さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、自分の弟子たちを通じて
イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」(2~3)
女から生まれた人は迷う者である。イエスを明確に知る時があっても、世の言葉に翻弄される中で確信は失われて行く。人はイエスを離れずに日々新しく知り続ける必要がある。
イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。
目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。
だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(4~6)
イエスを通してなされる神のわざは肉の目にも明らかである。神は誰にでも分かるレベルで「わざによって信じなさい」と言われた。素直であれば、即座に悟ることができる神のあわれみである。
この人たちが行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。
そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。(7~8)
世の権威を纏った人は高い所で自分を飾ることに熱心であるが、群衆を支配しても恩恵を与えることはない。それなのに群衆は世の権威を求めて右往左往している。何を求めるべきなのか分からないからである。
そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。
この人こそ、「見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える」と書かれているその人です。(9~10)
今も、神の救いは身近に備えられている。素直な目で見るみことばにあり、目の前に起こっている事実によって悟ることができるように備えられている。
待ち望んでいた、キリストの到来を知らせるバプテスマのヨハネを見ても悟ることがないのは、目に生臭い世のウロコが張り付いているからである。
まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。(11)
キリストを信じる者の国籍は天にあり、その身は聖霊の宮と書いてある。この身に神が住まわれるのである。そんなことが起こり得るのは、神が触れるものは聖くなり、神を汚すものは存在しないからである。
イエスは聖い天から罪の世に下って来てくださり、らい病人に触れて癒し、罪人と共に食事をして救い出し、汚れた女の涙を喜んで受けてくださった。
罪人と共に十字架刑に処せられ、黄泉まで経験してくださったお方である。しかし、キリストを汚すもの何処にもない。
世の偶像は汚れを恐れたり、清めるための道具立てが必要である。それが汚されたり清められたりするものだからである。人が祭り上げたものは人に依存する物である。
天地創造の神は、人を造られた方なので人に汚されることはない。
この神をうちに宿すキリスト者は、バプテスマのヨハネよりはるかに近しくみことばを聴き、みこころを行うことが出来る者である。
なぜなら、キリストの信仰を宿しており、うちから流れ来るキリストの聖さに洗われているからである。
バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。
あなたがたに受け入れる思いがあるなら、この人こそ来たるべきエリヤなのです。
耳のある者は聞きなさい。(12~15)
サタンはキリストの到来を知っている。だから、人が治めるべく任されている地を乗っ取り、滅びに引き込むべき人々が我に返って、キリストを悟り天の御国を得ることがないように、悪霊どもと策略を巡らせ、あらゆる目くらましを仕掛けている。
今は聖霊によってみことばを悟り、直接キリストを知ることが出来る時である。主は謙って御許に来る人を聖め、キリストの霊から生まれた神の子としてくださる。その人が迷うことはもうない。