悪霊を宿した人は墓場に住んでいた。それは彼らだけのことではなく人はみな同じなのだ。人は必ず死ぬからである。
悪霊どもはイエスに願ってこう言った。「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」
イエスは彼らに「行け」と言われた。すると、彼らは出て行って豚に入った。すると、見よ、その群れ全体がどっとがけから湖へ駆け降りて行って、水におぼれて死んだ。(マタイ8:31~32)
イエスさまが悪霊の願いを聞かれた時、町の人々の心の有り様が明るみに出た。
イエスさまに叫んだ者は救いのチャンスを得たが、沢山の豚を飼って豊かに暮らしていた人々は救いのチャンスを失った。
もし人々が墓場の人の救いを素直に喜び、主の御わざをほめたたえるなら、彼らも永遠の墓場から救われるチャンスがあったのだ。イエスさまを迎えてみことばを聞くことができたのだから・・。
飼っていた者たちは逃げ出して町に行き、悪霊につかれた人たちのことなどを残らず知らせた。
すると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。(マタイ8:33~34)
彼らはイエスさまの御わざを恐れた。世に在る自分たちのものを守るために支配されることを恐れたのだ。主を経験してなを拒むなら救いはもう何処にもない。
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。(ヨハネ14:11)
イエスさまは人が生きるためのすべての必要をご存じである。何が必要なのかは造り主が一番ご存じなのである。
人は何にも執着する必要はなく、失うことの恐れは単なる脅しである。悪霊さえもイエスさまを恐れているのだ。私たちが恐れるべきはわざを成していのちを救ってくださるお方である。
神はまた、人の心に永遠を与えられた。(伝3:11)
悪魔も悪霊も居るけれど神の許しがなければ何も出来ない。ただ、神が人の心に与えられた「永遠への思い」が、今の何かを引き替えに失われて行く事は恐ろしい。
イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(マタイ8:22)
どんなに執着があっても死の場所に留まるべきではなく、いのちの主に居るべきなのである。今も、イエスさまは十字架の死をもって私たちのいのちを惜しみ招いてくださっている。
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