑な計算が絡むことがある。神はルベンの言葉を用いられなかった。
ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らは、ヨセフの長服、彼が着ていたあや織りの長服をはぎ取り、
彼を捕らえて、穴の中に投げ込んだ。その穴は空で、中には水がなかった。(23~24)
父が与えた服を剥ぎ取ることで自分たちと同じ立場とし、穴に落として無力な者にした。神にも父にも愛される弟の命を手にして、彼らは食事をし自分の欲望を満たした。
それから、彼らは座って食事をした。彼らが目を上げて見ると、そこに、イシュマエル人の隊商がギルアデからやって来ていた。彼らは、らくだに樹膠と乳香と没薬を背負わせて、エジプトへ下って行くところであった。(25)
神のご計画は、すべてのことが起こる前に整えられてある。それゆえ、最悪と思える状況に在っても、主により頼む者はいつも喜ぶのであり、絶えず祈るのであり、すべてのことを感謝するのである。
すると、ユダが兄弟たちに言った。「弟を殺し、その血を隠しても、何の得になるだろう。
さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが手をかけてはいけない。あいつは、われわれの弟、われわれの肉親なのだから。」兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。(26~27)
「手をかけてはいけない。肉親なのだから・・」まるで正しい振る舞いのようなことを言っているが、この時彼らは、神をも父も軽んじてヨセフの命を支配する神の位置に居た。しかし、ユダの言葉は神に用いられた。
彼らはヨセフを二度と見なくても済む方法を選んだ。