ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」
しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。
わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。
弟子たちは、天のキリストを見ても御父の御声を聞いても悟れず、「誰が偉いか」と狭い仲間の中で競い合っていた。
イエスさまは彼らに、救いの広さ大きさに目を向けさせようとされ、神の報いを受けるのは誰かを教えられた。
あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。
また、弟子が注目するべき視点を高い所に登る人にではなく、小さな者へと導かる。「見るべきものに気を付けなさい」と、間違えることは死に値することを教えられた。
わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
弟子たちにとって何が大切なのか守るべきは何かを教えるために、イエスさまはゲヘナを語られた。このことから、弟子にとってもゲヘナが決して無関係ではないのだとわかる。
もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。
彼らの捨てるべきものは、世で求める報償であり満足である。それらはキリストが与えようとしておられる和合には至らない。弟子の間にさえ争いをもたらせるものである。
つまずきの道具をすべて捨て去って、塩けを保ち神の国で義の栄冠をたまわるのである。
キリスト者にも世の成功や栄誉が付いてくることはあるが、昨日の成功を今日も心の内に抱きしめるなら平安を失う。
私たちは主の評価のみに拠り頼む者である。昨日の喜びが今日のつまずきとならないように、今日捨てるものを惜しんで塩けを失ってはならない。
あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。
そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。
神様は、イエスさまに聞き続けることを求めておられる。主を知ることを求めて成長し続けるなら、日毎にキリストに似せられて主のご計画は私たちに全うされるだろう。
キリスト者の和合はこのような日々の中にあるのだと思う。
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