ピラトはイエスを捕らえて、むち打ちにした。(1)
ピラトには一切の弁解の余地がない罪がある。裁きの権威を持っていると言いながら、無実と知っているイエスを、こらしめて釈放するという理由でむち打ちにしたからである。
無実なら指一本触れるべきではない。
兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。
彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と言い、またイエスの顔を平手で打った。(2~3)
後にユダヤ人に脅されてイエスに十字架刑を言い渡すことよりも、彼自身の罪としては重いことである。漫然と習わしに沿ったことであろうが、それらは彼が防ぐことができたことだからである。ピラトの許しの中で、イエスさまへのあらゆる暴行、嘲弄が増し加えられたのだ。
十字架は神のご計画にあることであり、人の罪のためのあがないとして、イエスさまが負ってくださったことであるが、暴行や嘲りはまったく不当なことである。本来、十字架の前には人の感謝の涙と、悔い改めの嘆きの中にあるべきことであった。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ53:3)
罪のないキリスト、愛の救い主に、聖画のように光輪が輝いて見えていたなら、誰も侮辱することも、打擲することも出来なかったろう。
しかし、神の聖さは人の目には見えず、病を負い、傷ついて血を流し、疲れ果てて嵐の船で眠り込まれるほどに、弱さを負ってくださり、それほどまでに人と同じ姿になってくださったゆえに、人は彼を尊ばなかった。
それゆえ主は今、私たちの体の痛みも心の痛みもご存じで、癒しを与え脱出の道を備えてくださる。すぐに疲れてしまうこともご存じで、眠る間の命を守っていてくださる。
心が折れそうな時もハラハラと側にいて、みことばをささやいて力づけ、喜びを備えていてくださる。
ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」(4)
イエスに罪のないことがピラトには見えても、ユダヤ人にはそうは見えなかった。彼らは異邦人以上に頑なであったから。
彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。(15~16)
「カイザルのほかには、私たちに王はありません」この言葉は、神の救い主を認めない言葉である。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)
十字架上のイエスさまの執り成しの祈りがなければ、彼らに聖霊の助けはなく、悔い改めに導かれて救われる者は無かった。