ROCKSTARS

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デヴィッド・バイロン

2022-08-27 16:06:37 | vocal

デヴィッド・バイロン David Garrick(stage name:David Byron)

【パート】
  ボーカル

【生没年月日】
  1947年1月29日~1985年2月28日(38歳)

【出生地】
  イングランド エセックス州エッピング

【経 歴】
  スパイス(1967~1969)
  ユーライア・ヒープ(1969~1976)
  ラフ・ダイアモンド(1977)
  デヴィッド・バイロン・バンド(1980~1982)
  

 ユーライア・ヒープの初代ボーカリスト。
 美しいハイ・トーン・ヴォイスと、派手なステージングで、ユーライア・ヒープ全盛期のフロント・マンとして活躍した。


 母はジャズ・クラブのシンガー。
 バイロンは、幼い頃から本名でテレビの子供向け番組やバラエティー番組に出演していた。
 1958年から1964年まではウォルサムストウにあるフォレスト・スクールに通っており、この頃はフットボールの選手として活躍していた。
 1965年、エッピングをベースに活動する「ストーカーズ」という名のセミプロ・バンドに加入し、ミック・ボックス(guitar)と出会う。
 1967年にストーカーズが解散すると、バイロンはボックスやナイジェル・ペグラム(drums)らと「スパイス」を結成。のちこのバンドにポール・ニュートン(bass)とアレックス・ネピアー(drums)が加入する。
 同時にボックスとともにアヴェニュー・レーベルと契約、スタジオ・ミュージシャンとしても仕事をしていた。この当時のスタジオ・ミュージシャン仲間にダニエル・ブーン(当時の名はピーター・スターリング)がいる。
 1968年11月、スパイスは唯一のシングル『What About The Music / In Love』をリリース。同姓同名のポップ・シンガーがいたため、この頃にステージ・ネームを「デヴィッド・バイロン」に変えている。
 1969年末、スパイスにケン・ヘンズレー(keyboard, guitar 元トー・ファット)が加入する。バンドはまもなくプロデューサーのジェリー・ブロンの発案で「ユーライア・ヒープ」と改名(諸事情で1970年2月までは「スパイス」として活動し、1970年3月から正式に「ユーライア・ヒープ」として始動)
 1970年、ユーライア・ヒープのファースト・アルバム『ユーライア・ヒープ・ファースト』(全米186位、日本41位)がリリースされる。
 1973年5月、初来日。日本武道館を含めて5公演を行った。
 1975年、ファースト・ソロ・アルバム『テイク・ノー・プリズナーズ』を発表。
 ユーライア・ヒープは、ディープ・パープルと並ぶブリティッシュ・ハード・ロック・バンドとして成功、バイロンも世界的な名声を得たが、ツアーに次ぐツアーによる疲労の蓄積、アルコール依存症の深刻化、ケン・ヘンズレーを始めとするメンバーとの対立など多くの問題を抱えていたため、1976年7月のスペイン・ツアーを最後にユーライア・ヒープを解雇された。
 バイロン在籍時のユーライア・ヒープがバンドの黄金時代と言われており、ヒープ在籍時に10枚のアルバムに参加している。


     


 ユーライア・ヒープを離れたバイロンは、クレム・クレムソン(guitar, 元コロシアム、元ハンブル・パイ)、ジョフ・ブリットン(drums, 元ウィングス)、ウィリー・バス(bass)、デモン・ブッチャー(keyboard)と「ラフ・ダイアモンド」を結成した。バンドは「スーパー・グループ」として注目され、1977年2月にアルバム『ラフ・ダイアモンド』を発表したが、アルバム・セールスは全米103位と芳しいものではなく、ほどなくバイロンはバンドを脱退した。


 1978年、セカンド・ソロ・アルバム『Baby Faced Killer』を発表したのち、ロビン・ジョージ(guitar)と組んで「デヴィッド・バイロン・バンド」を結成。(バイロンvocal、ジョージguitar、メル・コリンズsax、ボブ・ジャクソンkeyboard、ロジャー・フラヴェルbass、ジョン・シェアーdrums)
 このバンドはクレオール・レコードと契約し、アルバム1枚とシングル2枚を残している。
 「デヴィッド・バイロン・バンド」はセカンド・アルバムのレコーディングも予定されていたが、実現することなく1982年に解散した。
 1983年から84年にかけては3枚目のソロ・アルバム『That Was Only Yesterday』用に3曲の録音を行ったが日の目を見ることはなかった。(このアルバムは2008年なって発表されている)


     


 ケン・ヘンズレーがユーライア・ヒープから脱退(1980年)したのち、1981年にミック・ボックスとトレヴァー・ボルダーはバイロンに、ユーライア・ヒープに戻るよう招請したが、バイロンはこれを断っている。


 1985年2月28日、アルコール依存症にともなう肝硬変のため、イギリスのバークシャーで死去。38歳。
 ツアー中だったユーライア・ヒープは、「魔法使い」を演奏してバイロンを追悼した。


 2003年、1980年~1982年の間に録音された「デビッド・バイロン・バンド」のデモ音源や未発表ライブ音源、ソロ・アルバム用のリハーサル音源が発見され、同年に『Lost and Found』のタイトルでリリースされている。


     


【ユーライア・ヒープ】
 1970年 ユーライア・ヒープ・ファースト/Very 'Eavy… Very 'Umble(全米186位、日本41位)
 1971年 ソールズベリー/Salisbury(全米103位、日本47位)
 1971年 対自核/Look at Yourself(全米93位、全英39位、日本5位)
 1972年 悪魔と魔法使い/Demons and Wizards(全米23位、全英20位、日本28位)
 1972年 魔の饗宴/The Magician's Birthday(全米31位、全英28位、日本43位)
 1973年 ユーライア・ヒープ・ライヴ/Uriah Heep Live(全米37位、全英23位、日本22位)
 1973年 スウィート・フリーダム/Sweet Freedom(全米33位、全英18位、日本45位)
 1974年 夢幻劇/Wonderworld(全米38位、全英23位、日本76位)
 1975年 幻想への回帰/Return to Fantasy(全米85位、全英7位、日本74位)
 1976年 ハイ・アンド・マイティ/High and Mighty(全米161位、全英55位)

【ラフ・ダイアモンド】
 1977年 ラフ・ダイアモンド/Rough Diamond(全米103位)

【デヴィッド・バイロン・バンド】
 1981年 On the Rocks
 2003年 Lost and Found(1980年~1982年録音)

【ソロ・アルバム】
 1975年 テイク・ノー・プリズナーズ/Take No Prisoners
 1978年 Baby Faced Killer
 2008年 That Was Only Yesterday(1984年録音)


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マイク・ブルームフィールド

2022-08-27 12:13:58 | guitar

マイク・ブルームフィールド Michael Bernard "Mike" Bloomfield

【パート】
  ギター、ボーカル

【生没年月日】
  1943年7月28日~1981年2月15日(37歳)

【出生地】
  アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ

【経 歴】
  バターフィールド・ブルース・バンド(1965~1967)
  エレクトリック・フラッグ(1967~1968、1974)
  KGB(1975)
  
  

 1960年代のブルース・ロック・シーンを代表するギタリスト。
 エレクトリック・ブルース・ギタリストの先駆者的な存在である。
 その実力は「白人ブルース・ギタリストの中でも最高峰」とも評価されており、ボブ・ディランは「彼は出会った中で最高のギタリストだった」、カルロス・サンタナは「彼をはじめて見た時に私の人生は変わった。生涯をかけて彼のようなギタリストになりたいと思わずにはいられなかった」と語っている。
 「ローリング・ストーンの選ぶ史上最も偉大な100人のギタリスト」では、2003年版第22位、2011年版第43位にランクされている。


          


 イリノイ州シカゴのノース・サイドで会社経営者の息子として、ユダヤ系の裕福な家庭で生まれ、育つ。
 少年時代はサウス・サイドで過ごし、ラジオでBBキング、マジック・サム、マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフらのブルースに親しむ。
 やがて、ブルームフィールド家で働いていたメイドを通じてマディ・ウォーターズやリトル・ウォルター、オーティス・ラッシュのような伝説のブルース・ミュージシャンたちと出会う。16歳の頃にはシカゴのブルース・シーンで彼らとジャム・セッションしながらステージに立っており、その後徐々に認められるようになる。
 1964年には、ブルームフィールドの評判を耳にしたコロンビア・レコードのプロデューサー、ジョン・ハモンドと契約、ニューヨークでレコーディングを行った。
 レコーディング終了後にシカゴに戻ったブルームフィールドは、ポール・バターフィールドから声をかけられ、「バターフィールド・ブルース・バンド」にリード・ギタリストとして加入する。

 
 1965年、ブルームフィールドはボブ・ディランと出会うが、この時ディランはブルームフィールドのギターを聴いて非常に大きな衝撃を受け、すぐにアルバム『追憶のハイウェイ61』のレコーディングにブルームフィールドを招請した。レコーディングではまず「ライク・ア・ローリング・ストーン」の収録を予定しており、アル・クーパーがギターを弾く予定だった。しかしブルームフィールドが現れてギターを弾くや否やクーパーはすぐに「もう自分にはやることがない。こんな素晴らしいギタリストを前にして自分がギターを弾くなんて馬鹿げている」と思ったという。これがブルームフィールドとクーパーの出会いである。
 同年7月25日、バターフィールド・ブルース・バンドの一員としてニューポート・フォーク・フェスティヴァルに参加。ブルームフィールドは急遽アル・クーパーとともにボブ・ディランのバックも務めた。この時ディランはエレクトリック・ギターを持ってロック・ミュージシャンとともに演奏したことで聴衆から大きなブーイングを浴びるという有名な事件が起きている。
 バターフィールド・ブルース・バンドは、1965年10月にファースト・アルバム『ポール・バターフィールド・ブルース・バンド』を、1966年8月には名盤の誉れ高いセカンド・アルバム『イースト・ウエスト』(全米65位)を発表。彼らのエレクトリック・スタイルで演奏するブルースは、シカゴのブルース・シーンに大きな影響を与えた。


          


 1967年にバターフィールド・ブルース・バンドを脱退したブルームフィールドは、バディ・マイルス(drums)や、シカゴ時代の盟友であるバリー・ゴールドバーグ(organ)、ニック・グレイブナイツ(vocal)、ハーヴェイ・ブルックス(bass)らとともに「エレクトリック・フラッグ」を結成。このバンドはホーン・セクションの入った革新的な編成で、ブルームフィールドはブルース、ソウルはもちろん、ゴスペルやカントリーからもインプピレーションを得て、独自のサウンドを生み出そうとした。エレクトリック・フラッグの登場は画期的で、ブラッド・スウェット&ティアーズと並んで注目されたが、ブルームフィールドはドラッグへの依存が健康に悪影響を及ぼすようになっていたため、ファースト・アルバム『ア・ロング・タイム・カミン』(全米31位)の録音後に脱退している。
 1968年、モビー・グレープのアルバム『グレープ・ジャム』に参加。
 同年、アル・クーパーからジャム・セッションのアルバム制作を提案され、1960年代を象徴するアルバムのひとつである『スーパー・セッション』(全米12位)のレコーディングに参加した。ただしブルームフィールドは不眠症で体調が不安定であることを理由に、レコーディング途中で置手紙をして姿を消した。


 重い不眠症に悩んでいたブルームフィールドは、自宅にこもって映画音楽の制作やプロデュース・ワークをこなすようになったが、1968年9月26日~28日にはサンフランシスコのフィルモア・ウェストでアル・クーパーと、『スーパー・セッション』の再現的意味を持つライヴを行うことになった。この模様を収録したアルバムが、1969年にリリースした『フィルモアの奇蹟』(全米18位)である。
 『スーパー・セッション』『フィルモアの奇蹟』の2枚のアルバムによって、ロック界には既存のグループから離れた自由な演奏形態である「セッション」のブームが起こった。
 しかしブルームフィールドは、最終日の9月28日の演奏をまたしてもすっぽかしてしまう。不眠症から逃れるための薬物への依存と逃避がその理由だったという。


          
          『スーパー・セッション』


          
          『フィルモアの奇蹟』


 アル・クーパーとは、1968年12月にもフィルモア・イーストでライヴを行ったが、これは2003年に『Filmore East; The Lost Concert Tapes 12/13/68』として発表された。
 同年6月、ジャニス・ジョプリンのアルバム『コズミック・ブルース』のレコーディングに参加。
 この年ソロ・アルバム『イッツ・ノット・キリング・ミー』(全米127位)と、フィルモア・ウェストで録音した『ライヴ・アット・ビル・グラハムズ・フィルモア・ウェスト』をリリースしている。


 1970年代に入るとヘロイン中毒のため活動のペースが落ちてゆく。
 一時はギターからも離れたが、カルロス・サンタナらベイ・エリアのミュージシャンたちのバック・アップで演奏活動を徐々に復活させ、1973年にはジョン・ハモンド・ジュニア(guitar)、ドクター・ジョン(piano)とアルバム『三頭政治』(全米105位)を発表。
 1974年には「エレクトリック・フラッグ」の再結成に参加。
 1975年にはカーマイン・アピス(drums)、レイ・ケネディ(sax, vocal)、リック・グレッチ(bass)、バリー・ゴールドバーグ(keyboard)とともに「KGB」を結成したが、ブルームフィールドは薬物中毒が悪化したためアルバム『KGB』に参加したのみでほどなくバンドを離れた。
 1977年には、アルバム『If You Love Those Blues, Play 'Em as You Please』を発表している。


          


 その後のブルームフィールドは再び薬物依存が悪化し、1981年2月15日、カリフォルニア州サンフランシスコにおいて37歳で死去。駐車場に停めた車の中で意識不明になっているところを発見されたという。ヘロインの過剰摂取による死亡だと言われている。
 この数ヵ月後にはアル・クーパーからの要請によるセッションが予定されていたという。


 カルロス・サンタナが初めてブルームフィールドに会った時のことである。
 独特のギター・スタイルであること、またメキシコ出身のマイノリティであることなどを理由にしばしば心ない批判を受けていたサンタナは、一種の被害者意識から攻撃的な言動を相手に浴びせることも珍しくなかった。ブルームフィールドに対しても「いつかお前を潰してやる」と脅したが、ブルームフィールドは「君ならできるかもしれないね。がんばってくれよ。」とサンタナにエールを送った。これを聞いたサンタナは「彼の気持ちが伝わった気がした。もう虚勢を張るのはやめようと心に決めた」とのちに語っている。
 ブルームフィールドの人柄が偲ばれるエピソードである。



【ディスコグラフィ】

 <ポール・バターフィールド・ブルース・バンド>
  1965年 ポール・バターフィールド・ブルース・バンド/The Paul Butterfield Blues Band US123位
  1966年 イースト・ウェスト/East-West US65位

 <エレクトリック・フラッグ>
  1968年 ア・ロング・タイム・カミン/A Long Time Comin' US31位

 <KGB>
  1975年 KGB/KGB US(ビルボード)124位

 <参加レコーディング>
 *アル・クーパー、マイク・ブルームフィールド、スティーヴン・スティルス
  1968年 スーパー・セッション/Super Session US12位


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