聞け やまつみの声
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投稿者:やまつみの声 投稿日:2007年 8月19日(日)01時08分18秒
3週間くらい前だったか、「自分探し」中の▲田がラオス・ビエンチャン空港に降り立った。ざわめく日本人乗客をよそに、彼は“ひとり”でビエンチャンの市街へ消えていった。「中▼現わる」のニュースは瞬く間に狭いビエンチャン在留邦人社会に広まり、彼の行き先を予想し先回りする「ヒデ探し」を敢行する日本人もいたが、ドリブル・フェイントの天才にはぐらかされ叶わなかったようだ。
彼がこの国へ来たのは「ラオスはまだ行ったことがないから」とのこと。ラオスは世界で初めてクラスター爆弾が使われた場所であり、地雷の除去にまだ一世紀以上かかるといわれ不発弾の犠牲者が相次いでいること、ベトナム戦争の後始末の「国家による殺人」が今も続いていることなど、ま、国歌を歌わぬ理由が「ダサい」でしかないようなダサい人間にはどうでも良い問題で、次回アジアカップ会場の下見が目的だったかもしれないが、その試合スタジアムの建設を中国の建設会社が請け負ったことの背景と意味合い・危険性くらいは確認しとけよ。
で、本題にはいる。
インドシナ半島北部山岳地域に住む少数民族には、我々日本人との共通点がいくつも指摘されている。照葉樹林の自然の恵みとともに暮らし、その自然にさまざまな精霊が宿ると考え(それは日本古来の八百万の神に近いという)、高床式の棲家、屋根の交差千木・切妻は日本の神社建築そっくりだし、米を育て、蒸したモチ米を臼と杵でつき、味噌・醤油を使い豆腐を作り、正月のコマ回しや羽子板(丸い木の実に鳥の羽を3枚つけて竹の板で打つ)の文化まである。この「照葉樹林文化圏」はブータンからインドシナ北部山岳、台湾、琉球から日本列島へと弧状に繋がる、日本人の文化ルーツを考える上でも重要な地域である。
ラオスの小数民族モン族の悲劇のことを、私も最近まで詳しくは知らなかった、恥ずかしながら。モン族は中国南部あたりがルーツだが、清朝に弾圧されて数世紀前から中国華南からインドシナへと南下し、ミャンマー、タイ、ラオス、ベトナム、中国南部の山岳地域にかけて住む。
50以上を数える山岳少数民族の中で特に戦闘能力に秀でたモン族の運命は、この半世紀あまり大国によって翻弄され続けてきた。インドシナ戦争中にフランス軍による「モン狩り」で強制徴用され特殊訓練を受けたラオスのモン族は反共戦闘部隊「モン・マキ」として最前線で最も危険で汚い任務を負わされた。一方ベトナム北部に住むモン族もやはりベトミン・北ベトナム軍側の兵士として洗脳・徴用されたため、つまり彼らはフランスとベトミンそれぞれの代理として同族同士で戦わされ殺されていった。その戦費・武器調達資金には、仏軍もベトミンもアヘンを充てた。
ディエン・ビエンフーの戦いに敗れ仏軍が撤退したあと、生き残ったモン・マキ兵士を引き受けた米軍は更に訓練をほどこし、ラオス内に極秘裏に設置されたレーダー誘導施設「サイト85」の守備、ホーチミンルート破壊工作などに使った。第一次インドシナ戦争に続くベトナム戦争でもモンは最も過酷で危険な「闇の最前線」へ送り込まれていった。
激しい戦闘でモンの兵士数が「消耗」するたび再びモン狩りで調達・補充されていき、モンの村々からしだいに青年・少年の姿が消えていった。彼らは米国白人青年兵士の身代わりであり、もしモン族を使わずに米兵だけを投入していたら、アーリントン墓地のベトナム戦争犠牲者の名前を刻む墓碑の長さは数倍になっただろうと言われる。
1975年、サイゴンに引き続きビエンチャンも陥落し政権が共産軍の手に落ちたあと、残されたモン族たちはさらに悲惨な運命を辿る。米軍に見捨てられ自殺を図る者、森へ逃げ込み仲間の遺体を食べながら飢えをしのぐ者。ベトナム・ラオス共産軍は生き残った親米モン族を執拗に追い、モン族も必死のゲリラ戦で森の中から抵抗を続ける。
30年以上たった今なおベトナム軍・ラオス軍共同によるモンへの迫害とモンの抵抗は続き、餓死の相次ぐ深い山の森の中から救いを求めるモン族の声はアメリカや国連に届いてはいるが、米・仏はモンを利用し見殺した古傷に触れたがらず、ベトナム政府もシラを切り、国連人権擁護委員会の医師・看護師団の現地派遣をラオス政府は拒否し続けている。
モン族はもともとクセの強い気性の民族で、移住先のアメリカやフランス領でしばしば軋轢を生じ(1990年に日本人留学生が米国で襲われた事件、あれもモン族と間違われたため)、モンの一夫多妻制や好戦気質などへの反感・差別感情が、モン弾圧に対する一般ラオス国民の無関心の誘因となっている。
ベトナム戦争に呼応するラオス紛争は「内戦」と呼ばれてきたが、その実体はアメリカと旧ソ連を後ろ盾にした北ベトナムとの戦いであり、代理戦争のさらに代理兵士として少数民族が利用され殺されていった。冷戦構造の本陣である旧ソ連と米国が直接戦火を交えたことは無く(だから冷戦-cold war-なのだが)、その代理犠牲としていったいどれだけのアジア人の血が流されたのか。
私が今回この板でラオスのモン族のことを紹介するのは、①今も続く親米モン族の残党狩りに「北朝鮮製小火器が使われている」こと、②インドシナ戦争も朝鮮戦争も冷戦構造という「白人利権対立構造」の中でほぼ同じ時期に発生し、白人ではなく多くのアジア人の血が流されてきたこと、そして、③後進国の民族感情を増幅させて利用しその微妙・複雑な葛藤の中に紛争の種を構造的に組み込むという、旧宗主白人たちの極めて巧妙な仕掛けを、北朝鮮問題にもインドシナ問題にも同様に感じるからである。
戦後アジアの社会主義地域の悲惨な現実を思えば、社会正義や平和や国益の能書きをいけしゃあしゃあと垂れるブッシュとプーチンの姿を見ると、私は二人の襟首つかんでその顔面をインドシナの骸の大地へ叩きつけたい気分になる。これは右・左政治イデオロギーなんぞとは関係ない。
そして思う、いまだに偏狭な日本国内政党イデオロギー対立構造の残影でしかインドシナを読めぬ、白黒オセロのような単細胞は治療しようの無いただの阿呆であり、人の世や世界政治を語る資格も無かろう、小田実とともに逝ってよし。
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投稿者:やまつみの声 投稿日:2007年 8月19日(日)01時08分18秒
3週間くらい前だったか、「自分探し」中の▲田がラオス・ビエンチャン空港に降り立った。ざわめく日本人乗客をよそに、彼は“ひとり”でビエンチャンの市街へ消えていった。「中▼現わる」のニュースは瞬く間に狭いビエンチャン在留邦人社会に広まり、彼の行き先を予想し先回りする「ヒデ探し」を敢行する日本人もいたが、ドリブル・フェイントの天才にはぐらかされ叶わなかったようだ。
彼がこの国へ来たのは「ラオスはまだ行ったことがないから」とのこと。ラオスは世界で初めてクラスター爆弾が使われた場所であり、地雷の除去にまだ一世紀以上かかるといわれ不発弾の犠牲者が相次いでいること、ベトナム戦争の後始末の「国家による殺人」が今も続いていることなど、ま、国歌を歌わぬ理由が「ダサい」でしかないようなダサい人間にはどうでも良い問題で、次回アジアカップ会場の下見が目的だったかもしれないが、その試合スタジアムの建設を中国の建設会社が請け負ったことの背景と意味合い・危険性くらいは確認しとけよ。
で、本題にはいる。
インドシナ半島北部山岳地域に住む少数民族には、我々日本人との共通点がいくつも指摘されている。照葉樹林の自然の恵みとともに暮らし、その自然にさまざまな精霊が宿ると考え(それは日本古来の八百万の神に近いという)、高床式の棲家、屋根の交差千木・切妻は日本の神社建築そっくりだし、米を育て、蒸したモチ米を臼と杵でつき、味噌・醤油を使い豆腐を作り、正月のコマ回しや羽子板(丸い木の実に鳥の羽を3枚つけて竹の板で打つ)の文化まである。この「照葉樹林文化圏」はブータンからインドシナ北部山岳、台湾、琉球から日本列島へと弧状に繋がる、日本人の文化ルーツを考える上でも重要な地域である。
ラオスの小数民族モン族の悲劇のことを、私も最近まで詳しくは知らなかった、恥ずかしながら。モン族は中国南部あたりがルーツだが、清朝に弾圧されて数世紀前から中国華南からインドシナへと南下し、ミャンマー、タイ、ラオス、ベトナム、中国南部の山岳地域にかけて住む。
50以上を数える山岳少数民族の中で特に戦闘能力に秀でたモン族の運命は、この半世紀あまり大国によって翻弄され続けてきた。インドシナ戦争中にフランス軍による「モン狩り」で強制徴用され特殊訓練を受けたラオスのモン族は反共戦闘部隊「モン・マキ」として最前線で最も危険で汚い任務を負わされた。一方ベトナム北部に住むモン族もやはりベトミン・北ベトナム軍側の兵士として洗脳・徴用されたため、つまり彼らはフランスとベトミンそれぞれの代理として同族同士で戦わされ殺されていった。その戦費・武器調達資金には、仏軍もベトミンもアヘンを充てた。
ディエン・ビエンフーの戦いに敗れ仏軍が撤退したあと、生き残ったモン・マキ兵士を引き受けた米軍は更に訓練をほどこし、ラオス内に極秘裏に設置されたレーダー誘導施設「サイト85」の守備、ホーチミンルート破壊工作などに使った。第一次インドシナ戦争に続くベトナム戦争でもモンは最も過酷で危険な「闇の最前線」へ送り込まれていった。
激しい戦闘でモンの兵士数が「消耗」するたび再びモン狩りで調達・補充されていき、モンの村々からしだいに青年・少年の姿が消えていった。彼らは米国白人青年兵士の身代わりであり、もしモン族を使わずに米兵だけを投入していたら、アーリントン墓地のベトナム戦争犠牲者の名前を刻む墓碑の長さは数倍になっただろうと言われる。
1975年、サイゴンに引き続きビエンチャンも陥落し政権が共産軍の手に落ちたあと、残されたモン族たちはさらに悲惨な運命を辿る。米軍に見捨てられ自殺を図る者、森へ逃げ込み仲間の遺体を食べながら飢えをしのぐ者。ベトナム・ラオス共産軍は生き残った親米モン族を執拗に追い、モン族も必死のゲリラ戦で森の中から抵抗を続ける。
30年以上たった今なおベトナム軍・ラオス軍共同によるモンへの迫害とモンの抵抗は続き、餓死の相次ぐ深い山の森の中から救いを求めるモン族の声はアメリカや国連に届いてはいるが、米・仏はモンを利用し見殺した古傷に触れたがらず、ベトナム政府もシラを切り、国連人権擁護委員会の医師・看護師団の現地派遣をラオス政府は拒否し続けている。
モン族はもともとクセの強い気性の民族で、移住先のアメリカやフランス領でしばしば軋轢を生じ(1990年に日本人留学生が米国で襲われた事件、あれもモン族と間違われたため)、モンの一夫多妻制や好戦気質などへの反感・差別感情が、モン弾圧に対する一般ラオス国民の無関心の誘因となっている。
ベトナム戦争に呼応するラオス紛争は「内戦」と呼ばれてきたが、その実体はアメリカと旧ソ連を後ろ盾にした北ベトナムとの戦いであり、代理戦争のさらに代理兵士として少数民族が利用され殺されていった。冷戦構造の本陣である旧ソ連と米国が直接戦火を交えたことは無く(だから冷戦-cold war-なのだが)、その代理犠牲としていったいどれだけのアジア人の血が流されたのか。
私が今回この板でラオスのモン族のことを紹介するのは、①今も続く親米モン族の残党狩りに「北朝鮮製小火器が使われている」こと、②インドシナ戦争も朝鮮戦争も冷戦構造という「白人利権対立構造」の中でほぼ同じ時期に発生し、白人ではなく多くのアジア人の血が流されてきたこと、そして、③後進国の民族感情を増幅させて利用しその微妙・複雑な葛藤の中に紛争の種を構造的に組み込むという、旧宗主白人たちの極めて巧妙な仕掛けを、北朝鮮問題にもインドシナ問題にも同様に感じるからである。
戦後アジアの社会主義地域の悲惨な現実を思えば、社会正義や平和や国益の能書きをいけしゃあしゃあと垂れるブッシュとプーチンの姿を見ると、私は二人の襟首つかんでその顔面をインドシナの骸の大地へ叩きつけたい気分になる。これは右・左政治イデオロギーなんぞとは関係ない。
そして思う、いまだに偏狭な日本国内政党イデオロギー対立構造の残影でしかインドシナを読めぬ、白黒オセロのような単細胞は治療しようの無いただの阿呆であり、人の世や世界政治を語る資格も無かろう、小田実とともに逝ってよし。