私にも愛する者はいて、彼らのことを悪く言われることは辛く悲しい。例えその時はその言葉を無視することができても、後になるほど怒りは深く腹にたまる。その根拠が私に因るならなをさらに苦しみを生む。
しかし、まったく言われもなきののしりを受けて、死刑になってくださったイエスさま。私はイエスさまによって救われた者、彼は故もなく責められることの代表となってくださった。
イエスさまを救い主と慕っているのなら、同じ道を行くことは誉れであり喜びであるはず・・そんな事実に思い巡らせていたのだけれど・・。
みことばは口には甘いけれど、腹に効く苦さゆえに、完全に消化するには時間がかかるし、助けも必要だった。「それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」(黙示10:9)

今朝、このみことばを思い出させてくださった。
「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。」(マルコ3:28~29)
神を汚す言葉さえも「それはみな」赦されているのだ!
私にわだかまっていたものが、取るに足りない「しょうもないこと」だと、さらりと流れ、苦く滞っていたみことばが私の内に消化されて行った。
「大切な者だ」と私が守る必要などなかった。主にお委ねしているのだから、守ってくださるのは主。
私が握りしめては、共にみことばに沿わない道を行くことになってしまう・・。

「わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう。」と主は仰せられる。(イザヤ57:19)