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イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。
しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。(マルコ6:48~49)
イエスさまは「弟子たちの側を通り過ぎるおつもりだった」と書かれている。イエスさまは、弟子たちがお姿を見るだけで力を得ることを期待しておられた。主を見ることで平安を取り戻すことを期待しておられた。
しかし、彼らはイエスさまを幽霊だと思った。幽霊とはありもしない、幻覚ということ。イエスさまもみことばも現実味を失い幻であったかのようになる時、その暗さはどれほどだろう、その心の闇はどれほど深いだろう、その恐怖は・・。
何時もみことばに立って主を見上げていなければ、人は誰でも世の嵐に目を奪われてしまう。どんなにイエスさまを経験していても、信仰は一瞬に雲散霧消してしまう怖さを持っている。
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」
みことばは本当に明かりであり力である。
イエスさまは忍耐をもって、弱い私たちの信仰に来てくださる。私たちの暮らしの舟に、心の内に来て下さる。
みことばを聞きイエスさまを迎えるとき、たちまち恐れは去り、怯えの代わりに力が満たされる。世の嵐は目に入らなくなり、平安が、希望が広がる。
でも、主は待っておられる。
いつまでも「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」と言い続けることではなく、
聞いても悟ることがなく迷う人々に「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」と、経験をしたみことばを、主イエスさまを解き明かすようになることを・・。
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