ROCKSTARS

all about my favorite Rocks.

マイク・ケリー

2023-02-05 08:26:32 | drums

マイク・ケリー Michael Alexander "Mike" Kellie


【パート】
  ドラムス、パーカッション

【生没年月日】
  1947年3月24日~2018年1月18日(69歳没)

【出生地】
  イングランド バーミンガム

【経 歴】
  ザ・カンサスシティ・セヴン(1965~1966)
  V.I.P.'s(1967)
  アート(1967)
  スプーキー・トゥース(1967~1970)
  ボールズ(1970)
  スリー・マン・アーミー(1971)
  パリッシュ&ガーヴィッツ(1971~1972)
  フランプトンズ・キャメル(1972~1973)
  スプーキー・トゥース(1973~1974)
  ジ・オンリー・ワンズ(1976~1981)
  スプーキー・トゥース(1998~1999)
  スプーキー・トゥース(2004)
  ジ・オンリー・ワンズ(2007~2017)
  スプーキー・トゥース(2008~2009)
  ザ・ディストラクションズ(2012~  )
  The Granite Shore(2015~  )


 マイク・ケリーはイギリスのドラマーである。
 50年以上にわたるキャリアを誇り、主にスプーキー・トゥース、オンリー・ワンズのドラマーとして知られている。
 また多忙なセッション・ドラマーでもあり、ジョー・コッカー、トラフィック、ジョージ・ ハリスン、ピーター・フランプトン、モーリス・ギブ(ビージーズ)、ゲイリー・ライト、ジョニー・サンダース、ルーサー・グロヴナー、ジム・キャパルディ、パット・トラヴァース、アンディ・フレイザーなど数多くのミュージシャンをサポートしている。



 ケリーの生まれ育った家庭はとくに音楽好きというわけではなかったが、彼は子どもの頃からスネア・ドラムの代わりに石炭スカットルを叩いたりして、リズムを取ることに興味を持っていた。
 10代の頃、「セント・マイケルズ・ユース・クラブ・バンド」にドラマーとして参加。
 1965年にはバーミンガムの「カンサスシティ・セヴン」というバンドに加入。これがケリーのプロ・ミュージシャンとしてのキャリアのスタートである。
 その後、ソリハルの街にあったチューダー・グランジ・スポーツ・センターの「ザ・トラック」で演奏していた時に、ブライアン・”モンク"・フィンチに招かれ、バーミンガムで「パット・ウェイン & ザ・ビーチコンバース(Pat Wayne & The Beachcombers)」と演奏するようになったが、スティーヴ・ウインウッドの口添えで1967年初頭に「V.I.P's」へ参加する。
 「V.I.P's」は1967年4月にバンド名を「アート」と改めるが、1967年にゲイリー・ライト(vocals, keyboards)が加入したのをきっかけに、「スプーキー・トゥース」と名を替えた。当初のメンバーは、ゲイリー・ライトマイク・ハリスン(vocals, keyboards)、ルーサー・グロヴナー(guitar)、グレッグ・リドリー(bass)、そしてケリーの5人である。
 スプーキー・トゥースはアメリカン・ロックへの接近を試みながら、ハード・ロックやサイケデリック・ロックの要素を吸収昇華させて活動を続ける。ケリーのタイトで重みのあるドラミングはスプーキー・トゥースのサウンドにマッチしており、バンドを支える重要な要素のひとつであった。
 しかしスプーキー・トゥースは1970年に解散。次第に高まってゆくメンバー間の大きな軋轢が解散に至る主な理由である。
 ただし解散間もない1970年の秋に、ハリソン、グロヴナー、ケリー、ジョン・ホウケン(keyboard 元ナッシュヴィル・ティーンズ~ルネッサンス)、スティーヴ・トンプソン(bass 元ジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズ)というラインナップで、ヨーロッパ・ツアーのためにだけいったん再結成し、ツアー後に改めて解散した。
 その後は「スリー・マン・アーミー」や「パリッシュ&ガーヴィッツ」を経て、1971年にピーター・フランプトンのソロ・アルバム『ウィンド・オブ・チェンジ』のレコーディングに参加したことがきっかけとなり、フランプトンのバンド「フランプトンズ・キャメル」の結成に加わった。



 スプーキー・トゥースは1972年に再結成したが、翌73年にドラマーのブライソン・グラハムが脱退したため、ケリーはフランプトンズ・キャメルを離れてグラハムの後任としてスプーキー・トゥースに復帰。
 同年秋には6枚目のアルバム『ウィットネス』のレコーディングに参加したが、この頃にはハリスンとライトの間でバンドの主導権を巡っての対立が生じており、それが原因となって1974年5月にスプーキー・トゥースから脱退した。
 この年ジョニー・アリディのバンドに加わり、夏のフランス・ツアーに同行。


 1976年、ピーター・ペレット、アラン・メア、ジョン・ペリーとともにパワー・ポップ系パンク・バンド「ジ・オンリー・ワンズ」を結成、1981年までニュー・ウェイヴ・シーンで活躍した。
 ケリーは1981年にオンリー・ワンズを脱退すると、音楽業界から離れてカナダのトロント北部の田園地帯に移り、そこで4年間を過ごした。この間ケリーはピアノを学び、曲を書くことに時間を費やした。
 ケリーは1985年にイギリスへ戻り、北ウェールズやスコットランドで農業を営む。


     


 1998年、ライトを除く4人のオリジナル・メンバー(ハリソン、グロヴナー、リドリー、ケリー)が結集してスプーキー・トゥースはまたも再結成し、25年ぶりにニュー・アルバム『Cross Purpose』を発表した。
 再結成ライヴは、2001年に『Live In Europe』としてリリースされている。
 2003年にグレッグ・リドリーが死去したが、2004年6月にハリソン、ライト、ケリーはジョーイ・アルブレヒト(guitar)とマイケル・ベッカー(bass)を加えて「スプーキー・トゥース」の名で活動を再開させ、ドイツでライヴを行った。このうち、ヴォルプスヴェーデとハンブルグでのライヴの模様はDVD『Nomad Poets』(2007年)に収められている。


 2007年、オンリー・ワンズ再結成に参加し、イギリス、ヨーロッパ、日本をツアーした。
 2008年2月、ハリソン、ライト、ケリーをフィーチャーしたスプーキー・トゥースが5度目の始動。Mr.ミスターのギタリストであるスティーヴ・ファリスと、シェム・フォン・シュローク(bass)を伴い、ヨーロッパでツアーを行った。
 2012年、ソロ・アルバムの制作を開始。『Music from The Hidden』というタイトルのこのアルバムは2014年にリリースされ、ケリーはドラムのほか、オルガン、ベース、アコースティック・ギター、パーカッション、リード・ヴォーカル、プロデュースを担当。レコーディングにはゴードン・ジャクソン (accoustic-guitar)、フィンリー・バーカー(guitar)、トニー・ケルシー(guitar)、スティーヴ・ウィンウッド(organ, mandolin, bass)、ビル・ハント(piano)、リーバイ・フレンチ(piano)、トニー・アリス(piano)、ロブ・ハリソン(bass)、スティーヴ・ギボンズ(backing-vocals)、グレッグ・プラット・レイク(guitar, vocals)が参加している。


 その後、病を得たケリーは、短い闘病期間を経て、2017年1月18日に69歳で死去した。




【ディスコグラフィ】
 
 <ソロ・アルバム>
  2014年 Music from The Hidden

 <スプーキー・トゥース>
  1968年 イッツ・オール・アバウト/It's All About
  1969年 スプーキー・トゥー/Spooky Two US44位
  1969年 セレモニー/Ceremony US92位 *with Pierre Henry
  1970年 ザ・ラスト・パフ/The Last Puff US84位 *クレジットは「Spooky Tooth featuring Mike Harrisom」
  1971年 タバコ・ロード/Tabacco Road US152位
      *『イッツ・オール・アバウト』の「Too Much of Nothing」を「The Weight」に差し替えて再発
  1973年 ウィットネス/Witness US99位

 <参加アルバム>
  1971年 アンダー・オープン・スカイズ/Under Open Skies(ルーサー・グロヴナー)
  1971年 ザ・ロウ・スパーク・オブ・ハイヒールド・ボーイズ(トラフィック)US7位
  1972年 Oh How We Danced(ジム・キャパルディ)
  1972年 ウィンド・オブ・チェンジ/Wind of Change(ピーター・フランプトン)
                                    ほか


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ジンジャー・ベイカー

2022-10-23 23:21:40 | drums

ジンジャー・ベイカー Peter Edward "Ginger" Baker

【パート】
  ドラムス、パーカッション

【生没年月日】
  1939年8月19日~2019年10月6日(80歳没)

【出生地】
  イングランド ロンドン

【経 歴】
  The Storyville Jazzmen
  The Hugh Rainey All Stars
  Terry Lightfoot’s Jazzmen
  Johnny Burch Quartet(1961~1962)
  Johnny Burch Octet(1962)
  ドン・レンデル・クインテット/Don Rendell Quintet(1962)
  アレクシス・コーナーズ・ブルース・インコーポレイテッド/Alexis Korner’s Blues Incorporated (1962.6~1963.2)
  グラハム・ボンド・カルテット/Graham Bond Quartet (1963.2~1963.8)
  グラハム・ボンド・オーガニゼイション/Graham Bond Organisation (1963.9~1966.3)
  クリーム/Cream(1966.6~1968.11)
  ブラインド・フェイス/Blind Faith(1969.2~1969.10)
  ジンジャー・ベイカーズ・エアフォース/Ginger Baker’s Airforce (1970.1~1971.1)
  ドラム・クワイアー/Drum Choir(1971)
  ジンジャー・ベイカー & ソルト/Ginger Baker & Salt (1972)
  ベイカー・ガーヴィッツ・アーミー/Baker Gurvitz Army(1974~1976)
  ジンジャー・ベイカー & アフリカン・フレンズ/Ginger Baker & African Friends (1978)
  ホークウインド/Hawkwind(1980~1981)
  ジンジャー・ベイカーズ・ナッターズ/Ginger Baker’s Nutters (1981~1982)
  アトミック・ルースター/Atomic Rooster(1981) ※サポート・メンバー
  ジンジャー・ベイカーズ・エナジー/Ginger Baker’s Energy

  ベイカーランドバンド~ジンジャー・ベイカー & バンド/Bakerandband/Ginger Baker & Band (1982~  ) 
  ジンジャー・ベイカーズ・アフリカン・フォース/Ginger Baker's African Force(1987~  )
  BBM (1994)
  ジンジャー・ベイカー・トリオ/Ginger Baker Trio


 
 ブリティッシュ・ロック界が生んだ最初のスーパー・スター・ドラマー。とくに「クリーム」のドラマーとして名高い。
 
ロック・ドラムにジャズやアフリカン・リズムなどの要素を持ち込んだ偉大なドラマーで、ジャズのフィールドでも活躍した。
 「ローリング・ストーン」誌が選出する「最も偉大な100人のドラマー」では第3位にランクされている。
 なお「ジンジャー」はニックネームである。赤毛であるところからそう呼ばれるようになった。


 南ロンドンのルイシャム出身。
 レンガ職人の父フレデリックと、タバコ店で働く母ルビー・メイとの間に生まれた。
 ポープ・ストリート・スクールではフットボールの選手として活躍。
 空軍の第56飛行中隊に所属していた14歳の頃は、軍隊のバンドでトランペットを演奏するようになる。
 15歳のときにドラムに転向し、1960年代初頭にはフィル・シーメンにレッスンを受けている。
 1950年代後半からジャズ・バンドで演奏活動を始める。高度な演奏技術はすぐ関係者の目に留まるところとなり、ロンドンの代表的なジャズ・クラブとして知られるロニー・スコッツのレギュラーの座に就くなど、ベイカーの存在は次第に注目されるようになる。
 1962年、ドン・レンデル・クインテットに参加するかたわら、アレクシス・コーナーのブルース・インコーポレイテッドに加入し、ブルースやR&Bにも接近するようになる。ベイカーはこの頃セッションですでにジャック・ブルースと知り合っていたが、このふたつのバンドでブルースとバンド・メイトになる。ベイカーとブルースは、この当時からしばしば対立していたが、1963年には、ブルース・インコーポレイテッドで一緒になったグラハム・ボンドの「グラハム・ボンド・トリオ」(のちの「グラハム・ボンド・オーガニゼイション」)の結成に、ともに参加する。バンドはディック・ヘクストール=スミスを加えた強力なカルテットで、1965年には後のロックやジャズ・ロックに多大な影響を与える重要作「The Sound Of 65」をリリースした。





 やがてベイカーは、グラハム・ボンド・オーガニゼイションでの活動に行き詰まりを感じるようになり、エリック・クラプトンにバンドを結成するというアイデアを提案してみた。クラプトンはこれに同意したが、ひとつの条件を出した。それは「ベースをジャック・ブルースにするなら」ということであった。彼とブルースはとにかく対立しがちだったため、ベイカーはこれにとても驚いた。グラハム・ボンド・オーガニゼイション時代はベイカーと衝突したブルースが脱退したということすらあった。実はクラプトンは、ベイカーとブルースの仲が非常に悪いということを知らなかったのだが、結局ベイカーはこの条件を受け入れる。
 1966年6月、ベイカー、クラプトン、ブルースの3人は「クリーム」を結成。
 クリームのデビューは同年7月31日。第6回ナショナル・ジャズ & ブルース・フェスティヴァルがそのステージである。クリームの登場と革新的な演奏は、ロック界を震撼とさせた。

 クリームは解散までに『カラフル・クリーム』『クリームの素晴らしき世界』など4枚のスタジオ・アルバムを発表し、世界的な成功を収めた。
 ライヴでのインプロヴィゼイション主体のエキサイティングな演奏は絶賛され、ロック・ミュージックに多大な影響と変革をもたらした。しかしベイカーとブルースの軋轢は大きくなる一方であり、それに加えてツアーの連続による疲労などでメンバーの仲は冷え切ってしまったため、1968年5月には解散することが決断された。同年11月26日にロイヤル・アルバート・ホールで行われたフェアウェル・コンサートがクリームの最後のライヴとなった。


 1969年になると、クラプトン、ウィンウッド、ベイカーはリハーサルを重ねるようになる。この3人にリック・グレッチが加入して結成されたのが、やはり「スーパー・グループ」として騒がれた「ブラインド・フェイス」である。
 ブラインド・フェイスの誕生はセンセーショナルな話題であった。彼らは1969年6月7日にロンドンのハイド・パークで行われたフリー・コンサートで、実に10万人の聴衆を集めて衝撃的なデビューを果たした。
 同年7月に発表されたブラインド・フェイスのファースト・アルバム『スーパー・ジャイアンツ』(Blind Faith)は、英米ともにチャート1位の大ヒットとなり、ミリオン・セラーを記録した。
 しかし8月24日まで行われたアメリカ・ツアー中にメンバー間で修復しがたい音楽観のずれが生じ、結局10月にはブラインド・フェイスは解散した。活動期間は、実質わずか半年ほどであった。



 

 1970年1月にベイカーは、ウィンウッド、グレッチにデニー・レイン、グラハム・ボンドらを加え、10人編成の自身のリーダー・バンド、「ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース」を結成する。
 この大型バンドは、即興演奏やアフロ・ビートなどを積極的に取り入れたユニークな音楽性を前面に押し出し、ライヴ・アルバムを含む2枚のアルバムを残した。
 エア・フォース解散後はアフリカに渡り、数年間を過ごす。ベイカーは1960年代からアフロ・ミュージックに傾倒しており、アフリカではナイジェリアのアフロ・ビートの巨人フェラ・クティと意気投合してアルバムを3枚制作したほか、「The Africa ’70」とのセッションなどを通してアフリカン・パーカッションに傾倒。72年にはBobby Tenchらの協力で初のソロ・アルバム「Stratavarious」をリリースした。この1972年にはベイカー(drums)、Bud Beadle(sax)、Berkley Jones(guitar)、Joni Haartrup(vocal, percussion)、Laolu Akins(african-drums)、Steve Gregory(tenor-sax, flute)というメンバーで「ジンジャー・ベイカー & ソルト」を結成している。
 こうしたベイカーのアフロ・ミュージックへの接近は、のちの「ワールド・ミュージック」ムーヴメントへ続く先駆的な動向だと言っていいだろう。


 1974年、エイドリアンとポールのガーヴィッツ兄弟と合流し、ハード・ロック・バンド「ベイカー・ガーヴィッツ・アーミー」を結成。
 1980年には、イギリスのサイケデリック・ロック・バンド「ホークウインド」に加入して世間をあっと言わせた。この件についてのちにベイカーは「あれは史上最大のジョークだった。金が必要だったんだ。動機はそれだけだ。」と語っている。1981年にはキース・ヘイル(Keith Hale keyboard)を引き連れてホークウインドを脱退し、自身のグループ「ジンジャー・ベイカーズ・ナッターズ」(Ginger Baker’s Nutters Ginger Baker:drums、Billy Jenkins:guitar、Ian Trimmer:sax、Riki Legair:bass、Keith Hale:keyboard)を結成。その後は「ベイカーランドバンド(その後ジンジャー・ベイカー & バンド)」(Bakerandband/Ginger Baker & Band)、「ジンジャー・ベイカーズ・エナジー」(Ginger Baker's Energy Ginger Baker:drums、John Mizarolli:guitar, vocal、Whitey Davis:guitar, vocal、Henry Thomas:bass、David Lennox:keyboard)を率いて活動した。


 1986年には「パブリック・イメージ・リミテッド」のアルバム『アルバム』のレコーディングに参加している。
 パブリック・イメージ・リミテッドは、1970年代後半のロック界に吹き荒れた席捲したパンク・ロック・ムーヴメントの火付け役にして筆頭バンドだったセックス・ピストルズのジョン・ライドン(ジョニー・ロットン)がピストルズ脱退後に結成したバンドである。ニュー・ウェイヴの旗手だったライドンと、オールド・ウェイヴの代表格のひとりのベイカーのコラボレーションということで話題になった。


 1989年、フリー・ジャズ・グループ『ノー・マテリアル』の、同名のライヴ・アルバムに参加。メンバーは、ベイカー(drums)、ペーター・ブロッツマン(sax)、ソニー・シャーロック(
guitar)、ニッキー・スコペリティス(guitar)、ヤン・カズダ(bass)であった。
 1992年、アメリカのハード・ロック・バンド「マスターズ・オブ・リアリティ」のアルバム『Sunrise on the Sufferbus』に参加。
 1993年、ジャック・ブルース、ゲイリー・ムーアと組んだギター・トリオ「BBM」(ベイカー・ブルース・ムーア)を結成する。一部では「90年代のクリーム」とも騒がれ、翌94年にはアルバム『白日夢』(Around the Next Dream)をリリースしたが、インプロヴィゼイションを重視するベイカーにとっては音楽的指向が満足ゆくものではなかったうえ、メンバー間のエゴのぶつかり合いもあり、この重量級プロジェクトは短命に終わった。
 しかし、様々なセッションや各種プロジェクトへの参加、また自身のトリオを率いるなど、BBM解散後も多彩な活躍を続けた。





 1993年1月、クリームは「ロックンロール・ホール・オブ・フェイム」(ロックの殿堂)入りを果たす。その式典で、エリック・クラプトン、ジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカーは、クリームとして3曲演奏している。
 1994年、ビル・フリーゼル(guitar)とチャーリー・ヘイデン(bass)の、ふたりのジャズ界の名手とともに「ジンジャー・ベイカートリオ」を結成。
 2005年、37年ぶりにクリーム再結成。このできごとは「奇跡」とも言われ、世界を驚かせた。ロック界だけでなく一般紙までもがこのニュースを取り上げたほどである。再結成コンサートは、5月にロイヤル・アルバート・ホールで、10月にはマディソン・スクエア・ガーデンで行われ、世界中のロック・ファンから注目された。

 2008年にはモダン・ドラマーの殿堂入り。2016年にはクラシック・ドラマーの殿堂入りをしている。

 2013年、変性骨関節炎による慢性的な背中の痛みと、慢性閉塞性肺疾患を患っていることを公表した。
 同年にはジンジャーを題材にしたドキュメンタリー映画『ビウェア・オブ・ミスター・ベイカー』(Beware Of Mr. Baker)が公開され、その気難しく、自己破壊的傾向にありながら多作なミュージシャンの生活ぶりが露呈されていた。
 2015年、「ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース 3」のバンド名で翌16年にワールド・ツアーを行う予定があることを発表したが、2016年3月に自宅で倒れる。同年7月には深刻な心臓疾患であると診断され、心臓手術を受けた。この結果、「ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース 3」のツアーはキャンセルを余儀なくされた。
 ジンジャー・ベイカーは長い間ヘロイン中毒とも闘っており、2013年に『ガーディアン』紙に対して「29回」もドラッグから逃れられなかったと語っている。
 2019年10月6日、病気のためにイングランド ケント カンタベリーで死去。80歳没。





 ベイカーの演奏スタイルは、高度なテクニックに裏付けされた自由度の高いものである。ドラミングそのものはパワフルで躍動的、カリスマ性すら漂わせていた。
 ロック界に豊かな即興性と長尺のドラム・ソロを持ち込んだことでも知られる。1960年代に見られるその有名な例が、クリームの『いやな奴』(Toad)や、ブラインド・フェイスの『君の好きなように』(Do What You Like)である。
 また、ツイン・バス・ドラムのセッティングを行った初めてのロック・ドラマーがベイカーだと言われている。


 ベイカーはたいへん気難しい性格であり、率直で辛辣な発言が多いことでも有名。
 長年いろいろなユニットでともにリズム・セクションを形成していたジャック・ブルースに対しては「エゴ剥き出し」「マイクを握ってステージ上で踊りまくる嫌な奴」とこき下ろしているのをはじめ、「ミック・ジャガーは音楽面では無能」(ただし「経営面で天才なのは事実だ」とも語っている)「なぜロックミュージックはあんなに音を大きくしなくてはいけないのだ?」「(ロック・ミュージシャンのほとんどは)とにかくマヌケどもだ」「ポール・マッカートニーは自分は楽譜が読めないなどと自慢している!よくも自分をミュージシャンだと言えたもんだ」「今のポップミュージックはクズだ」などと容赦のない言葉の数々が残っている。


 若き日のベイカーとチャーリー・ワッツ(ローリング・ストーンズ)の関係にも触れておきたい。

 ベイカーとワッツの関係は、まさに「親友」であった。彼らは深い友情で結ばれていた。
 もともとはワッツの母と、ベイカーの最初の妻リズの叔母が知り合いだったということである。
 1950年代の終わりごろには、ワッツはすでにベイカーの演奏に感銘を受けていた。
 ワッツはアレクシス・コーナーの「ブルース・インコーポレイテッド」のメンバーだった1962年、「ジンジャー・ベイカーが仕事を探している」という話を耳にした。ワッツは、「ベイカーのような素晴らしい才能の持ち主に仕事がないのに、自分がこのバンドでドラムを叩いているのはおかしい」と言って、ベイカーにブルース・インコーポレイテッドのドラマーの座を譲ったという。
 ベイカーは「信じられない!」と感謝の言葉を伝えた。ワッツは後日ベイカーに「プロのミュージシャンとしてのキャリアを歩むかどうかも迷っているんだ」とも打ち明けていたそうであるが、精神的にも信頼していたのであろう。
 その後のことである。

 ベイカーはブライアン・ジョーンズの音楽性を高く評価していたが、ブライアンがミック・ジャガーと行動を共にすることになったとき、ベイカーはブライアンに「リズム・セクションを加えたらどうか」と提案した。ブライアンらはドラマーを見つけたが、ベイカーはそのドラマーを「ひどいもの」だとしたうえで、「チャーリー・ワッツを雇ったらどうだ」と彼らに進言したという。
 ベイカーとワッツはお互いに敬意を払い、「家族のように」思っていたそうである。
 そしてその友情は終生続いた。



【ディスコグラフィ】

 <アレクシス・コーナー・ブルース・インコーポレイテッド>

  1963年 Alexis Korner and Friends

 <グラハム・ボンド・オーガニゼイション>
  1964年 クルークス・クリーク/Live at Klooks Kleek
  1965年 サウンド・オブ '65/The Sound of '65
  1965年 ゼアズ・ア・ボンド・ビトゥイーン・アス/There's a Bond Between Us

 <クリーム>
  1966年 フレッシュ・クリーム/Fresh Cream
  1967年 カラフル・クリーム/Disraeli Gears
  1968年 クリームの素晴らしき世界/Wheels of Fire
  1969年 グッバイ・クリーム/Goodbye
  1970年 ライヴ・クリーム/Live Cream
  1972年 ライヴ・クリーム Vol.2/Live Cream Volume Ⅱ
  2003年 BBCライヴ/BBC Sessions
  2005年 リユニオン・ライヴ05/Royal Albert Hall London May 2-3-5-6, 2005

 <ブラインド・フェイス>
  1969年 スーパー・ジャイアンツ/Blind Faith

 <ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース>
  1970年 ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース/Ginger Baker's Air Force
  1970年 ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース 2/Ginger Baker's Air Force 2

 <グラハム・ボンド>

  1970年 ソリッド・ボンド/Solid Bond

 <フェラ・クティ>
  1971年 Fela's London Scene

  1971年 ホワイ・ブラック・マン・デイ・サファー/Why Black Man Dey Suffer
  1972年 ライヴ!/Live!
 

 <ジンジャー・ベイカー & ソルト>
  2010年 Live in Munich Germany 1972

 <ベイカー・ガーヴィッツ・アーミー>
  1974年 進撃/Baker Gurvitz Army
  1974年 天上の闘い/Elysian Encounter
  1975年 燃えあがる魂/Hearts On Fire
  2003年 Flying in and Out of Stardom

  2005年 ライヴ・イン・ダービー75/Live in Derby

 <ジンジャー・ベイカー & アフリカン・フレンズ>

  2010年 Live in Berlin Germany 1978

 <ジンジャー・ベイカーズ・エナジー>
  1992年 Ginger Baker's Energy
  2010年 Live in Milan Italy 1980

 <ホークウインド>
  1980年 宇宙遊泳/Levitation(全英21位)
  1983年 ゾーンズ/Zones
  1984年 This Is Hawkwind, Do Not Panic


 <ジンジャー・ベイカーズ・ナッターズ>
  1981年 Ginger Baker Live
  1987年 In Concert
  2011年 Live In Milan Italy 1981
  
 <パブリック・イメージ・リミテッド>
  1986年 アルバム/Album(UK14位, US115位)

 <ジンジャー・ベイカーズ・アフリカン・フォース>
  1987年 Palanquin's Pole

 <ノー・マテリアル>

  1989年 ノー・マテリアル/No Material

 <マテリアル>
  1993年 ライヴ・イン・ジャパン/Live In Japan

 <ジンジャー・ベイカーズ・バンド>
  1992年 IMABARI MEETING 1991 LIVE 瀬戸内海音楽祭 Vol.1 ※オムニバス・アルバム
 
 <マスターズ・オブ・リアリティ>
  1993年 サンライズ・オン・ザ・サファーバス/Sunrize on the Sufferbus

 <ジンジャー・ベイカー・トリオ>
  1994年 Going Back Home
  1996年 Falling Off The Roof


 <ジャック・ブルース>
  1993年 Cities of the Heart

  1994年 バースディ・ギグ/Cities of the Heart

 <BBM>
  1994年 白昼夢/Around The Next Dream(全英9位)

 <アンディ・サマーズ>

  1996年 Synaesthesia

 <ソロ・アルバム>
  1972年 アフロ・ロックの真髄/Stratavarious
  1976年 Eleven Sides of Baker
  1983年 From Humble Oranges
  1986年 ホーシス・アンド・トゥリーズ/Horses & Trees
  1987年 アフリカン・フォース/African Force
  1990年 Middle Passage

  1992年 アンシーン・レイン/Unseen Rain
  1994年 Ginger Back Home

  1995年 Ginger Baker The Album
  1996年 Falling Off the Roof
  1998年 Do What You Like
  1999年 Coward of the Country
  2001年 African Force
  2006年 African Force:Palanquin's Pole
  2014年 Why?

 


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リック・リー

2022-10-11 21:22:13 | drums

リック・リー Richard "Ric" Lee

【パート】
  ドラムス、パーカッション

【生没年月日】
  1945年10月20日~

【出生地】
  イングランド ノッティンガムシャー州マンスフィールド

【経 歴】
  マンスフィールズ/The Mansfields(1962~1965)
  イヴァン・ジェイ & ザ・ジェイメン/Ivan Jay & The Jaymen(1965~1966)
  テン・イヤーズ・アフター/Ten Years After(1966~1974)
  チキン・シャック/Chicken Shack(1980~1982)
  テン・イヤーズ・アフター/Ten Years After(1988~  )
  ブレイカーズ/The Breakers(1994~  )
  リック・リー・ブルース・プロジェクト/Ric Lee Blues Project(2011)
  リック・リーズ・ナチュラル・ボーン・スウィンガーズ/Ric Lee's Natural Born Swingers(2012~  )



 テン・イヤーズ・アフターのドラマー。オリジナル・メンバーである。
 ブルース・ロックを中心に演奏活動を続けている。


 リック・リーが最初に加入したのは「ファルコンズ」(Falcons)である。バンドの創設メンバーのひとりであった。
 1962年、ノッティンガム周辺を拠点に活動していた「マンスフィールズ」(The Mansfields)のメンバーとなったが、1965年8月にデイヴ・クィックマイアーに代わって「イヴァン・ジェイ & ザ・ジェイメン」(Ivan Jay & the Jaymen)に加入した。このバンドにはアルヴィン・リー(guitar)とレオ・ライオンズ(bass)が在籍していた。
 当時のイヴァン・ジェイ & ザ・ジェイメンは、アルヴィン・リー(guitar, vocal)、レオ・ライオンズ(bass)、リック・リー(drums)からなるギター・トリオだった(アルヴィンとリックは同姓であるが、血縁関係はない)が、1966年にチック・チャーチル(keyboard)がバンドに加わると、バンドは「Blues Trip」名乗るようになる。このバンドが1966年秋に改名して、「テン・イヤーズ・アフター」となるのである。「このバンドが10年後も続いているように」という願いがその由来である。


 テン・イヤーズ・アフターは、1967年にデビュー・アルバム『テン・イヤーズ・アフター』を発表。続いてセカンド・アルバム『イン・コンサート』(当時としては異例のライヴ・アルバム)をリリース。この2枚のアルバムによって、アルヴィン・リーのギターを中心としたパワフルな演奏が注目されるようになる。当時のブリティッシュ・ロック・シーンはブルース・ブームに沸いていたが、テン・イヤーズ・アフターはこれに押され、ブリティッシュ・ロック界のホープと見なさるようになったのである。
 1969年8月にはウッドストック・フェスティヴァルに出演し、『アイム・ゴーイング・ホーム』などを演奏したが、これは今でも語り継がれるほどの大熱演であり、テン・イヤーズ・アフターの人気は確固たるものになった。
 野外フェスティヴァルとしては、そのほか「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル」(1969年)、「シアトル・ポップ・フェスティヴァル」(1969年)、「アトランタ・ポップ・フェスティヴァル」(1969年)、「ワイト島フェスティヴァル」(1970年)などに招かれているが、これもテン・イヤーズ・アフターの人気の表われである。


 リック・リーのドラミングはアルヴィン・リーのギターに呼応するかのようにパワフルであり、さらにはジャズ的アプローチも自在で、ベーシストのレオ・ライオンズとともに強力なリズム・セクションを形成し、バンドを支えた。
 1980年、レッド・ツェッペリンのドラマー、ジョン・ボーナムが急死した。その後任候補として様々なドラマーが予想されたが、その中にはリック・リーの名もあった。このことからもリックのドラミングの評価の高さが窺える。


     


 テン・イヤーズ・アフターの全盛期は1969~1972年頃で、この間にリリースしたアルバム6作はすべて全英トップ40入りしている(とくに『ストーンヘンジ』『夜明けのない朝』『クリックルウッド・グリーン』『ワット』は4作連続全英トップ10入り)ほか、うち3作は全米アルバム・チャートでトップ20入りしている。
 英米ばかりでなく、北欧圏でも高い人気を誇っていたが、レーベル側とアルヴィン・リーで方向性を巡る意見の相違が顕著となってきたうえに、アルヴィン・リーがソロ活動を活発に行うようになり、バンドの勢いは失われてゆく。
 1974年にリリースした通算8枚目のスタジオ・アルバム『バイブレーションズ』は全く精彩を欠いた内容であり、低迷が続くテン・イヤーズ・アフターはこのアルバムを最後に解散した。
 1975年8月4日には、サンフランシスコのウィンターランドで行われたアメリカでのフェアウェル・コンサートに出演。


 解散後のリックは1976年に音楽出版やレコード制作、マネージメントに関わるプロダクションを設立し、演奏からは一時から遠ざかる。
 1980年、イギリスの名門ブルース・ロック・バンド「チキン・シャック」(Chicken Shack)に加入。
 1983年、テン・イヤーズ・アフターは7月1日限定で再結成し、ロンドンで行われた「マーキー・クラブ25周年記念コンサート」に出演。また同年8月のレディング・フェスティヴァルにもテン・イヤーズ・アフターとして出演している。


 1988年、いくつかのコンサートとレコーディングのため再始動したテン・イヤーズ・アフターに加わる。バンドは1989年8月に15年ぶりのアルバム『アバウト・タイム』を発表。
 以後、アルヴィン・リーの脱退(2003年)と死去(2013年)、メンバー・チェンジなどがありながら、テン・イヤーズ・アフターのドラマーとして活動を続けている。


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 テン・イヤーズ・アフター以外の活動としては、1994年には、旧友のイアン・エリス(bass 元サヴォイ・ブラウン)と「ブレイカーズ」(The Breakers)を結成。1995年7月に発表したアルバム『Milan』には、レオ・ライオンズやチック・チャーチルもゲスト参加している。
 ブレイカーズは1996年3月にヨーロッパで放送されたNBCスーパー・チャンネルの番組「Talking Blues」に出演し、ブライアン・アダムス、ボニー・レイットと共演している。
 また2000年にはサヴォイ・ブラウンのキム・シモンズとナサニエル・パーターソンのヨーロッパ・ツアーに加わった。


 2011年には「リック・リー・ブルース・プロジェクト」(Ric Lee's Blues Project)を結成。このバンドは翌2012年には「リック・リーズ・ナチュラル・ボーン・スウィンガーズ」(Ric Lee's Natural Born Swingers)と改名。メンバーはリックのほか、ボブ・ホール(piano 元サヴォイ・ブラウン)、ダニー・ハンドリー(guitar, vocal アニマルズ)、スコット・ホイットリー(bass)だったが、ハンドリーとホイットリーがバンドを去ったのち、2015年にジョン・アイダン(guitar, vocal ヤードバーズ)が加わった。


 2019年5月には、自叙伝『From Headstock To Woodstock』を出版している。


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マイケル・ジャイルズ

2022-08-09 00:35:35 | drums

マイケル・ジャイルズ Michael Rex Giles

【パート】
  ドラムス、ボーカル

【生没年月日】
  1942年3月1日~

【出生地】
  イングランド ハンプシャー州ウォータールーヴィル

【経歴】
  ザ・ダウランズ&ザ・サウンドトラックス(1961~1963)
  トレッドセッターズ・リミテッド(1963~1967)
  ザ・ブレイン(1967)
  ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ(1967~1968)
  キング・クリムゾン(1968~1969、1970)
  マクドナルド & ジャイルズ(1970)
  ジャクソン・ハイツ(1972~1973)
  グリムス(1973)
  21stセンチュリー・スキッツォイド・バンド(2002~2003)
  マイケル・ジャイルズ・マッド・バンド(2008~  )



 キング・クリムゾンの初代ドラマー。
 ベーシストのピーター・ジャイルズは実弟である。


 ハンプシャー州ウォータールーヴィルに生まれ、南イングランドに位置するドーセット州のボーンマスで育つ。
 10代のころにスキッフルやロックンロールの影響を受け、ドラムを叩くようになる。

 1960年1月、弟でベーシストのピーター・ジャイルズとともにローカルのセミ・プロ・バンド「ジョニー・キング & ザ・レイダース」に加入。「デイヴ・アンソニー & ザ・レベルズ」を経て、1961年11月、ピーターとともに、エヴァリー・ブラザーズを信奉していたバンド「ザ・ダウランズ&ザ・サウンドトラックス」に参加する。これがジャイルズ兄弟の本格的な音楽活動の始まりである。
 ザ・ダウランズ&ザ・サウンドトラックスはボーンマスの人気バンドであった。ジャイルズ兄弟はこのバンドに約2年在籍し、その間7枚のシングル・レコードを残している。この中にはジミー・ペイジがレコーディング・メンバーに加わっているものもある。
 1963年9月には、ホーン・セクションをフィーチュアしたインストゥルメンタル・コンボ・バンド「ザ・トレンドセッターズ・リミテッド」に加入、パーロフォンにレコーディングを残しているほか、渡英公演を行ったベン・E・キングらのバッキングも務めた。


 1967年8月、マイケルはピーターとともに、ザ・トレンドセッターズ・リミテッド改めザ・ブレインを脱退。
 ふたりは新聞にメンバーの募集広告を出すが、これがきっかけとなって同じドーセット州出身であるロバート・フリップと出逢い、1967年8月に「ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ」を結成。
 1967年の終わり頃にはロンドンへ進出し、デラムとレコーディング契約を結ぶ。
 1968年6月、元インフィニティのイアン・マクドナルドと、彼の恋人であるジュディ・ダイブル(vocal、元フェアポート・コンヴェンション)がジャイルズ・ジャイルズ & フリップに加入し、イアンとの繋がりでやはりインフィニティに在籍していたピート・シンフィールドが歌詞を提供するようになる。
 同年7月、イアンと破局したジュディがバンドを離れる。
 同年9月13日、ジャイルズ・ジャイルズ & フリップのデビュー・アルバム『チアフル・インサニティ・オブ・ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ』が発表されたが、セールスは全く振るわなかった。
 同年12月、ピーター・ジャイルズの代わりとしてグレッグ・レイク(bass, vocal)が加入するプランが持ち上がり、ジャイルズ・ジャイルズ & フリップは一度もライヴでの演奏をすることなく、バンド名を改めることになった。
 これが「キング・クリムゾン」の誕生である。


 キング・クリムゾンは1969年1月からリハーサルを開始し、4月9日にロンドンのスピーク・イージーでステージ・デビューを果たした。
 その後7月5日にはロンドンのハイド・パークで行われたブライアン・ジョーンズ(ローリング・ストーンズ)追悼ライヴに、8月9日には第9回ナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティヴァルに出演するなどして、広くロック・ファンの耳目を集めるようになる。
 10月10日に発表したクリムゾンのデビュー・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』は、その先鋭的な音楽性でシーンに多大な衝撃を与えた。
 クリムゾンは『クリムゾン・キングの宮殿』発表直後からアメリカ・ツアーを開始したが、その最中だった12月にマイケルとイアン・マクドナルドは、突然クリムゾンからの脱退を表明した。フリップとの間にできた溝、音楽的指向の違いや過酷なツアーによる心身の疲労などがその理由である。


 フリップから引きとめられたもののマイケルの脱退の意思は固かった。
 しかし代替メンバーの補充が思うように進まず、クリムゾンの活動も停滞するという苦境に立たされたフリップから短期のサポートを依頼され、マイケルは1970年1月~4月にかけて行われたクリムゾンのセカンド・アルバム『ポセイドンのめざめ』に弟ピーターとともに参加している。
 そしてレコーディング終了後、改めてイアン・マクドナルドと合流し、「マクドナルド & ジャイルズ」の結成に至るのである。
 マクドナルド & ジャイルズは1970年5月から約2ヵ月にわたるレコーディングを行い、11月にファースト・アルバム『マクドナルド & ジャイルズ』を発表した。
 しかしイアンは、不本意な状態で『マクドナルド & ジャイルズ』を発表せざるえをえなかったことに対する不満があり、それに加えて当時の恋人であるシャーロット・ベイツ(『マクドナルド & ジャイルズ』のジャケットにイアンと写っている)との離別がもとで精神的なケアが必要となり、セラピーを受けるためにアメリカへ渡った。このため、マクドナルド & ジャイルズはその後まもなく自然消滅してしまった。


 マクドナルド & ジャイルズ消滅後はおもにセッション・ドラマーとしてさまざまなレコーディングに参加しているほか、ジャズ・ドラマーとしても活動。
 ジャクソン・ハイツ(元ナイスのドラマー、リー・ジャクソンが結成したバンド)の作品や、ケヴィン・エアーズの『夢博士の告白』などのほか、ロジャー・チャップマン(元ファミリー)、レオ・セイヤー、ロジャー・グローヴァー(元ディープ・パープル)、グラハム・ボネット(元レインボー)、ペンギン・カフェ・オーケストラ、ブライアン・フェリー(元ロキシー・ミュージック)、グレッグ・レイク、イアン・マクドナルドらの作品に参加している。


 1978年、ピーター・ジャイルズ、デイヴ・マクレエ(元ニュークリアス)、ジョン・G・ペリー(元キャラヴァン)、ジェフリー・リチャードソン(元キャラヴァン)、マイケル・ブレイクスリー(元トレッドセッターズ・リミテッド。『マクドナルド & ジャイルズ』にトロンボーンで参加している)らを迎えてレコーディング。これがマイケルのソロ・アルバム『プログレス』として、実に24年後の2002年にようやく発表された。
 1983年にはデヴィッド・カニンガム、ジェイミー・ミューア(元キング・クリムゾン)との共作で映画『Ghost Dance』のサウンド・トラックを制作した。この作品は1995年にCD化されている。


 2002年、マイケルとイアン・マクドナルドは共同で『マクドナルド & ジャイルズ』のリマスターを行ったが、これをきっかけとしてマクドナルド、ピーター・ジャイルズ(元キング・クリムゾン)、メル・コリンズ(元キング・クリムゾン)、ジャッコ・ジャクジク(元レベル42)と「21stセンチュリー・スキッツォイド・バンド」を結成した。バンドに命名したのはロバート・フリップである。
 このバンドは初期キング・クリムゾンやマクドナルド&ジャイルズのナンバーをレパートリーとしていたが、マイケルは2002年の日本ツアーお終えた後、2003年初頭に脱退している。
 2008年にはエイドリアン・シヴァース(horns)、ダニエル・ペニー(guitar)とのトリオで「マイケル・ジャイルズ・マッド・バンド」を結成し、翌09年に『The Adventures Of The Michael Giles MAD BAND』を、2011年にはキース・ティペット(piano)を迎えた編成でライヴ・アルバム『In The Moment』を発表している。



近年のマイケル・ジャイルズ


【ディスコグラフィ】
(☆=ライヴ・アルバム ★=コンピレーションアルバム)


 <ソロ>
  2002年 プログレス/Progress *1978年録音

 <ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ>
  1968年 チアフル・インサニティ・オブ・ジャイルズ・ジャイルズ & フリップ/The Cheerful Insanity of Giles, Giles and Fripp
  2001年 Metaphormosis
  2001年 ザ・ブロンデスベリー・テープス/The Brondesbury Tapes

 <キング・クリムゾン>
  1969年 クリムゾン・キングの宮殿/In the Court of the Crimson King
  1970年 ポセイドンのめざめ/In the Wake of Poseidon

 <マクドナルド & ジャイルズ>
  1970年 マクドナルド & ジャイルズ/McDonald & Giles 

 <ジャクソン・ハイツ>
  1972年 フィフス・アヴェニュー・バス/Fifth Avenue Bus
  1972年 ラガマフィンズ・フール/Ragamuffins Fool
  1973年 バンプ・ン・グラインド/Bump n' Grind

 <マイケル・ジャイルズ、ジェイミー・ミューア、デヴィッド・カニンガム>
  1996年 Ghost Dance

 <21stセンチュリー・スキッツォイド・バンド>
  2002年 オフィシャル・ブートレグ Vol.1/Official Bootleg Vol.1
 ☆2003年 ライヴ・イン・ジャパン/Live in Japan

 <ピーター・ジャイルズ、マイケル・ジャイルズ>

 ★2009年 The Giles Brothers 1962>1967 

 <マイケル・ジャイルズ・マッド・バンド>
  2009年 The Adventures of the Michael Giles MAD BAND
  2011年 In the Moment

 <レコーディング・セッション>
  1971年 

   Clever Dogs Chase The Sun(ケニー・ヤング)
   Under Open Skies(ルーサー・グロヴナー)
  1972年 
   Nigel Lived(マレー・ヘッド)
   New Hovering Dog(B.J. コール)
   Duffy Power(ダフィ・パワー)
  1973年
   シルヴァーバード/Silverbird(レオ・セイヤー:UK2位, US209位)
   B.J. Arnau(B.J. Arnau)
   Food of Love(イヴォンヌ・エリマン)
   Hunter Muskett(Hunter Muskett)
   I Love You This Much(Jefferson)
   The Magic's in the Music(Ken Tobias)
   So Long Ago The Garden(Larry Norman)
   Unfinished Picture(ルパート・ハイン)
   Two Faced(Fischer & Epstein)
   Grimms(Grimms)

  1974年 
   ジャスト・ア・ボーイ/Just a Boy(レオ・セイヤー:UK4位, US16位)

   夢博士の告白/The Confessions of Dr. Dream and Other Stories(ケヴィン・エアーズ)
   Streetwalkers(チャップマン-ホイットニー)

   Jumblequeen(Bridget St. John)
   Lane Changer(Michael Fennelly)
   Messages(Steve Swindells)
   Storyboard(Mick Audsley)
   Butterfly Ball(ロジャー・グローヴァー)
  1975年
   アナザー・イヤー/Another Year(レオ・セイヤー:UK8位, US125位)
   Hard Road(Lennie MacDonald)

   Backwoods(Gary & Terry Woods)
  1976年
   サンセット・ウェディング/Sunset Wading(ジョン・G・ペリー)
   I/You(Brian Protheroe)

   Silent Mother Nature(Catherine Howe)
   Power House(Duffy Power)
  1977年
   Graham Bonnet(グラハム・ボネット)
   Flyaway(Nutshell)
  1978年
   ワイズ・アフター・ジ・イヴェント/Wise After the Event(アンソニー・フィリップス)
   Rocking in Rhythm(Bardot)

   I'm Grateful(Garth Hewitt)
  1979年
   サイズ/Sides(アンソニー・フィリップス)
   Believe It Or Not(Nutshell)

  1984年
   ブロードキャスティング・フロム・ホーム/Broadcasting from Home(ペンギン・カフェ・オーケストラ)
  1986年
   Earthrise(Tandy & Morgan)
  1993年
   タクシー/Taxi(ブライアン・フェリー:UK2位, US79位)
  1995年
   Seabird(ジョン・G・ペリー)
 ★1997年

   The Greg Lake Retrospective:From the Beginning(グレッグ・レイク)
  1999年
   ドライヴァーズ・アイズ/Drivers Eyes(イアン・マクドナルド)
  2002年
   Passion(マレー・ヘッド)
  2004年
  ☆Silver White Light Live at the Isle of Wight 1970(テリー・リード)


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