あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、
生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。(1~2)
大好きなみことばで、開くと嬉しくなって頬が緩む。
頭の回りが遅い私にこのような単純さは救いで、みことばを聴いたままに受け入れて、何の思惑も計略も考えず、思い煩うこともなく、その通りに信じて従うことはとても楽なのだ。これで成長させていただける乳の力に感謝がいっぱいになる。
この世は常に駆け引きと計略を巡らせて、先さきに気を利かせないと渡れないので、鈍くさい私は何時もどうして良いかわからなかった。
イエスさまに出会った時、永遠に変わることのないみことばを、弱さの中でゆっくり生きることの平和を知った。
ただ、母の顔を見つめて乳を飲む子のようであっても、その間にも成長させてくださるのだと・・。
あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。(3)
「アーメン」
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(4~6)
ご自身が人に捨てられて十字架に向かってくださった主は、人に捨てられるような者を憐れんで選んで下さった。主は嘆きを喜びに変えて、血潮に洗って御側に居場所を備えてくださる。その御力にあって、聖なる祭司とさえ成してくださるのである。
日々キリストの中で神を喜び、ほめたたえる霊のいけにえを捧げるのは、選んでくださった感謝による従順である。
キリストに信頼して、みことばに飛び込むようにして従った時、あり得ないようなお恵みを経験させてくださった。「主は生きておられる」とその度に喜びと感謝を満たしてくださる。
したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、
「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。(7~8)
伝えた福音が救いの実を結ぶかどうかはわからない。むしろ、めったにその実を目にすることはない。それが伝道の未熟さと思うことも多いが、このみことばはその責任を負わないとある。そう、すべては主のなさることであった。