Blue jewel

拉致の解決を願って
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平壌からの手紙

2008-09-25 | 記録
平壌からの手紙―札幌の拉致被害者-石岡亨の軌跡 (単行本) 棟方周一編著


ビーケーワン http://www.bk1.jp/product/03034384
セブンアンドワイhttp://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/32121058
 
上記の本が手に入りました。
冒頭に掲載されている石岡亨さんの手紙を、みなさんにもう一度読んでいただきたいと思います。

━━失踪から8年平壌からの手紙━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(1980年=昭和55年失踪から8年後1988年昭和63年に届いた手紙)

家族の皆様方、無事に居られるでしょうか。長い間、心配をかけて済みません。私と松木さん(京都外大大学院生)は、元気です。途中で合流した有本恵子君(神戸市出身)共々(供)、三人で助け合って平壌市で暮らして居ります。事情があって、欧州にいた私達は、こうして北朝鮮にて長期滞在するようになりました。基本的に自(括)活の生活ですが当国の保護下、生活費も僅かながら月々支給を受て居ます。
但し、苦しい経済事情の当地では、長期の生活は苦しいと言はざるを得ません。特に衣服面と教育、教養面での本が極端に少なく、三人供(共)困って居ります。取り敢へず、最低、我々の生存の無事を伝へたく、この手紙をかの国の人に託した次第です。とに角、三人、元気で暮らして居りますので御安心して下さる様、御願い至(致)します。
松木さんの実家(熊本市)、有本君の実家(神戸市[以下略])の方へも連絡願います。更に、この手紙を送ってくれた方へ、そちらからも厚く御礼をしてくれる様、御願いします。  息子・亨より

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当時私は、北海道南西部の磯谷郡蘭越町に手造りのログハウスを建てて自給自足を目指した生活をしていた。ある日高校時代のクラスメート夜に何度も登場する「爺様」一から、「突進太宕回が北朝鮮で生きてるって……」という興奮した電話が人った。その友人がいうには、札幌の豊平警察署から連絡があり、当時、仲の良かった人物を紹介してほしいと頼まれているから、私のことを教えても良いかとのことだった。私も真相を知りたかったので、もちろん諒解して受話器を置いた。
(突進太が生きている)
ご家族同様、八0年六月三日ウィーン消印の絵葉書を最後に彼とは音信不通になったままだったので、本当に驚くばかりだった。

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著者は、以下のように前書きに書いている。

横田さんご夫妻はじめ、飯塚繁夫さん、蓮池透さん、地村保さん:有木嘉代子さんたち、ご家族を拉致された家族会の皆さんが、持って行き場のない憤り、救いの片鱗さえ見つからない苦悩、あらゆる障害との凄絶な闘い、を本に書かれている。それらを読ませていただくと、この日本という国に対する湧き起こる憤怒を抑えることができない。
私は家族ではないが、夢を抱いて一緒に東京へ出た友人として、石岡亨どいう男の人物像を再確認したい衝動にかられた。何故なら、石岡亨という人物は、いつまでも「拉致被生ロ者」という二ュース素材から決して解き放だれていないからだ。
さいわい、私の手許には、私が札幌へ戻ってから彼が出国するまでの二年間に、私宛に送ってくれた手紙が十数通残っている。この手紙を手がかりにして、今、北朝鮮で行万不明となっている石岡亨という人間像に焦点を当て、この人間の存在を、家族の立場からではなく、政治的な告発という動機からでもなく、ただ純粋に共に青春を過ごした友人として、暗闇の中からサーチライトを当ててもう一度探し出し、以って、危険を顧みず、平壌から手紙を託した彼の勇気と決断に報いたいと強く願う。


石岡さんの拉致については、よど号犯妻2人立件へ 石岡・松木さん拉致関与
電脳補完禄さんの記事を参照に。

1980年、昭和55年北朝鮮に拉致された石岡さんの名前は、他の被害者に比べ、報道されることが少ない。けれど、この欧州からの拉致には、日本人が関わっており証拠や証言は集めやすい状況にあるはずです。

もう一度、彼の声を読み直してください。





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