マイク・ブルームフィールド Michael Bernard "Mike" Bloomfield
【パート】
ギター、ボーカル
【生没年月日】
1943年7月28日~1981年2月15日(37歳)
【出生地】
アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ
【経 歴】
バターフィールド・ブルース・バンド(1965~1967)
エレクトリック・フラッグ(1967~1968、1974)
KGB(1975)
1960年代のブルース・ロック・シーンを代表するギタリスト。
エレクトリック・ブルース・ギタリストの先駆者的な存在である。
その実力は「白人ブルース・ギタリストの中でも最高峰」とも評価されており、ボブ・ディランは「彼は出会った中で最高のギタリストだった」、カルロス・サンタナは「彼をはじめて見た時に私の人生は変わった。生涯をかけて彼のようなギタリストになりたいと思わずにはいられなかった」と語っている。
「ローリング・ストーンの選ぶ史上最も偉大な100人のギタリスト」では、2003年版第22位、2011年版第43位にランクされている。
イリノイ州シカゴのノース・サイドで会社経営者の息子として、ユダヤ系の裕福な家庭で生まれ、育つ。
少年時代はサウス・サイドで過ごし、ラジオでBBキング、マジック・サム、マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフらのブルースに親しむ。
やがて、ブルームフィールド家で働いていたメイドを通じてマディ・ウォーターズやリトル・ウォルター、オーティス・ラッシュのような伝説のブルース・ミュージシャンたちと出会う。16歳の頃にはシカゴのブルース・シーンで彼らとジャム・セッションしながらステージに立っており、その後徐々に認められるようになる。
1964年には、ブルームフィールドの評判を耳にしたコロンビア・レコードのプロデューサー、ジョン・ハモンドと契約、ニューヨークでレコーディングを行った。
レコーディング終了後にシカゴに戻ったブルームフィールドは、ポール・バターフィールドから声をかけられ、「バターフィールド・ブルース・バンド」にリード・ギタリストとして加入する。
1965年、ブルームフィールドはボブ・ディランと出会うが、この時ディランはブルームフィールドのギターを聴いて非常に大きな衝撃を受け、すぐにアルバム『追憶のハイウェイ61』のレコーディングにブルームフィールドを招請した。レコーディングではまず「ライク・ア・ローリング・ストーン」の収録を予定しており、アル・クーパーがギターを弾く予定だった。しかしブルームフィールドが現れてギターを弾くや否やクーパーはすぐに「もう自分にはやることがない。こんな素晴らしいギタリストを前にして自分がギターを弾くなんて馬鹿げている」と思ったという。これがブルームフィールドとクーパーの出会いである。
同年7月25日、バターフィールド・ブルース・バンドの一員としてニューポート・フォーク・フェスティヴァルに参加。ブルームフィールドは急遽アル・クーパーとともにボブ・ディランのバックも務めた。この時ディランはエレクトリック・ギターを持ってロック・ミュージシャンとともに演奏したことで聴衆から大きなブーイングを浴びるという有名な事件が起きている。
バターフィールド・ブルース・バンドは、1966年10月にファースト・アルバム『ザ・バターフィールド・ブルース・バンド』を、1966年8月には名盤の誉れ高いセカンド・アルバム『イースト・ウエスト』(全米65位)を発表。彼らのエレクトリック・スタイルで演奏するブルースは、シカゴのブルース・シーンに大きな影響を与えた。
1967年にバターフィールド・ブルース・バンドを脱退したブルームフィールドは、バディ・マイルス(drums)や、シカゴ時代の盟友であるバリー・ゴールドバーグ(organ)、ニック・グレイブナイツ(vocal)、ハーヴェイ・ブルックス(bass)らとともに「エレクトリック・フラッグ」を結成。このバンドはホーン・セクションの入った革新的な編成で、ブルームフィールドはブルース、ソウルはもちろん、ゴスペルやカントリーからもインプピレーションを得て、独自のサウンドを生み出そうとした。エレクトリック・フラッグの登場は画期的で、ブラッド・スウェット&ティアーズと並んで注目されたが、ブルームフィールドはドラッグへの依存が健康に悪影響を及ぼすようになっていたため、ファースト・アルバム『ア・ロング・タイム・カミン』(全米31位)の録音後に脱退している。
1968年、モビー・グレープのアルバム『グレープ・ジャム』に参加。
同年、アル・クーパーからジャム・セッションのアルバム制作を提案され、1960年代を象徴するアルバムのひとつである『スーパー・セッション』(全米12位)のレコーディングに参加した。ただしブルームフィールドは不眠症で体調が不安定であることを理由に、レコーディング途中で置手紙をして姿を消した。
重い不眠症に悩んでいたブルームフィールドは、自宅にこもって映画音楽の制作やプロデュース・ワークをこなすようになったが、1968年9月26日~28日にはサンフランシスコのフィルモア・ウェストでアル・クーパーと、『スーパー・セッション』の再現的意味を持つライヴを行うことになった。この模様を収録したアルバムが、1969年にリリースした『フィルモアの奇蹟』(全米18位)である。
『スーパー・セッション』『フィルモアの奇蹟』の2枚のアルバムによって、ロック界には既存のグループから離れた自由な演奏形態である「セッション」のブームが起こった。
しかしブルームフィールドは、最終日の9月28日の演奏をまたしてもすっぽかしてしまう。不眠症から逃れるための薬物への依存と逃避がその理由だったという。
『スーパー・セッション』
『フィルモアの奇蹟』
アル・クーパーとは、1968年12月にもフィルモア・イーストでライヴを行ったが、これは2003年に『Filmore East; The Lost Concert Tapes 12/13/68』として発表された。
同年6月、ジャニス・ジョプリンのアルバム『コズミック・ブルース』のレコーディングに参加。
この年ソロ・アルバム『イッツ・ノット・キリング・ミー』(全米127位)と、フィルモア・ウェストで録音した『ライヴ・アット・ビル・グラハムズ・フィルモア・ウェスト』をリリースしている。
1970年代に入るとヘロイン中毒のため活動のペースが落ちてゆく。
一時はギターからも離れたが、カルロス・サンタナらベイ・エリアのミュージシャンたちのバック・アップで演奏活動を徐々に復活させ、1973年にはジョン・ハモンド・ジュニア(guitar)、ドクター・ジョン(piano)とアルバム『三頭政治』(全米105位)を発表。
1974年には「エレクトリック・フラッグ」の再結成に参加。
1975年にはカーマイン・アピス(drums)、レイ・ケネディ(sax, vocal)、リック・グレッチ(bass)、バリー・ゴールドバーグ(keyboard)とともに「KGB」を結成したが、ブルームフィールドは薬物中毒が悪化したためアルバム『KGB』に参加したのみでほどなくバンドを離れた。
1977年には、アルバム『If You Love Those Blues, Play 'Em as You Please』を発表している。
その後のブルームフィールドは再び薬物依存が悪化し、1981年2月15日、カリフォルニア州サンフランシスコにおいて37歳で死去。駐車場に停めた車の中で意識不明になっているところを発見されたという。ヘロインの過剰摂取による死亡だと言われている。
この数ヵ月後にはアル・クーパーからの要請によるセッションが予定されていたという。
カルロス・サンタナが初めてブルームフィールドに会った時のことである。
独特のギター・スタイルであること、またメキシコ出身のマイノリティであることなどを理由にしばしば心ない批判を受けていたサンタナは、一種の被害者意識から攻撃的な言動を相手に浴びせることも珍しくなかった。ブルームフィールドに対しても「いつかお前を潰してやる」と脅したが、ブルームフィールドは「君ならできるかもしれないね。がんばってくれよ。」とサンタナにエールを送った。これを聞いたサンタナは「彼の気持ちが伝わった気がした。もう虚勢を張るのはやめようと心に決めた」とのちに語っている。
ブルームフィールドの人柄が偲ばれるエピソードである。
【ディスコグラフィ】
<ポール・バターフィールド・ブルース・バンド>
1966年 イースト・ウェスト/East-West US65位
<エレクトリック・フラッグ>
1968年 ア・ロング・タイム・カミン/A Long Time Comin' US31位
<KGB>
1975年 KGB/KGB US(ビルボード)124位
<参加レコーディング>
*アル・クーパー、マイク・ブルームフィールド、スティーヴン・スティルス
1968年 スーパー・セッション/Super Session US12位
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