あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(5)
真に主は、すべてにおいて咎めることなく、惜しげもなく与えてくださる。願うことさえ知らぬ者に、ひとり子イエス・キリストまでたまわったほどに・・。
罪からの聖めも、その傷の癒しも、愚かさや失敗も無条件に赦して、キリストの信仰により回復のチャンスを備えて、「あなたの信仰」と言ってくださる。
ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。(5~7)
みことばを信じた者は、喜びのあまり躊躇無く聴いたことばに一歩を踏み出す。このことは神への愛の応答であり、聴いた言葉を形として現わすためである。
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。
自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。(22~23)
みことばを聞き流す者は信じていないから、その人には何も留まらず過ぎ去って行く。ただ、みことばに時間を割かれたという事だけが記憶となって、信仰を持っているかのように誤解してしまう。そのような時間は無かった方が良かったのだ。それなら、初めてみことばに聴き入る時があったかも知れないから。
ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。(25)
信じたみことばを実現してくださるのは主であり、私たちの霊のうちに臨在してくださって、すべての必要を満たしていてくださっている。
世に、みことばを現す光栄をたまわっているキリスト者の信仰は、みことばによって成長させられ、その福音の実りを主と共に喜ばせてくださるのだ。
主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。(ローマ9:28)