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道の駅青洲の里へ。

2023年10月01日 09時54分48秒 | ドライブ

9月27日 木曜日 晴
5年以上行っていない道の駅青洲の里に行きました。
9:20発~根来山げんきの森~道の駅青洲の里~11:50帰宅.。
走行55km。
7~8年ぶりです。平日ですが、駐車場は8割の入り。
準備体操中でした。根来山を回るコース・・・元気な時に一度歩きました。変化があって楽しいコースです。

また寄り道。道の駅青洲の里手前。和歌山県立高等看護学院。モダンな建物です。

JA紀の里 那賀ふれあい市場 奥に道の駅青洲の里 駐車場が広くなっています。

奥から

JA紀の里 那賀ふれあい市場方向

案内板 華岡青洲のお墓、記念公園があります。

静かな時間が流れています。

見返し 立派過ぎる空間。

休憩室 ゆったりして食事もできます。

ふれあい市場でイチジク200円、柿150円、キウイ(5個)320円。そのほか和歌山のジュースなどの名産品、他府県の名産品を置いていました。

華岡青洲のお墓、華岡青洲顕彰記念公園

顕彰記念公園の説明板 全体敷地は外科手術器具「メス」の 形状等。

西暦1804年(文化元年) 華岡青洲は世界で 止めて全身麻酔に成し、世界で初めて乳癌の 摘出手術に成功した人です。
この功績を顕 彰するために記念公園を建設しました。
この公園の全体敷地は外科手術器具「メス」の 形状をなした石庭公園です。
又、この「メス」形状の 中に御影石材で配置した人体図を下記のとおり 形取をしています。
 1左右2個の御影石は献身的な人体実験となられた 母(於) 妻 (加恵) の象徴である。
 2頭部を表し、 又、青洲自身でもある。 【漢詩は青洲の直筆)
 3胸部を表し、 その左右に樹立する石柱は助骨でもあり、又、数多くの門下生の象徴でもある。
 4脊髄を表し、胸部、腰部にもつながっている。
 5腰部を表す。 中央部には 「通仙散」の主薬[曼陀羅華] が植えられている。
青洲自作の漢詩について
その意味するところは、自分は、何の富貴栄達も望まない。
自然に恵まれた田舎に住んでいるが、ひたすら思うことは瀕死の 病人を回生させる医術の奥義を極めたい、ということのみである。
金を儲けて絹の着物を着たい、立派な馬に乗りたいとは思わ ない。
日々、患者の痛みや苦しみに心を痛め、 どのようにして 患者を救えばよいのか、何とかならないものか。
そればかりを 思う毎日である。すなわち青洲は、業をおえて故郷にかえる弟子達に、 このように 医師としての心構えを説いた。まさに現代にも通じることばである。
寄贈 那賀ライオンズクラブ
腰部を表す。 中央部には 「通仙散」の主薬[曼陀羅華] が植えられている。

脊髄、肋骨、頭部(華岡青洲)落ち葉がいっぱい・・・誰も掃除をしないのですね!
近くに何とか高等何とかがありますが・・・「どのようにして 患者を救えばよいのか」が悲しく聞こえます。

左右2個の御影石は献身的な人体実験となられた 母(於) 妻 (加恵) の象徴

奥からの見返し。

竹が切られて華岡青洲のお墓が見える。

お墓から見返し

華岡家(華岡青洲)の墓地  ※墓地掃除は、身内縁者がするもので他人はしてはいけません。



和歌山県指定文化財 華岡青洲墓碑
華岡青洲は宝暦十年(1760)十月二十三日(旧)名手庄西野山村 平山(紀の川市西野山)の開業医、華岡直道の長男として生まれ二十 三歳の時京都に遊学、吉益南涯に師事、後に大和見立について外科を 専攻し、更に広く儒学をも修め天明五年(1785)二月に郷里「平山 」に帰った。
天明五年六月父直道の死と共に家業を継承し多忙な診療のかた わら新しい治療方法発見のため詳細な臨床記録と、内外古今の諸書 を照合しつつ研究をつづけた。
また寸暇を見ては山野をめぐり薬草の 採取に没頭し、ついにチョウセンアサガオ(曼荼羅華)を主剤とする 麻酔薬「麻沸散」を発明し母「お継」妻「加恵」の献身的な協力に よって文化元年(1804)十月十三日(旧)大和五条藍屋利兵衛の母 「勘」の乳癌手術に成功をおさめた。
後、青洲は医学、医療に対し、極めて真摯な思索をつづけ「活物窮 「理」の哲理を把握し彼の盛名は天下に轟き患者は言うに及ばず華岡 流医術の伝授を乞う者が、北は津軽をはじめ南は薩摩・大隅に至る 六十余ヶ国から続々と春林軒の門を叩き「平山」は怱ち医学の中心地と なった。
青洲はその後も広く外科手術の開拓と後進の指導に専念し、多くの 輝かしい業績を残したが天保六年(1835)十月二日(日)七十六歳 の天生をとじた。青洲の輝かしい功績は明治三十一年(1898) ドイ の医史学者エー グルトの著「外科医学史」に称揚され海外に其 の名を謳われると共に昭和二十九年(1898) 米国ガン湖畔にある世界外科学会栄誉館には世界の医療分野の 偉人として顕彰されている。

紀の川市教育委員会 和歌山県 育委員会
墓地

7番が華岡青洲のお墓

華岡家の墓石群
これ等の墓石群には、青洲の父、天明五年六月二日歿 正覚院直道居士の直道を最古老として母の於継と、それに続いて麻酔薬通仙散を創製し、それを使って世界で初めて乳がんの手術に大成功を収めた。 青洲の墓碑天聴院聖哲直幸居士(昭和三十二年十一月十九日和歌山県化財指定)と、その後に妻加恵の碑その子鷺洲、孫の厚堂や、昭和十九年七月大東亜戦争で戦死した震之助等一族三十四柱の霊が静かに眠っている。

墓塔説明表

記号  俗名   法名等      歿年享年 
  1 震之助 天忠院顕光諦念居士 昭和19.7.31 38 

  2 修平(鷺洲) 高顕院道誉直豊居士 慶応 2.5.7 59
  3 貞次郎高徳院祖輝道範居士 昭和10.9.13 58
  4 雲平 (厚堂) 高運院顕信直友居士 明治15.7.24 40
  5 八重(修平妻) 華誉院壽顔暉貞大姉 明治37.8.15 85
  6 喜久子(雄太郎妻) 慈賢院喜実貞円大姉 昭和18. 2. 3 40
  7 青洲先生 天聴院聖哲直幸居士 天保 6.10.2 76
  8  アサ(貞次郎妻) 蓮生院清容貞操大姉 大正 2.5.2 35
  9   雲平(葛城) 慶雲院敏質直継居士 天保 3.8.19 33
10   加恵(青洲妻) 蓮光院法屋妙薫大姉 文政12.12.8 68
11   康平 (鹿城子) 顕聖院知実直乗居士 嘉永3.8.10 不詳
12   於ヨネ(準平子)素月慈音童女天保11.9.11 15
13   かめ (厚堂後妻】 浄心院芳誉貞節大姉 明治15.3.12 28
14   直道 (青洲父)正覚院直道居士 天明 5.6.2 64
15   チエ(厚堂前妻) 正蓮院智実妙貞大姉 明治 4.11.21 不詳
16   於(青洲母) 蓮浄院智貞信尼寛政11.11.4 64
17   城 (良平) 鹿正直義居士 文政10.4.29 不詳
18  玉容童女慶応3.12.31 不詳
19  智覚童子 文久3.5.18 不詳 平20
20  逸平 春夢童 子 天保12 1.10 4
21  智厚童子 弘化4.2.13 不詳
22  厚堂之子妙阿童子 明治 2.11.18 不詳
23  武一郎蓮生童子 慶応 1.7.14 不詳
24  惠覚童子 明治 3.6.18 不詳
25  栄次 (鹿城子) 玉光自薫童子文化 1.5.24 不詳
26  ヨシ(厚堂次女)清雲普照童女 明治15.2.10 不詳
27  於勝(青洲妹)端月妙雲信女文政4.1.20 不詳
28  即刻童子 不詳 不詳
29  小陸 (青洲妹) 凉倒妙空信女文化2 9.17 42
30  阿宝妙蓮大姉 明治 9.7.24 不詳
31  かめ(青洲次女) 高輝院貞光妙仙大姉 明治 2.3.26 不詳
32  於雪(鹿城妻) 月光院清心妙咏大姉 慶応 3.8.18 不詳
33  小辨(青洲長女)智光童女寛政10.6.4 不詳

イ  石灯篭 施主 華岡賢藏慶応三卯四月日
ロ 岡見内膳源扶敬
ハ (無銘)
ニ 門人越中西野元甫敬建
ホ 同上
へ  石灯篭 施主 月山春 明治三十九年七月
ト 石灯篭 施主 中野光明治三十九年七月
華岡家墓地見取図 ( 紀の川市西野山739番地)

右の新しい先端がとんがったお墓は、五三の桐 陸軍少尉 華岡震之助 昭和19年7月31日 享年38歳

華岡青洲のお墓 笠石があります。

500円硬貨が2枚。いつもの癖でつい・・・

奥から見返し

階段を降りるのがしんどいので横の道を歩くと立て看板

華岡青洲先生が使われた解剖、手術に使用した手術台の石。よく考えると・・・薄気味悪いです。夜は通れません。

JR山中渓駅前を通りました。白線を引いて工事完了です。10月8,9あたり秋祭りの「やぐら」を曳きます。

10月1日 日曜日 阪南市の「やぐら」パレード(20台)があります。南海尾崎駅周辺をパレードするそうです。見たことがありません。
10月8日 日曜日 波太神社に宮入。これは見に行きました。
残念ながら見に行く元気がありません。
今回は、道の駅万葉の里には行きませんでした。

終わり