新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。
そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。(10~11)
神の選びの民も、キリスト教国?に在っても、異邦人の国でも、独裁者の国に在っても、御救いは聖霊の導きの中で、ひとりキリストの御前に立ってイエスを主と告白して救われるのだ。
十字架の御救いは完全であって、主を告白する者はみな神の子とされ、永遠のいのちをたまわって、神の国に移されるのである。
あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。(12)
救いは誰にとっても一方的な恵みである故に、人は神の御愛を身に染みて経験するのである。
罪の支配から解放された事実によって、神との平和に中に置かれた時に、自分で身に着けるものが示されている。
此処に身を守るための武器は一つもない。それらは弱々しく見えて、どのように信仰の敵と戦えば良いのか・・と思える。
互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。(13~14)
神は徹底的に愛することを教える。赦されたのだから赦しなさいと言われた時キリスト者には「アーメン」だけである。
その愛は、私たちのうちに来てくださったキリストから出る他ないのである。
確かにイエスさまは一切戦われなかった。一息で身を守れる十字架にも、すべての苦痛と侮蔑を受てなを、殺す者嘲る者のために神に執り成して祈られた。これがキリスト者の唯一の武器となる結びの帯である。
イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。(15)
キリストの平和こそは、世にあるどんな敵にも勝利する極意である。この平和によってキリスト者は結ばれキリストのからだである得る。
この奇跡の平和の中に「すべてのことに感謝しなさい」という命令が与えられ、そのことが可能となるのである。
キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。
ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。(16~17)
どんな場合も、その行いがキリストに相応しく聖霊の導きの中に在るのか・・すべての人のために、十字架で死んでくださったキリストの愛から出ていることであるか、常に聖霊に聴き続けなければならない。
そこには賛美があるか、神をほめたたえる詩があふれているか、聖い霊の流れがあるか・・。
世は必ずいよいよ混迷を深めて行く。その泥沼にキリスト者を引きずり込もうと、キリストの証である平安を破壊する罠は、至る所に仕掛けられている。
狼の中に在る羊を守るものは羊の強さや賢さではなく、そのうちに住まわれる主である。
主は「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)