あなたと母を同じくする兄弟、あるいはあなたの息子、娘、あるいはあなたの愛妻、あるいはあなたの無二の親友がひそかにあなたをそそのかして、「さあ、ほかの神々に仕えよう」と言うかもしれない。(6)
あなたはそういう者に同意しようとしたり、耳を貸したりしてはならない。そのような者にあわれみをかけたり、容赦したり、かばったりしてはならない。(8)
キリスト者は誰に対しても、どんな状況下にあっても「キリストが一番大切」なのである。キリスト者は男も女も皆キリストの命によって買い取られた花嫁であり、それが二心の無い花嫁の純潔であり、永遠を共にする幸いはこの愛の中にこそある。
他の神々といっても創造主以外の他に神がいるわけではなく、人に神と祭り上げられたからと言って力を持っているわけでもない。
それらの存在には神に逆らうものが働いており、神の作品である人を神から引き離して、彼らの滅びに引き込む罠が仕掛けられているのだ。それゆえ神は取り除くことをイスラエルに命じられた。
家族や友を愛するにも色々な愛がある。神から出た愛は、永遠のいのちを与えて生かす愛であるが、自他を滅ぼす愛擬き(もどき)は、神に敵対する所から出ているのである。聖霊はそれを一瞬で見分けて、みことばを指し示して教えてくださる。
子どもたち、偶像から自分を守りなさい。(Ⅰヨハネ5:21)
今、偶像に対して一々破壊したり戦ったりする必要がないのは、聖書を通して、それらが神に敵対するものであることが知らされてあり、助け主なる聖霊が共に居てくださるからである。
示されたみことばに従順して、偶像に関するものを容赦したり庇ったりすることをせず、神に逆らうものから身を避けることでいのちを守るのであるる。
それらの誘惑が、あらゆる目に見えるものを用いるのは、人は感情によって惑わされるからである。目を奪うような荘厳な建築、清々しく感じる深い森にも、創造主から目を反らさせて木々を拝ませる罠があり、清楚で柔らかな物腰で惑わす者もある。
創造主なる唯一の神を愛する者の心は、どんなものでも愛する豊かさにはなく、その心はいのちをたまわったキリストだけに捧げるものだからである。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものです。(マタイ5:3)
創造主なる唯一の神は。肉の目には見えない方であるから、肉の目で満足を得ようとしてもそれは出来ない。触れて頼ろうとしてもそれは出来ない。
唯一、弟子たちがキリストに拠って、人となられた神を目で見、手で触れたのである。その証による聖書によって今、すべての人が神を知り、滅びないいのちのチャンスを得ている。
主を知るには、聖霊なる神の助けによって解かれるみことばを、語り続ける人々から一つひとつ聴いて、自分でも聖書を開いて読めるようになり、ぽつりぽつりとありのままの祈りが続いて、生きて働く神のことばを経験するようになり、世では決して知ることの無いキリストの平安に守られて、創造主なる神の愛を知って真の神を愛するようになり、永遠のいのちのゴールに至るのである。
偶像からいのちを守って、キリストが備えてくださった愛のプレゼントを受け取り、滅びることの無い永遠をたまわるのは、自分一人の幸いではなく深く家族を愛することであり、友にも救い主を語り告げる愛となるのである。
主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。(使徒16:31)