今朝は、目覚めると4時過ぎだった。もう少し眠りたい・・と思いつつ、お手洗いに立って窓を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んで来た。
遠くでホトトギスが鳴いている・・朝はまだ僅かに青みがかった空気の中、表は橋をのぞき見る程度で、濃い霧に閉じ込められていた。
ヨシヤ王はすべての良いことを行ったけれど、ユダの罪をあがなうことは出来なかった。罪をあがなうことが出来るのは、汚れのないイエスさまだけ。
ヨシヤ王はひたすら主を求めて、自分に出来るすべてのことを行ったけれど、神の義の前に、定められたように打たれて死んだ。
それでも、ヨシヤには不満はなかったと思う。彼はみこころを求めたかったのだ。みこころを行う事が喜びだったと思う。
この世に長らえることが祝福だとは思えない。この世が人にとって最も良い所だとは思えないから・・。まして、主を慕い求める者にとっては・・。
主に在っていかに生きたか・・それだけが大切なこと。
それでもつくづく思うことは、信仰は伝承出来るものではないということ。
歴代の王様をみていると、良い王様の子供にとんでもない子供がおり、とんでもない王様の子にもヨシヤ王が居る。
信仰を形式として伝えることは難しいことではないだろう。それが生活のための手段なら引き継ぐことは易いことだろうが・・。
でも、自由の中で、主を求めて生きることを選び取るのは、ひとりで選び取るしかない。
このことは本当に厳粛なこと。
主にあって生き、主にあって死ぬことを喜ぶ信仰は、家族であっても教えることなど出来ない。 (写真はケリ)
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