「消えた277人」より
ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介していきます。
◆堺 弘美(さかい ひろみ)さん
昭和34(1959)年10月22日生れ。盲腸の手術痕がある。
ハスキーな声が特徴的。
昭和57(1982)年4月2日、東京都新宿区北新宿の自宅アパートから失踪。
当時二十二歳、飲食店で働きながら美容学校に通っていた。
四月二日、弘美さんの職場から「弘美さんが仕事に来ていない。これまで無断欠勤したこともなかったのだが」と家族に連絡があり、失踪が判明した。
失踪数日前、弘美さんは母に、「北新宿の自宅アパートを引き払って、実家(母の住む杉並区上井草)に移り住む」と電話してきたのだが、その数日後、ふたたび電話で、今度は「やはりもう少しこちらに残る」と言ってきたという。
失踪当日か翌日に弘美さんのアパートに行ってみると、部屋はとくに変わった様子はなく、引っ越しの準備をしていたようにも見えず、不動産屋にも転居の話はしていなかった。
部屋からは、茶色っぽいチャイナ服(ドレスというより普段の外出用)友人から借りた赤いブレザーと、財布がなくなっていた。
◆「美容師になるのが夢だったね」 堺シズさん(母から)
弘美、元気でいますか。24年前、私に「アパートを引き払い実家に移る」「もう少し残る」とただそれだけ電話で言い残したまま、私の前から突然姿を消してしまいました。
以後、毎日毎日弘美のことが気になり夜も眠れない日々が続いています。
このたびこの電波で弘美とお話しすることが出来ることになり、大変うれしいことです。
弘美、そちらでは、どんな生活をしているの、結婚して子供は何人いるの、自分の好きな美容師はやっているの、お母さんは大変心配だし、知りたいし弘美に会いたいし、声も聞きたいし、孫にも会いたいです。
弘美からの連絡もほしいですね。現在、特定失蹉者問題調査会が中心となり、弘美の早急な日本帰国にむけて、日本の皆さんと日本政府が中心になり、頑張っております。お母さんも七十四歳になり一刻も早く日本に帰れる日を待っております。弘美に会えるまで私も身体に気をつけて、会えるまで、いつまでも、いつまでも、待っております。
日本の地、母シズより。
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現在48才 失踪から25年
ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介していきます。
◆堺 弘美(さかい ひろみ)さん
昭和34(1959)年10月22日生れ。盲腸の手術痕がある。
ハスキーな声が特徴的。
昭和57(1982)年4月2日、東京都新宿区北新宿の自宅アパートから失踪。
当時二十二歳、飲食店で働きながら美容学校に通っていた。
四月二日、弘美さんの職場から「弘美さんが仕事に来ていない。これまで無断欠勤したこともなかったのだが」と家族に連絡があり、失踪が判明した。
失踪数日前、弘美さんは母に、「北新宿の自宅アパートを引き払って、実家(母の住む杉並区上井草)に移り住む」と電話してきたのだが、その数日後、ふたたび電話で、今度は「やはりもう少しこちらに残る」と言ってきたという。
失踪当日か翌日に弘美さんのアパートに行ってみると、部屋はとくに変わった様子はなく、引っ越しの準備をしていたようにも見えず、不動産屋にも転居の話はしていなかった。
部屋からは、茶色っぽいチャイナ服(ドレスというより普段の外出用)友人から借りた赤いブレザーと、財布がなくなっていた。
◆「美容師になるのが夢だったね」 堺シズさん(母から)
弘美、元気でいますか。24年前、私に「アパートを引き払い実家に移る」「もう少し残る」とただそれだけ電話で言い残したまま、私の前から突然姿を消してしまいました。
以後、毎日毎日弘美のことが気になり夜も眠れない日々が続いています。
このたびこの電波で弘美とお話しすることが出来ることになり、大変うれしいことです。
弘美、そちらでは、どんな生活をしているの、結婚して子供は何人いるの、自分の好きな美容師はやっているの、お母さんは大変心配だし、知りたいし弘美に会いたいし、声も聞きたいし、孫にも会いたいです。
弘美からの連絡もほしいですね。現在、特定失蹉者問題調査会が中心となり、弘美の早急な日本帰国にむけて、日本の皆さんと日本政府が中心になり、頑張っております。お母さんも七十四歳になり一刻も早く日本に帰れる日を待っております。弘美に会えるまで私も身体に気をつけて、会えるまで、いつまでも、いつまでも、待っております。
日本の地、母シズより。
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現在48才 失踪から25年