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長くなりますのでこちらに書かせていただきます。
教会生活は長かったのですが教団教派は私あまり関係ないと思います。関わってなにかと助けてくださった先生方に人間的な感謝や親しみはありますし、基本的な聖書の知識は教わりましたが霊的には初めから主です。
洗礼前に聖霊によるバプテスマを受けて、罪責感からの解放と「見よ。すべてが新しくなりました」というよみがえりの確信をいただきました。
初めはご近所に自作のチラシを配るくらいでした。12年ほど前にブログを書くようになって、日常やイエスさまから教わったことを書くようになりました。当初も今も良くも悪くも何のもくろみがあってのことではありません。
イエスさまに拠って生きる中で、良い事も悪いことも、合っていることも間違っていることもそれらを通して、主が関わり続けてくださる今を書いておこうという思いでした。
イエスさまが開いてくださったみことばをひとり喜んでいることは申し訳なくて、それに外に出さないと次に聴けないこともあるのです。だから時には切羽詰まって書いています。でも、それは大変な役得だと気付きました。
教会のことですが、その時その時主のお許しと、時には命令に従っています。
その時その時のみことばはありますが、それを此処で上げても意味はないと思いますのでしません。主との会話の中のひとこまなので・・。
私はそれぞれ意見の違って見える方のメッセージを楽しみに聴かせていただいています。そのメッセージに私は同じ御霊を感じるからです。時に激しい対立のようであっても、語られるみことばには喜んで「アーメン」できるなら聴きます。
それぞれがキリストのからだの器官であり、他の器官の働きを互いにすべて知ることはないでしょう。表現が違ってくることはあると思うのです。それに知るには時間差もあると思っています。みな途上にあるのですから誰も完成されていませんから・・。
でも、そこに在る主への熱心から同じ御霊の臨在を感じて感動します。私はそのとき知識を学んでも居ますが、霊を共有している感覚の方が大きいです。
共に主を分かち合っていて、そこにはに人間的な教える者と教わる者という壁ではない、健全な霊の交わりの方を感じ取っています。たとえ言葉の厳しい方にもそう感じます。
みことばがまっすぐに語られる時、その器官の活発な活動に私は元気をいただきます。それはキリストのからだ全体を巡る血の元気です。
もちろんキリストと違う霊には決して近付きません。みことばによってそれは直ぐにわかりますから・・。
実は、「石ころ」は謙遜な意味の名ではないのです。沈黙に対して、自分をわきまえたり支配することもできないほどの内から吹き出す叫びです。わかりませんよね。ふふふ
イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(ルカ19:40)