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ターサイ、ほうれん草、水菜、春菊、青梗菜に菜花・・主人が帰ってくる度、籠の中には諸々の菜っ葉が入っている。
「私はバッタか!青虫か!」なんて、つい口をついて出るけれど本当は喜んでいる。
私は菜っ葉が大好きなので、秋には必ずターサイを蒔いてもらって、真冬もタンポポの葉のような青々としたターサイを大切に食べ続ける。
それが、春になると猛烈な勢いで成長し、次々とつぼみをつけるようになるから、今は食べるのが大変忙しい・・、花が咲くまでに食べなければならないので妹は応援団。
「ねえ、私の顔青くなっていないか?今にサナギになって蝶になりそう・・」なんて言って、ハッと気付いた。
今朝のみことば・・そう、携挙(けいきょ)のこと。
イエス様の約束は、私たちを天に迎えに来てくださるとある。携挙を信じたキリスト者は、死者も生きている者もその時天に上げられる。私を迎えに来てくださったら、この私が天に舞い上がること!
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(Ⅰテサロニケ4:16~18)
蝶のようにではなく、それは一挙に引き上げられ主にお会いするとある!一瞬に御霊のからだに変えられて召し上げられるのだ。
そうして、「いつまでも、いつまでも主の御側で、それはそれは、しあわせに暮らしましたとさ・・めでたし、めでたし。」ということ!
「このことばをもって互いに慰め合いなさい。」このように勧められている。
病気が治ったから・・願いが叶ったから・・そんなことではなく、キリスト者の慰めは携挙の約束にあるのだった。
その日を待ち望む者だけに、その時は準備されている。ただ、信仰によって与えられる望みである。
世の終わりの修羅場から脱出させてくださるのは、ただ、キリスト信仰、みことばへの信頼それだけ。
聖書のことばが真実であると信じるなら、もっともっとリアルな希望となり、喜びの内に、主にお会いする時を互いに語り、共に待ち望むことになるだろう。
信仰は自分で選び取るほか無いという厳しさがあるけれど、それは日々イエス様との交わりによって、内に蓄えた聖書のことばが真実であることを教えてくださるから難しことではない。
確かに主は真実なお方だから・・。
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(Ⅰコリント15:44)