今日も暑かった。
ああ、夏って・・・・TT
さて 養老孟司の「死の壁」を読みました。
養老孟司氏といえば「バカの壁」が大ヒットした方。
ヒットした時、読んだのだが、
「へええ。」とは思ったけれども、これと言って強い印象はなかった。
今読むと違うのかもしれないが・・・
この「死の壁」も「バカの壁」のヒットに連続して出されたものだと思う。
なのに何故、今「死の壁」かというと
最近読んだ本にこの作品についての引用があり、
それに感銘し
全体としての感じを読んでみたいと思ったからだ。
「なぜ人を殺してはいけないのか」から始まって、
著者の父の死についてに触れ、
生き残った者の課題で終わっている。
著者は、解剖医である。
そんな彼の視点から語られる死は、
不思議である。
正直、毎日解剖を行っている医師は、
だんだん亡くなった人を『モノ』と扱うことで
『死』と自分を切り離しているのだと思っていた。
普段私たちは『死』についてあまり深く考えないが
身近な人の死は、その『死』についていろいろと
考えさせられる機会となってしまうからだ。
『死』について常に考えるということは、結構しんどい。
現に私たちも、人が亡くなった場合、
その人を私たちの共同体から外すという作業をする。
『死』を『穢れ』と認識し、葬式から帰った後、
家に入る前に塩を振りかけるのは
明らかに、我々の共同体から死者を閉めだしたことを象徴しているという。
著者の考えには、共感する部分もあるし、違うだろうと思う部分もある。
場合によっては、喧嘩をふっかけているのかとも思う。
しかしそうではないのだ。
『死』と言う普段深く考えないようにしている部分について
鋭い指摘を行う。
私たちは『死』に蓋をしがちである。
例えば、十代や二十代のころ、友人の兄弟が亡くなっていると聞いたら
自分の兄弟のこともあえて話題にしなくなっていたと思う。
多少の悪事だったなら、亡くなった場合
許されるような雰囲気がある。
養老さんは、死についてもっと考えることを止めてはならない。
考えるのを止めることは、死んでいるのと一緒だから。
と言っているように感じる。
さて、気になっていた記述である。
養老さんは四歳の時にお父さんを亡くしておられる。
その際、「お父さんにさよならと言いなさい。」
と言われたが、できなかったそうだ。
三十年以上もたってから、
ふとお父さんの死と自分が苦手な挨拶の相関に気づき
初めてお父さんの死を受け入れられたという。
この時、養老さんは地下鉄に乗っていたが
涙が止まらなくなったという。
共感してしまい、今度は私の涙が止まらなくなってしまった。
やはり「死の壁」はそびえ立っていて超えるのが困難なのだと思う。
でも、その壁は自分の内にあるので
時間がかかろうが、もがきまくろうが
各々が自分自身で乗り超えるしかないのだと思った。
いがぐりおは まだ「死の壁」にはあたってないね。
いがぐりおをクリックしていただけると嬉しいです。いつもありがとうございます。^^/
ああ、夏って・・・・TT
さて 養老孟司の「死の壁」を読みました。
死の壁 (新潮新書) | |
養老 孟司 | |
新潮社 |
養老孟司氏といえば「バカの壁」が大ヒットした方。
ヒットした時、読んだのだが、
「へええ。」とは思ったけれども、これと言って強い印象はなかった。
今読むと違うのかもしれないが・・・
この「死の壁」も「バカの壁」のヒットに連続して出されたものだと思う。
なのに何故、今「死の壁」かというと
最近読んだ本にこの作品についての引用があり、
それに感銘し
全体としての感じを読んでみたいと思ったからだ。
「なぜ人を殺してはいけないのか」から始まって、
著者の父の死についてに触れ、
生き残った者の課題で終わっている。
著者は、解剖医である。
そんな彼の視点から語られる死は、
不思議である。
正直、毎日解剖を行っている医師は、
だんだん亡くなった人を『モノ』と扱うことで
『死』と自分を切り離しているのだと思っていた。
普段私たちは『死』についてあまり深く考えないが
身近な人の死は、その『死』についていろいろと
考えさせられる機会となってしまうからだ。
『死』について常に考えるということは、結構しんどい。
現に私たちも、人が亡くなった場合、
その人を私たちの共同体から外すという作業をする。
『死』を『穢れ』と認識し、葬式から帰った後、
家に入る前に塩を振りかけるのは
明らかに、我々の共同体から死者を閉めだしたことを象徴しているという。
著者の考えには、共感する部分もあるし、違うだろうと思う部分もある。
場合によっては、喧嘩をふっかけているのかとも思う。
しかしそうではないのだ。
『死』と言う普段深く考えないようにしている部分について
鋭い指摘を行う。
私たちは『死』に蓋をしがちである。
例えば、十代や二十代のころ、友人の兄弟が亡くなっていると聞いたら
自分の兄弟のこともあえて話題にしなくなっていたと思う。
多少の悪事だったなら、亡くなった場合
許されるような雰囲気がある。
養老さんは、死についてもっと考えることを止めてはならない。
考えるのを止めることは、死んでいるのと一緒だから。
と言っているように感じる。
さて、気になっていた記述である。
養老さんは四歳の時にお父さんを亡くしておられる。
その際、「お父さんにさよならと言いなさい。」
と言われたが、できなかったそうだ。
三十年以上もたってから、
ふとお父さんの死と自分が苦手な挨拶の相関に気づき
初めてお父さんの死を受け入れられたという。
この時、養老さんは地下鉄に乗っていたが
涙が止まらなくなったという。
共感してしまい、今度は私の涙が止まらなくなってしまった。
やはり「死の壁」はそびえ立っていて超えるのが困難なのだと思う。
でも、その壁は自分の内にあるので
時間がかかろうが、もがきまくろうが
各々が自分自身で乗り超えるしかないのだと思った。
いがぐりおは まだ「死の壁」にはあたってないね。
いがぐりおをクリックしていただけると嬉しいです。いつもありがとうございます。^^/