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神の箱の前で踊るダビデを「裸踊り」とののしった妻のミカルだったけれど、ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。
しかしミカルには、王が人々とすっかり交わってしまう姿は、権威も威厳も感じられないと腹を立てたのだろう。
ダビデは主の前で、王としてではなく、ひとりの人として喜びを爆発させたのだけれど・・。
スポーツマンであっても、芸術家であっても、科学者であっても、医者であっても・・人はその中に偶像を求め、自分の満足のゆくものに仕立てあげようとする。
彼らは亜麻布一枚の等身大、誰彼に紛れてしまう英雄では受け入れない。
寄って集って次々と重ね着をさせて、やれ割烹着だとか、障害だとか・・、品格も必要だとか・・涙だとか感動だとか・・あらゆるストーリーを着せてゆく・・。
しかし、この世の王サタンは落とすために持ち上げているのであり、ニタニタと時を待って居るに過ぎない。
ダビデの幸いは王服を脱ぎ捨てることができること、それは主に在る者だけの自由。
世にはその自由はない。滅びるまで偶像を演じ続けるしかなく滑稽な裸の王様である。
偶像化して止まない世は、着せた衣が剥がれるとき倍返しでののしるから、彼らは自分自身を偽り、着せられた衣しがみつく他なくなるのだから恐ろしいことである。
キリスト者は仮に何を着せられても、何時でも主の前には亜麻布一枚なのだから、世に対しても常に自由である。
「アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。」(創世記5:5)表現はとてもシンプル。
今、キリスト者にとって「主と共に生きて、時が来て死んだ」このように言われるなら、これ以上の褒め言葉はなくこれ以上の栄誉はない。
葬式において、これに付け加えるための一輪の花さえ必要ないほどである。
生ける今、花は大好きだけれど・・
写真のミニシクラメンは、クリスマス会のビンゴゲームで頂いたもの。「欲しい、欲しい」と騒いでいて、最期の一鉢をゲットした。
な、な、なんと28輪も咲いている。クリスマスからずっと花の数は増えるばかり・・こんなの始めて!
私は花の世話で今まで上手く行ったことがなかったから、これは奇跡。ぽんとガラスコップに放り込んだままだけれど、身近において何時も眺め続けている。
献品してくださった姉妹、本当にありがと!!