調査会ニュースから
■平沼拉致議連会長へ、特定失踪者家族からの手紙(1)木村かほるさんのお姉さん
さる9月11日、特定失踪者家族と平沼赳夫拉致議連会長・西村真悟幹事長との面会・要請が行われました。その折欠席者も含め多くのご家族から平沼会長に手紙・要請文書が託されました。
その内容は一人でも多くの方々に知っていただきたいものであり、今後順次ご紹介していきます。
最初は昭和35(1960)年に秋田で失踪した木村かほるさんのお姉さん、天内みどりさんからのお手紙です。
木村かほるさん
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特定失踪者家族からの手紙
妹を捜して四十八年
天内みどり
私は特定失踪者問題調査会より拉致の可能性が高い失踪者として公表されている木村かほるの姉の天内みどりと申します。
妹は、昭和三十五年二月二十七日、秋田市で姿を消しました。当時、日赤秋田高等看護学校三年で卒業式を間近に控え、実家の近くの八戸日赤病院への就職も決まっており、本人も家族もたのしみに待っていた矢先のことでした。
二十七日(土)夕方五時過ぎ「ちょっと出かけてくる」と友人に告げて寮を出たきり、帰って来ませんでした。
八戸の自宅に電話をもらったのは三日が過ぎた三月一日の午後でした。当時のことですからすぐというわけにもいかず、父と私とが秋田に着いたのは二日の夕方でした。
身の回わりの物や机の引出しの中など調べたのは私でしたが、何ら変わったことはありませんでした。自殺や失踪を匂わせるものは見当りませんでした。
翌日三月三日、失踪六日目、秋田警察に捜索願いを出しました。
この時、年配の警察官が次のようなことを言いました。
「この人は自殺でない。このような失踪事件が続いている。私達は『神かくし』と呼んでいるが、この人も神かくしに会ったのだ」と。
私は妹の失踪当時から「北朝鮮に連れていかれた」と思い続けていました。それにはいくつかの理由があります。
<絶対自殺ではないと思う根拠>
私と妹と母の三人は、二十年八月十三日、新京から日本に帰る途中、平壌で汽車から降ろされ、十五日の敗戦を迎え、以後難民として収容所生活をしました。毎日何人もの人が死んでいくのを見ていた妹が生きることの大切さを学んでいないはずがない。十二歳の私が病気の母と妹を助けるために朝鮮人の家に働きにいって少しでも食べ物を手に入れてきていたのを、「ありがとう」といってくれて、うれしそうに食べていた妹がどうして自ら死んだりするでしょうか。
平壌から逃れて五十八里、私にひきずられて歩いて来た妹が自殺などするはずがありません。
母が聞いてきたイタコの話では「海を船で遠ざかっていく」のがみえるとか、私が聞きにいった恐山のイタコは「この人は死んでいない。黄泉の国には来ていない。生きている」といいました。いつもなら笑って済ますようなこのような話を「かほるは生きている」と信じることができて、ありがたくうれしいことでした。
父は何十枚もの「尋ね人」のビラを秋田、青森の各地、奥村線、東北線の各駅、仙台、東京、大阪、神戸、福岡など全国の主要都市をまわって配ったり貼ったりして歩きました。
妹を捜してビラ貼る父の背に
積もる白雪いまも目に顕つ
<男鹿半島での漁師の話>
私が男鹿半島でビラを配っていた時漁師が「この辺には日本の船と違う○○な船がよく来ている。妹さんはそんな船に乗せられ、どこかへ連れていかれたのではないか」というのです。私はやっぱり、と思いました。
<昭和三十八年 秋田の能代で工作員とみられる遺体が漂着したという新聞報道がありました>
私はやはり北朝鮮の工作員に連れ去られたという確信をもつようになりました。
身体の弱い母はひたすら妹を待ちつづけて妹が勤めるはずだった日赤病院で昭和五十年に亡くなりました。
日赤の白衣の天使に見守られ
母は逝きなり 妹いづこ
<二〇〇〇年、平成十二年の夏、私は「北朝鮮からの引揚げの手記」を「暮しの手帖」に載せてもらったのですが、この手記から妹に関して書いた部分が切り取られるという事がありました>
東京江東区のコミュニティセンターでのことです。
偶然、妹の看護学校の同級生がこれを見つけて連絡をくれました。
誰が切り取ったか?
それは次のような内容でした。
「病弱の母の助けになりたいと看護婦の道を歩んでいた妹は看護学校の卒業式を目前にしたある日、秋田の街で忽然と姿を消した。
警察では「神隠し」に会ったのだと言い、母が訪ねたイタコは「北の海を船で連れ去られていくのが見える」と言ったという。
「妹よ寒くはないか、飢えてはいぬかと思わぬ日はない」
このことは「妹は拉致されて北朝鮮にいる。」それを知らせてくれたようなものです。
<二〇〇二年、平成一四年十二月十九日、週刊新潮の記事『北朝鮮脱北女性の新証言』>
「私は拉致日本人夫婦の娘と同級生だった」という見出しで同級生のお母さんは「悔しい形でやって来た」日本人で現在の餓死寸前のような状況が綴られ、この女性は年令からみて木村かほるさんではないか というものです。
その場所(週刊新潮に電話をして田口記者より直接聞きました)
咸鏡北道吉州英北
二〇〇三年、平成十五年一月
救う会から分かれて特定失踪者問題調査会発足
拉致の疑いありとして四十名公表
私は公表しない立場で届出る。
五月六十一名公表
この時妹の名前、写真を公表してもらう。
二〇〇四年、平成十六年九月
告発が受理されマスコミで報道される。
以後妹に関して朝鮮にいる、朝鮮に行ったなどまことしやかな噂が流れ、その出所に関してわかる限りのことは警察、公安、調査会には報告済み。
失踪当時から事情を把握している人間がいることを思わせられた。
二〇〇七年十月
一九八二~三年に北朝鮮にいて脱北して来たタイ人女性(三名)が当時日本語を教えてもらっていた日本語教師についての証言
本人に会って直接取材してくれたのは調査会の真鍋さんです。ほとんどの証言が妹に違いないと思わせるものでした。
○ 顔は丸く、背丈は一五二~三センチ
目が細く色白
笑顔を絶やしたことがなく、とても優しい
化粧はしない。おしゃれではない
○ 朝くると「おはようございます。お元気ですか」とやさしく声をかけてくれた
○ 毎日キャンデーをくれた
○ 当時二十歳の子供がいると話してくれた
○ 平壌に住んでいた。車で送ってもらっていた
○ 真鍋さんが持参した写真の中から似ているとして妹を指したそうです
○ 当時の妹は四十三歳と思われますが、姉(五十代)の写真をみせたら、笑顔がそっくりとのこと
このアメ(キャンデー)について思い当たることがあるのです。
私達が引き揚げてきて貧乏だった時、雑貨屋に置いてあった丸くて黒いアメを一つ買って欲しいと泣き出したことがあります。もちろんお金がないと言って泣いている妹をひきずって店の前から連れ去りました。
秋田で妹捜しをしていた時、身寄りのない、結核で退院させられたという老婆を訪ねました。
その老婆は、妹が見舞ってくれてアメを置いていった話をしてくれました。
このタイ人のキャンデーの話をきいて、これは妹だと思いました。
タイ人女性が収容された招待所は龍岳山(ヨンアクサン)にあると推測されます。
タイ人の証言に関しては調査会の資料です。
この招待所でこの時期日本語教師をしていた日本人女性を調べてもらって欲しいと内閣官房拉致問題対策本部事務局総会調整室長河内隆氏に申し入れをしてあります(調査会関連で)。
妹よ蝶ともなりて還り来よ
万景峰に翅をやすめて
お姉ちゃんと呼ぶ声のしてふり返る
昨日も今日もそして明日も
夢を適えたい
終戦を平壌で迎えた私達家族、母と妹と私は平壌の船橋里、難民収容所で一年を過ごしました。
食べる物もなく、多くの子供たちや身体の弱い人たちが亡くなりました。
二十一年夏、収容所を逃げ出して歩いて三十八度線を越えて南朝鮮に来ることができました。
途中多くの死をみつめながら私は必ずいつかお参りに来ようと思っていました。
朝鮮で死んで行った多くの人たちの血と涙を吸い取った草木は成長を続けます。私は朝鮮の草木で布を染めて遺家族に届けたいと思うようになりました。
二千五百名近い同胞が埋葬されている龍山墓地に生えたタンポポやススキ、ヨモギを染めて持ち帰りたい。
ところがわが草木染めをやりはじめてからの三十年間に子供を亡くした叔母さんたちが次々と亡くなってもう届けたい方がいなくなりました。
そしてひらめきました。
山田洋次の「しあわせの黄色いハンカチ」あの情景を龍山墓地や大同江の河岸で実現させたい。
私が五十八里を歩いて帰ると伝えたオモニはいり大豆とニンニクを持たせてくれました。
そのオモニに無事帰ったことを伝えたい。
オモニ、そして引揚げの時歩いて帰らず残ったとされる二千人といわれる人たち、そして拉致された人たち、みんなに見てほしい。草木で染まるやさしいいろ。命の色を。
誰がどこにいるか、拉致の親展の見えてこない現状を打破する意味でも私に草木染めをさせてほしいのです。
何百枚ものいろとりどりのハンカチを大空高くひらめかせたい。オモニたちと一緒に草木染めをしたい。
収容所で草取り、豆腐売り、せんたく、朝鮮漬け、子守りなどオモニたちは私を働かせてくれて食べ物をくれました。ありがたいことでした。
死んで朝鮮の土となった同胞の鎮魂と
拉致被害者の人たちへのメッセージと
平和への祈りと、それらをこめた草木染めのハンカチが空高くはためく……。
私の願いが叶えられますことを祈りつつ。
平成二十年九月五日
天内(あまない)みどり
(七十五才)
拉致議連会長
平沼赳夫様
――――――――――――――――――――――――――――――――
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氏 名: 木村 かほる
失踪年月日: 昭和35(1960)年2月27日
ふりがな :きむら かおる
生年月日 :昭和13(1938)年8月27日
性 別:女
当時の年齢: 21
身長 体重--------
公 開: 第3次公開
当時の身分: 日赤秋田高等看護学校3年生
特 徴 :中肉中背、色白でいつも微笑みをたたえ優しい感じ。
失踪 場所 :秋田市内
失踪 状況 :戸籍上はかをるだが、日常はかほるとしていた。看護学校の卒業式を10日後に控えていた。「ちょっと出かけてくる」と寮の同室の友人数人に言って出て行ったきり戻らず。平成16年9月29日、青森県八戸署に告発状を提出。
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■平沼拉致議連会長へ、特定失踪者家族からの手紙(1)木村かほるさんのお姉さん
さる9月11日、特定失踪者家族と平沼赳夫拉致議連会長・西村真悟幹事長との面会・要請が行われました。その折欠席者も含め多くのご家族から平沼会長に手紙・要請文書が託されました。
その内容は一人でも多くの方々に知っていただきたいものであり、今後順次ご紹介していきます。
最初は昭和35(1960)年に秋田で失踪した木村かほるさんのお姉さん、天内みどりさんからのお手紙です。
木村かほるさん
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特定失踪者家族からの手紙
妹を捜して四十八年
天内みどり
私は特定失踪者問題調査会より拉致の可能性が高い失踪者として公表されている木村かほるの姉の天内みどりと申します。
妹は、昭和三十五年二月二十七日、秋田市で姿を消しました。当時、日赤秋田高等看護学校三年で卒業式を間近に控え、実家の近くの八戸日赤病院への就職も決まっており、本人も家族もたのしみに待っていた矢先のことでした。
二十七日(土)夕方五時過ぎ「ちょっと出かけてくる」と友人に告げて寮を出たきり、帰って来ませんでした。
八戸の自宅に電話をもらったのは三日が過ぎた三月一日の午後でした。当時のことですからすぐというわけにもいかず、父と私とが秋田に着いたのは二日の夕方でした。
身の回わりの物や机の引出しの中など調べたのは私でしたが、何ら変わったことはありませんでした。自殺や失踪を匂わせるものは見当りませんでした。
翌日三月三日、失踪六日目、秋田警察に捜索願いを出しました。
この時、年配の警察官が次のようなことを言いました。
「この人は自殺でない。このような失踪事件が続いている。私達は『神かくし』と呼んでいるが、この人も神かくしに会ったのだ」と。
私は妹の失踪当時から「北朝鮮に連れていかれた」と思い続けていました。それにはいくつかの理由があります。
<絶対自殺ではないと思う根拠>
私と妹と母の三人は、二十年八月十三日、新京から日本に帰る途中、平壌で汽車から降ろされ、十五日の敗戦を迎え、以後難民として収容所生活をしました。毎日何人もの人が死んでいくのを見ていた妹が生きることの大切さを学んでいないはずがない。十二歳の私が病気の母と妹を助けるために朝鮮人の家に働きにいって少しでも食べ物を手に入れてきていたのを、「ありがとう」といってくれて、うれしそうに食べていた妹がどうして自ら死んだりするでしょうか。
平壌から逃れて五十八里、私にひきずられて歩いて来た妹が自殺などするはずがありません。
母が聞いてきたイタコの話では「海を船で遠ざかっていく」のがみえるとか、私が聞きにいった恐山のイタコは「この人は死んでいない。黄泉の国には来ていない。生きている」といいました。いつもなら笑って済ますようなこのような話を「かほるは生きている」と信じることができて、ありがたくうれしいことでした。
父は何十枚もの「尋ね人」のビラを秋田、青森の各地、奥村線、東北線の各駅、仙台、東京、大阪、神戸、福岡など全国の主要都市をまわって配ったり貼ったりして歩きました。
妹を捜してビラ貼る父の背に
積もる白雪いまも目に顕つ
<男鹿半島での漁師の話>
私が男鹿半島でビラを配っていた時漁師が「この辺には日本の船と違う○○な船がよく来ている。妹さんはそんな船に乗せられ、どこかへ連れていかれたのではないか」というのです。私はやっぱり、と思いました。
<昭和三十八年 秋田の能代で工作員とみられる遺体が漂着したという新聞報道がありました>
私はやはり北朝鮮の工作員に連れ去られたという確信をもつようになりました。
身体の弱い母はひたすら妹を待ちつづけて妹が勤めるはずだった日赤病院で昭和五十年に亡くなりました。
日赤の白衣の天使に見守られ
母は逝きなり 妹いづこ
<二〇〇〇年、平成十二年の夏、私は「北朝鮮からの引揚げの手記」を「暮しの手帖」に載せてもらったのですが、この手記から妹に関して書いた部分が切り取られるという事がありました>
東京江東区のコミュニティセンターでのことです。
偶然、妹の看護学校の同級生がこれを見つけて連絡をくれました。
誰が切り取ったか?
それは次のような内容でした。
「病弱の母の助けになりたいと看護婦の道を歩んでいた妹は看護学校の卒業式を目前にしたある日、秋田の街で忽然と姿を消した。
警察では「神隠し」に会ったのだと言い、母が訪ねたイタコは「北の海を船で連れ去られていくのが見える」と言ったという。
「妹よ寒くはないか、飢えてはいぬかと思わぬ日はない」
このことは「妹は拉致されて北朝鮮にいる。」それを知らせてくれたようなものです。
<二〇〇二年、平成一四年十二月十九日、週刊新潮の記事『北朝鮮脱北女性の新証言』>
「私は拉致日本人夫婦の娘と同級生だった」という見出しで同級生のお母さんは「悔しい形でやって来た」日本人で現在の餓死寸前のような状況が綴られ、この女性は年令からみて木村かほるさんではないか というものです。
その場所(週刊新潮に電話をして田口記者より直接聞きました)
咸鏡北道吉州英北
二〇〇三年、平成十五年一月
救う会から分かれて特定失踪者問題調査会発足
拉致の疑いありとして四十名公表
私は公表しない立場で届出る。
五月六十一名公表
この時妹の名前、写真を公表してもらう。
二〇〇四年、平成十六年九月
告発が受理されマスコミで報道される。
以後妹に関して朝鮮にいる、朝鮮に行ったなどまことしやかな噂が流れ、その出所に関してわかる限りのことは警察、公安、調査会には報告済み。
失踪当時から事情を把握している人間がいることを思わせられた。
二〇〇七年十月
一九八二~三年に北朝鮮にいて脱北して来たタイ人女性(三名)が当時日本語を教えてもらっていた日本語教師についての証言
本人に会って直接取材してくれたのは調査会の真鍋さんです。ほとんどの証言が妹に違いないと思わせるものでした。
○ 顔は丸く、背丈は一五二~三センチ
目が細く色白
笑顔を絶やしたことがなく、とても優しい
化粧はしない。おしゃれではない
○ 朝くると「おはようございます。お元気ですか」とやさしく声をかけてくれた
○ 毎日キャンデーをくれた
○ 当時二十歳の子供がいると話してくれた
○ 平壌に住んでいた。車で送ってもらっていた
○ 真鍋さんが持参した写真の中から似ているとして妹を指したそうです
○ 当時の妹は四十三歳と思われますが、姉(五十代)の写真をみせたら、笑顔がそっくりとのこと
このアメ(キャンデー)について思い当たることがあるのです。
私達が引き揚げてきて貧乏だった時、雑貨屋に置いてあった丸くて黒いアメを一つ買って欲しいと泣き出したことがあります。もちろんお金がないと言って泣いている妹をひきずって店の前から連れ去りました。
秋田で妹捜しをしていた時、身寄りのない、結核で退院させられたという老婆を訪ねました。
その老婆は、妹が見舞ってくれてアメを置いていった話をしてくれました。
このタイ人のキャンデーの話をきいて、これは妹だと思いました。
タイ人女性が収容された招待所は龍岳山(ヨンアクサン)にあると推測されます。
タイ人の証言に関しては調査会の資料です。
この招待所でこの時期日本語教師をしていた日本人女性を調べてもらって欲しいと内閣官房拉致問題対策本部事務局総会調整室長河内隆氏に申し入れをしてあります(調査会関連で)。
妹よ蝶ともなりて還り来よ
万景峰に翅をやすめて
お姉ちゃんと呼ぶ声のしてふり返る
昨日も今日もそして明日も
夢を適えたい
終戦を平壌で迎えた私達家族、母と妹と私は平壌の船橋里、難民収容所で一年を過ごしました。
食べる物もなく、多くの子供たちや身体の弱い人たちが亡くなりました。
二十一年夏、収容所を逃げ出して歩いて三十八度線を越えて南朝鮮に来ることができました。
途中多くの死をみつめながら私は必ずいつかお参りに来ようと思っていました。
朝鮮で死んで行った多くの人たちの血と涙を吸い取った草木は成長を続けます。私は朝鮮の草木で布を染めて遺家族に届けたいと思うようになりました。
二千五百名近い同胞が埋葬されている龍山墓地に生えたタンポポやススキ、ヨモギを染めて持ち帰りたい。
ところがわが草木染めをやりはじめてからの三十年間に子供を亡くした叔母さんたちが次々と亡くなってもう届けたい方がいなくなりました。
そしてひらめきました。
山田洋次の「しあわせの黄色いハンカチ」あの情景を龍山墓地や大同江の河岸で実現させたい。
私が五十八里を歩いて帰ると伝えたオモニはいり大豆とニンニクを持たせてくれました。
そのオモニに無事帰ったことを伝えたい。
オモニ、そして引揚げの時歩いて帰らず残ったとされる二千人といわれる人たち、そして拉致された人たち、みんなに見てほしい。草木で染まるやさしいいろ。命の色を。
誰がどこにいるか、拉致の親展の見えてこない現状を打破する意味でも私に草木染めをさせてほしいのです。
何百枚ものいろとりどりのハンカチを大空高くひらめかせたい。オモニたちと一緒に草木染めをしたい。
収容所で草取り、豆腐売り、せんたく、朝鮮漬け、子守りなどオモニたちは私を働かせてくれて食べ物をくれました。ありがたいことでした。
死んで朝鮮の土となった同胞の鎮魂と
拉致被害者の人たちへのメッセージと
平和への祈りと、それらをこめた草木染めのハンカチが空高くはためく……。
私の願いが叶えられますことを祈りつつ。
平成二十年九月五日
天内(あまない)みどり
(七十五才)
拉致議連会長
平沼赳夫様
――――――――――――――――――――――――――――――――
◆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━◆
氏 名: 木村 かほる
失踪年月日: 昭和35(1960)年2月27日
ふりがな :きむら かおる
生年月日 :昭和13(1938)年8月27日
性 別:女
当時の年齢: 21
身長 体重--------
公 開: 第3次公開
当時の身分: 日赤秋田高等看護学校3年生
特 徴 :中肉中背、色白でいつも微笑みをたたえ優しい感じ。
失踪 場所 :秋田市内
失踪 状況 :戸籍上はかをるだが、日常はかほるとしていた。看護学校の卒業式を10日後に控えていた。「ちょっと出かけてくる」と寮の同室の友人数人に言って出て行ったきり戻らず。平成16年9月29日、青森県八戸署に告発状を提出。
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