息子の魚料理の話から続きまして・・・。
重い話になりますが、
食べ物の好き嫌いについて
思いを吐き出します。
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子育ての中で、私は、
子どもが苦手な食べ物は
あっさり
「嫌なら食べなくていいよ」
と許してきました。
苦手克服?
しなくていいよ。
それを食べなくたって死なない死なない。
他のもので栄養とればいいんだから。
小学校で完食指導され、
子どもが登校を拒否した時は、
そりゃ嫌だよね、休んでいいよー
と休ませました。
(はっきり言って、人権侵害ですしね!)
私は、子どもに、
理不尽だと思っても
先生の言うことは素直に聞いて頑張る
従順さではなく、
むしろ、嫌なものは嫌だと
はっきり主張する強さを
身につけてほしかったのです。
(理不尽じゃないことは
素直に聞いて頑張ってほしいですけどね!)
それは、私にとっては、
「好き嫌いはみっともない。
食材と作った人に感謝して
全部きれいに食べなさい」
というマナーよりも
ずっと大切なことでした。
その背景には
自分の辛い経験があります。
息子が作った、何かの白身魚の香草焼き
以下、写真は全て息子の料理。
私自身が子どもの頃は、
家でも学校でも
好き嫌いは許されませんでした。
「出されたものは絶対に残してはいけません」
という方針のもと、
苦手なものも、大嫌いなものも、
残さず食べさせられました。
もともと私は
食事に対して非常に消極的な子だったので、
母は苦労したようです。
小食・偏食の子をもつ親って
確かに大変なんですよね。
食べさせなければ、という責任感。
「好き嫌いゼロ、食べ残しゼロ」という
「あるべき像」への執着。
周囲の目、余計なアドバイス。
プレッシャー。
ストレス。
それが「食べない子」に対する苛立ちになり、
牙を剥いてしまうんですよね。
なんとか食べさせようと
調理を工夫したり、
取引したり、説教したり、
なだめたりすかしたり脅したり、
果ては、怒鳴ったり、叩いたり。
いつまでも居残らせ
差別的に冷ややかに扱うのも当たり前。
そこまでくると
虐待と言われても仕方のない様相を呈してきます。
それでも、大人は、
「きちんとした子を育てるための躾なんだから、仕方ない」
と自らを正当化してしまうのです。
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真面目な優等生タイプである私の母は、
料理上手でもあり、
腕によりをかけて
いろいろ工夫もしてくれたそうです。
今でも母は、
当時、どれだけ大変だったか、
自分がいかに工夫し、調理に手間をかけたか
という話を武勇伝のようにします。
が、あれこれ工夫しても
あまり功を奏さなかったようで、
そうなると、次に来るのが
スパルタ式の食事の強制です。
(手間暇かけた分、憎さ百倍?!)
私を「きちんと食べる、きちんとした子」にすることに
躍起になっていた節があります。
「今の旬はこれだから、
この行事にはこの料理だから、
必ずこれを食べねばならない」
といった強制も多かったように思います。
季節や伝統を大事にする、
「きちんとした家族」でありたかったのでしょう。
そういうところにプライドを持つ人でした。
・・・確かに、どれも
間違ったことではありません。
でもね。私は、本当は言いたかった。
何でも食べられる人は食べたらいいし、
伝統を守りたい人は守ればいいし、
旬のものを食べたい人は食べればいい。
でも、私に押しつけないで。
私には食べない自由をくれ!
大人になった今は(帰省時など)そう言って
きっぱり拒否するけれど、
子どもの分際では
我慢するしかありませんでした。
怒られながら、
吐き気を我慢して少しずつ口に入れ
噛まずに無理に呑み込むか、
心を無にするあまり
同じ物をずーっと口の中で噛み続けるか…
家でも学校でも、
私にとって食事とは、
感覚を閉ざし、苦痛に耐える時間でした。
そして、
「好き嫌いゼロ、食べ残しゼロ」を美徳とする
大人達による
長年にわたる善意の指導の結果、
私は、食事そのものが嫌いになりました。
「嫌い」を我慢し過ぎて、
「好き」がゼロになったのです。
・・・虐待めいた「食事指導」の話や、
その時の子どもの様子などは、
母の美化された思い出話には登場しません。
そもそも、当時から
「(自分も大変だけど)子どもはもっと辛いだろうな」
という子ども目線の発想自体、無かったのだと思う。
…特に思いやりに欠けた人では無いのですが。
「好き嫌いゼロ、食べ残しゼロ」の呪縛って
それほど強いものなんですね。
太刀魚…かな?
微妙な見た目だけど、案外イケた。
話を戻します。
大学に入って親の監視から逃れた後、
私は、数年、
けっこうな偏食を貫きました。
幼少時から
一日三回、毎日、何年にもわたって行われた
「完食強制」のせいで
少しずつ死んでいった心を回復させるために
必要なトリートメントだったんだろう
と自分では思っています。
実際、それが良かったみたい。
偏食の自由を謳歌する中で、
徐々に「好き」なものが増えてきました。
そして数年が経った後、
私は、いつしか
好き嫌いを主張しながら
普通に美味しく食事が出来るようになっていました。
好き嫌いを主張するようになって
気付いたのですが、
私の「嫌い」の総本山は、魚介類でした。
味というより臭いがダメなのです。
もう我慢などするものか。
食べないし、料理もしない!
魚屋にも漁港にも行かない!
嫌なものは嫌なの!
・・・こんな親に育てられて、
まさか息子が
これほどの魚好きになるとは(笑)
全くの想定外です。
子どもが何を好きになるか、なんて、
親のコントロールが及ぶことではない
ということでしょうか。
「味覚は保守的だから、
子どもの頃食べ慣れたものは
大人になっても離れられなくなる
(だから子どもの頃の食事は大切)」
という話は良く聞くけど(マクドナルド戦略とかで)、
一方で、
「小さい頃食べ過ぎたから、もう見るのも嫌だ!」
「子どもの頃は食べることが無かったけど、
今では大好物!」
なんて話も聞くし・・・。
どれも一理あるようで、
どれも一概には言えないような。
結局、その人次第?
ついでに・・・
息子の好き嫌いは、全て受入れ、許し、
何の工夫も働きかけもしなかったのですが、
成長と共に勝手に変化してきました。
食べられるようになったものもあれば、
嫌いなままのものもある。
それでいい、と思います。
とりあえず、私としては、
自分が受けたハラスメントを連鎖させない
という目標はクリアできたと思うので、
その点では満足です!
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