午前中はずっとマタイ受難曲を聞いていた。耳を傾けつつ静かに大根を切り面取りをして、出汁に放り込んで沸々と煮ている。柔らかな大根は茹でる手間も要らず夕食の一品の出来あがり。
昼食の準備も食事中も後片付けをしているときも、ずっと歌声に聞き入りながら手を動かし、口を動かしている間も慕わしい主を感じていた。
私には外国語はわからないので、どれほど繰り返し聴いていても言葉の一つひとつは異言のよう・・。
でも何を歌っているのか、どなたに捧げて歌われているのかは知っている。歌声も旋律も覚えていて、親しい心地よさにリラックスして命が養われて行くよう・・。
バッハを知らなくても、外国語が分からなくても、この歌声に何時間も浸って喜んでおり、キリストの打ち傷によって癒やされた者の幸いを味わっている。
異言は理性的でないと拒絶されることがあるけれど、理性というものがバッハに精通することであり、曲の構成に熟知していることであり、歌手の経歴についても詳しいことなら、そのような理性は木に例えれば枝葉のことであって、いのちを残すものではない。
神は霊であり、いのちを初めに受けるのは霊である。何時もではないけれど、私はたまわった責任によっても異言で祈る。
風のように自由な霊の働きによる祈りは、自分以外のことにある思い煩いからの脱出の備えでもある。自分のことなら願いも、心配も、求めている将来も知性の祈りで事足りる。
しかし、他人の必要をどうして知ることが出来るであろう。永遠までの最善を知るのは神のみである。
イエスさまは異言で祈られることはなかった。それは神であるゆえに人の必要のすべてをご存じだったからである。
また、異言の祈りはみことばの解き明かしを求める祈りとなる。聖書を読んでもさっぱり分からない時があり、度々あり、ほとんどそうであり、その度に伝家の宝刀の如く異言で祈る。
文字が読めても意味が理解できない言葉を、自分ではわからない言葉を用いて尋ねるのは面白い。この時異言は主に聴く通り良き管である。
マタイ受難曲が終わってしまった。台所仕事も終わり大根もすっかりやわらかくなった。クラシックを聞いていた大根は美味しいかな・・。
今日は風が穏やかなので今から歩いてこよう。