すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。
あなたがたに受け入れる思いがあるなら、この人こそ来たるべきエリヤなのです。
耳のある者は聞きなさい。(13~15)
先祖たちが待ち望んだキリストの到来を告げる、バプテスマのヨハネに見聞きしたことを通じて、エリヤを悟ることは彼らには難しかった。
それは、彼らの思い描いていた通りではなかったから、心を開いて耳を傾けることが出来なかったのだ。
この時代は何にたとえたらよいでしょうか。広場に座って、ほかの子どもたちにこう呼びかけている子どもたちのようです。
「笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに胸をたたいて悲しまなかった。」(16~17)
滅びることのないいのちを与えるために、神が遣わされたキリストの力あるわざを間近に見ても、救いのみことばをキリストから直接聞いても、それによって皆が救いの喜びを受けることはない。
ヨハネが来て、食べもせず飲みもしないでいると、「この人は悪霊につかれている」と人々は言い、
人の子が来て食べたり飲んだりしていると、「見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と言うのです。しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します。(18~19)
真実を悟る霊の目が堅く閉ざしてなら、キリストが近づいてくださっても、その近さは揚げ足取りの材料にしかならなかった。
イエスへの指摘は言いがかりに過ぎないが、この非難には人がかろうじて罪と戦い正しさを自任している中に、心にため込んでいる欲望が噴き出して、自由にふるまっている人を攻撃するのは妬みである。
サタンが攻撃に自分の名を用いさせて「悪霊だ、ベルゼブルだ」と言わせることこそ偽りの骨頂である。
でも、聖霊は即座に見分けて霊のうちに教えてくださる。サタンに教わらず、うちにいて下さる聖霊に教わることである。
神の知恵であるキリストのご真実は、キリストによる神のわざがみことばを裏打ちして、信仰を確かなものに育ててくださる。
それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。(20)
カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。
「おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」(23~24)
聖書に預言されたキリストを迎え、神を見るようにして現されるわざを見聞きして、なを信じようとしない頑なさには信仰に根ざす関係を保つ術はもうない。
それは、キリストを見ることなく悪行によって滅びた町々よりも、罪深いことである。目の前に御わざを見て御声を聞き、なをキリストを否定する不信仰が、愛するひとり子をたまわるほどの神の愛に対する彼らの応答であった。
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。(25)
人の知恵によってキリストを悟ることはなく、人の賢さによってキリストを見分けることもない。
今も、神のわざはありふれた日常の中にもあり、あり得ないことが起こっている。
ただ、誇り高ぶる者は意に添わぬものからは目を反らし、頑ななうなじは主のわざを認めてひれ伏そうとはせず、神をあなどって御国を遠ざけている。
しかし、誇るものを何も持たない者の目は、唯一の望みであるキリストのわざを見逃さず、感謝にあふれてひれ伏し、聴いたみことばを抱きかかえるように蓄え、みことばに従順して生きることを願うようになる。福音を天秤に掛けるものを何も持っていないからである。
幼子のように単純で愚かな心は、ただ真っ直ぐにキリストを真似ようとする。神はその心を育ててみことばを悟らせ、生きる力を日々に注いでみこころを行わせてくださる。
そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。
すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。(26~27)
誰も自分からキリストを求め見つけた者はいない。使徒も自分でキリストを探し当てた人はひとりもいない。みなキリストが近づいて招いてくださった。ただ、その時すべてに優先して御声に応答したのである。
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(28)
キリストに来る者は世に満足している者ではなく、世に相応しく応答できずに疲れている者である。真実なものを求めても世に見つけることが出来ずに疲弊している者に、時を備えて招き寄せてくださる。
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(29~30)
招かれて御前に罪の傷口を曝け出し、裁きをお委ねした時、聖霊にふれられた霊、魂はキリストの十字架に包含された死を経て、「見よ。すべてが新しくなりました」という御声を聴いて喜びに浸るのだ。
罪をすべてあがなって迎え入れてくださるキリストは、すべてを赦す柔和さの中で、かって経験したことのない安らぎを与えてくださる。それは、キリストの愛にある永遠に変わることのない安息と平安である。
信仰の年数が増えると、みことばを生きる経験が増えその度に神を知って行く。それは神は御真実であることを教られた数であり、今日を生きる勇気と力も与えて、キリストのくびきの負いやすいことを味わった恵みの数である。