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ジミー・マカロック James 'Jimmy' McCulloch
【出生名】
ジェームス・マカロック/James McCulloch
【パート】
ヴォーカル、ギター、ベース
【生没年月日】
1953年6月4日~1979年9月25日(26歳没)
【出生地】
スコットランド ダンバートン
【経 歴】
ザ・ジェイガーズ/The Jaygars(1964~1966)
ワン・イン・ア・ミリオン/One in a Million(1966~1968)
サンダークラップ・ニューマン/Thunderclap Newman(1969~1971)
ベント・フレーム/Bent Frame(1971)
ジミー・マカロック・バンド/Jimmy McCulloch Band(1971~1972)
ストーン・ザ・クロウズ/Stone The Crows(1972~1973)
ブルー/Blue(1973)
ウイングス/Wings(1974~1977)
ホワイト・ライン/White Line(1976)
スモール・フェイセス/Small Faces(1977~1978)
ワイルド・ホーシズ/Wild Horses(1978)
デュークス/The Dukes(1979)
ジミー・マカロックは、スコットランド出身のギタリスト。ポール・マッカートニーのバンド「ウィングス」のリード・ギタリストだったことで知られている。
実兄のジャック・マカロックはドラマーで、ワン・イン・ア・ミリオンやジミー・マッカロック・バンド、ホワイト・ラインでバンド・メイトだった。
【デビュー ~ ワン・イン・ア・ミリオン】
マカロックはスコットランドのダンバートンに生まれ、クライドバンクに移り、のちグラスゴー近くのカンバーノールドで育った。
ジャンゴ・ラインハルトに影響されたマカロックは11歳のときにギターを弾き始め、その年には兄ジャックらと「ザ・ジェイガーズ」というバンドを結成する。ジェイガーズはその後「ワン・イン・ア・ミリオン」と改名し、サイケデリック・ロック・バンドとして活動した。
1967年4月、マカロックはロンドンのアレクサンドラ・パレスで行われた「The 14 Hour Technicolour Dream」というイヴェントに、弱冠13歳10ヵ月の若さで出演。このイヴェントにはザ・フーをはじめ当時の人気バンドが参加していた。また彼はワン・イン・ア・ミリオンのギタリストとしてロンドン市内の他の会場でも演奏した。
この年、ワン・イン・ア・ミリオンはザ・フーのスコットランド・ツアーにサポート・バンドとして同行したほか、「Use Your Imagination」と「Fredereek Hernando」の2枚のシングルをリリースしている。
【サンダークラップ・ニューマン ~ ジミー・マッカロック・バンド】
1969年、マカロックはザ・フーのピート・タウンゼントの友人で作曲家のジョン・”スピーディ”・キーン(vocal, drums)、タウンゼントのアート・カレッジ時代の学友だったアンディ・"サンダークラップ"・ニューマン(piano)とともに、「サンダークラップ・ニューマン」を結成する。なおツアーにおけるサポート・メンバーとして、兄のジャック・マカロックが参加している。
彼らは同年5月にシングル「サムシング・イン・ジ・エアー」を発表する。このシングルは、ピート・タウンゼントがプロデュースを担当するとともに、「Bijou Drains」の変名でベースも弾いている。
この曲がスタジオでミックス・ダウンを終えた時、エンジニアがテーブルを叩きながら「これは1位になる曲だ」と叫んだという話が残っており、それを証明するように同年7月には全英シングル・チャート1位を記録した。これによって、当時15歳だったマカロックは「全英1位となった曲で演奏した最年少ギタリスト」となった。またタウンゼント自身にとっては、プロデューサーとして、そしてミュージシャンとして唯一の全英1位である。
サンダークラップ・ニューマンは引き続きタウンゼントをプロデューサーに迎え、1970年にデビュー・アルバム「ハリウッド・ドリーム」を発表した。これはマカロックの、ギタリストそしてソングライターとしての出発点とも位置付けられるアルバムである。
バンドは1971年1月から4月中旬にかけてイングランド、スコットランド、オランダ、スカンジナビアでツアーを行なったが、その数週間後には解散した。
1971年10月、マカロックはイギリスとドイツで行われたジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズのライヴにギタリストとして参加した後、同年秋には兄ジャックと新たなバンド「ベントフレーム」を結成する。彼らは10月31日にロンドンでデビュー・ステージを踏み、間もなく「ジミー・マカロック・バンド」と名を改めた。1972年2月にはマウンテンのサポートとしてイングランドとスコットランドでツアーを行なっているが、1972年5月に解散した。
この頃のマカロックはすでにセッション・ギタリストとしても引っ張りだこであり、1972年にはジョン・エントウィッスルのセカンド・ソロ・アルバム「風の詩」の録音に招かれ、ピーター・フランプトンとともに「エプロン・ストリングス」と「アイ・フィール・ベター」の2曲でリード・ギターを弾いている。そのほかクラウス・フォアマン、ハリー・ニルソン、スティーヴ・エリスらのセッションにも参加している。
マカロックのギターはブルースから大きな影響を受けており、流麗でメロディックなフレーズが特徴である。おもにギブソンSG、あるいはギブソン・レスポールやギブソン・ファイヤーバードなどを使用していた。
【ストーン・ザ・クロウズ】
1972年6月、マカロックはスコットランドのバンド「ストーン・ザ・クロウズ」に加入する。
ストーン・ザ・クロウズは、「英国のジャニス・ジョプリン」とも言われたマギー・ベル(vocal)を擁するブルース・バンドであるが、同年5月にギタリストのレスリー・ハーヴェイがステージ上の感電事故で死亡したため、存続の危機に立たされていた。マカロックはその後任としてバンドに迎え入れられたのである。
マカロックはさっそく制作途中だったアルバム「オンティニュアス・パフォーマンス」の録音に加わり、「Sunset Cowboy」と「Good Time Girl」でギターを担当した。しかしストーン・ザ・クロウズは、翌1973年6月に解散した。
1973年には、サンダークラップ・ニューマン時代のバンドメイト、ジョン・キーンのアルバム「Previous Convictions」に参加したほか、「ザ・ファントム」の仮名でブライアン・ジョゼフ・フリエル(Brian Joseph Friel)のデビュー・アルバムの制作にも参加している。
またこの年は、短期間であるが、スコットランドのバンド、「ブルー」に加わっている。
【ウイングス ~ ホワイト・ライン】
1973年、マカロックは、ポール・マッカートニーと彼の妻リンダのユニット「スージー&ザ・レッド・ストライプス」から声をかけられた。これがきっかけとなり、1974年1月にマッカートニーのバンド「ウイングス」のメンバーとなった。もともと甘いルックスの若き天才ギタリストとして注目されていたマカロックの名は、これによって世界中に知れ渡ることになった。彼の加入後、最初に発表されたシングル「ジュニアズ・ファーム」(1974年)は全米3位の大ヒットを記録している。
マカロックは、ステージではギターはもちろん、マッカートニーがピアノやアコースティック・ギターを演奏する時にはベース・ギターを担当した。またアルバム「ヴィーナス・アンド・マース」に反ドラッグソングの「メディシン・ジャー」を、「スピード・オブ・サウンド」には「ワイノ・ジュンコ」を提供してリード・ヴォーカルをも担当している。なおこの2曲とも、作詞者は元ストーン・ザ・クロウズのドラマーだったコリン・アレンである。
ウイングスに在籍中の1976年、マカロックは兄のジャック(drume)、デイヴ・クラーク(bass, keyboard, vocal)と新バンド「ホワイト・ライン」を結成した。彼らは数回のライヴを行い、シングル「Call My Name」をリリースしたほか、1976年11月27日にはイギリスのテレビ番組「Supersonic」に出演している。
ホワイトラインは短命に終わったが、1994年には13曲を収録したアルバム「White Line - Complete」がリリースされている。ちなみに、このアルバムをリリースした「マウス・レコード」は、デイヴ・クラークのレーベルである。
マカロックはこのほかにも、1977年にはロイ・ハーパーの「イギリスでの或る日」、リッチ・マーティンの「Bleached」、ロジャー・ダルトリーの「ワン・オブ・ザ・ボーイズ」などのアルバムに参加している。
このころのマカロックはすでにアルコールとドラッグへの深刻な依存に陥っていた。過酷なツアーによる疲労や、若くして名声を得たがゆえのプレッシャーによる精神的疲弊などで荒れていたマカロックは、ウイングスの中で他のメンバーとの衝突も起こしており、とくに真面目な性格のジョフ・ブリットンとはそりが合わなかったという。
マッカートニー夫妻はマカロックを助けようとしていたが、その心配もむなしく彼の状態は改善に向かうことはなかった。
【スモール・フェイセス ~ ワイルド・ホーシズ ~ ザ・デュークス】
1977年9月、マカロックはウイングスを脱退(アルコールとドラッグによるトラブルから解雇された、という説もある)する。そして再結成したスモール・フェイセスにただちに加入し、同月に行なわれたイギリスでのツアーと、アルバム「78 イン・ザ・シェイド」の録音に参加した。
1978年初めにはシン・リジィを脱退したばかりのブライアン・ロバートソンや、ジミー・ベイン、ケニー・ジョーンズと共に「ワイルド・ホーシズ」を結成したが、その春には脱退した。
1979年には「ザ・デュークス」に参加した。デュークスのアルバム「The Dukes」に収録されている「Heartbreaker」は、マカロック最後の作品である。
1979年9月27日、マカロックはロンドン西部にあるメイダ・ヴェールの自宅で、ヘロインの過剰摂取による心不全のため死亡。まだ26歳の若さだった。第一発見者は兄ジャックである。マカロックは新たなバンドを組み、ワーナー・ブラザーズとの契約も決まっていたという。
のちポール・マッカートニーは、マカロックについて「彼には少し危なっかしいところがあり、結果的にそれが彼のためにはならなかったのだろう」と述べ、その死を惜しんでいる。
またピート・タウンゼントは、マカロックが若くして名声を手にしたことがその後のドラッグやアルコールへの依存と早すぎる死につながった可能性があるとして「もし自分が彼の人生に関わっていなければ、彼は今日も生きていたかもしれない」と語っている。
2021年、マカロックの伝記「リトル・ウイング:ジミー・マカロック・ストーリー」が出版された。
【ディスコグラフィ】(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)
<ワン・イン・ア・ミリオン>
★2009年 Double Sight - The Complete Recordings
<サンダークラップ・ニューマン>
1970年 ハリウッド・ドリーム/Hollywood Dream
<ストーン・ザ・クロウズ>
1972年 オンティニュアス・パフォーマンス/Ontinuous Performance
<ウイングス>
1975年 ヴィーナス・アンド・マース/Venus and Mars UK1位, US1位, 日本9位
1976年 スピード・オブ・サウンド/Wings at the Speed of Sound UK2位, US1位, 日本4位
☆1976年 Wings Over America UK8位, US1位, 日本4位
1978年 ロンドン・タウン/London Town UK4位, US2位, 日本4位
★1978年 Wings Greatest UK5位, US29位, 日本24位
★2001年 Wingspan:Hits and History UK5位, US2位, 日本13位 ※ポール・マッカートニー名義
<ホワイト・ライン>
1994年 White Line - Complete
<スモール・フェイセス>
1978年 78 イン・ザ・シェイド/78 In the Shade
<ザ・デュークス>
1979年 The Dukes
<レコーディング・セッション>
◆ジョン・エントウィッスル
1972年 風の詩ホイッスル・ライムズ/Whistle Rymes
◆ジョン・キーン
1973年 Previous Convictions
◆ロイ・ハーパー
1977年 イギリスでの或る日
◆リッチ・マーティン
1977年 Bleached
◆ロジャー・ダルトリー
1977年 ワン・オブ・ザ・ボーイズ/One of the Boys