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回数 月日 山名 特記 メンバー
1 1月1日 亀戸山 北八の帰路に 山田、吉島、伊藤、小川
2 1月12日 高宕山 初出勤 ソロ 1 680
3 1月15日 鹿野山 神野寺初詣 ソロ ➀
4 1月18日 石垣山 歴史観を味わいながら 房総の山仲間
5 1月25日 ズンタ山 三回目の挑戦で登頂 山田、小川
6 1月27日 高宕山監視所コース 夏山トレーニング目的NO1 ソロ 2 681
7 1月31日 郡界尾根 又も道迷い ソロ
8 2月7日 内山緑地 初雪 ソロ
9 2月8日 高宕山 日本低名山の仲間入り ソロ 3 682
10 2月11日 関東ふれあいの道 道標更新 山パトメンバ⁻ 4 683
11 2月13日 大日山~御殿山 蕗の薹はまだだった ソロ
12 2月17日 監視所コース 意外と快調だった ソロ 5 684
13 2月28日 九鬼山 三日遅れの大展望を ソロ
14 3月2日 笠石 ミスミソウ鑑賞 睦男、近l子
15 3月9日 山パト・道標更新 四か所取り換え 山田、小川、檜垣 6 685
16 3月11日 大高取山 越生ハイキングコース 房総の山仲間
17 3月14日 元清澄山 思い出の山に ソロ
18 3月19日 鹿野山 花盛り ソロ ②
19 3月22日 監視所コース 春めいてきた監視所コース ソロ 7 686
20 3月30日 内山緑地イベント ヤマザクラ逍遥の道に ソロ
番外 4月1日 風間三郎個展 久しぶりの再会を ソロ
21 4月2日 人骨山・津森山 春まだ浅し ソロ
22 4月7日 冨山・西尾根 汗を流して ソロ
23 4月11日 小仏城山 初めてのルート ソロ
24 4月14日 三百騎山・高宕山 高宕山今昔 ソロ 8 687
25 4月18日 釈迦が岳 リベンジだったが 房総の山仲間
26 4月21日 関東ふれあいの道 登山道整備 山パトメンバ⁻
27 4月24日 東大演習林 一般開放 ソロ
28 4月28日 監視所コース 高宕観音について ソロ 9 688
29 5月2日 芹山・三百騎山 ヤマツツジとエビネを求めて ソロ
30 5月3日 小糸浅間山 キンランを求めて鹿野山古道 ソロ
31 5月5日 鎌倉古道・房州アルプス ギンランとの出会いも ソロ
32 5月10日 鹿野山周回コース トレーニングに ソロ ③
33 5月12日 山パトロール 関東ふれあいの道 山パトメンバー
34 5月15日 城ケ丸・猿焼山 リベンジの山 ソロ
35 5月18日 高宕山大滝コース ツツドリ・ホトトギスも ソロ 10 689
36 5月22日 房総半島横断 挑戦は止まることを知らず? ソロ
37 5月25日 高宕三山 イワタバコが一輪 ソロ 11 690
38 5月30日 志組から高宕山 無粋なロープが張られていた ソロ 12 691
39 6月3日 鹿俣山 ブナ林に癒されて 房総の山仲間
40 6月6日 石尊山 麻綿原へは交通止めで ソロ
41 6月11日 高宕山大滝コース オオルリ・サンコウチョウは空振り ソロ 13 692
42 6月13日 鹿野山 三角点巡り ソロ ④
43 6月15日 三頭山 探鳥を期待して ファミリー
44 6月19日 クオードの森 サンコウチョウゲット ソロ
45 6月22日 房総半島横断 ラストウォークか ソロ
46 6月26日 高宕山・監視所コース 蒸し風呂の中を泳ぐように ソロ 14 693
47 6月28日 玉原高原・長沢 雨で予定変更の山 房総の山仲間
48 7月3日 鹿野山周回コース 新たな草花も見られて ソロ ⑤
49 7月10日 二五穴との再会 ヒナノシャクジョウも 青峰会 15 694
50 7月18日 監視所コース 熱中症&足吊 ソロ 16 695
51 2024/7/24~27 北岳 下りでは悪戦苦闘 SCRAP
52 8月6日 高宕山大滝コース 灼熱の中を ソロ 17 696
番外 8月10日 高宕山・満福寺 金の仏像を拝みに ソロ
53 8月18日 鹿野山 活を入れるために ソロ ⑥
54 8月22日 奥多摩・御岳山 山葵田予定がレンゲショウマに 尾崎家と
55 9月5日 鹿野山周回コース ソロ ⑦
56 9月8日 関東ふれあいの道 奥畑登山口の整備要か シルバー5名
57 9月13日 高宕山・大滝コース タマゴタケオンパレード ソロ 18 697
58 9月20日 石茸岩山 8/22のリベンジに ソロ
59 9月26日 高宕山・ピストン まだ残暑厳しく ソロ 19 698
60 10月1日 生瀬富士 トリッキーな山だった 房総の山仲間
70 10月7日 高宕山・大滝コース まだ暑い ソロ 20 699
71 10月11日 内山三角点 冠雪富士はまだまだ ソロ
72 10月13日 鹿野山周回コース 神野寺のジャンボぼたもちを ソロ ⑧
73 10/17~18 十二が岳・岩櫃山 スルリを味わった岩櫃山 房総の山仲間
74 10月20日 関東ふれあいの道 草苅 シルバー5名
75 10月26日 高宕山 700回記念登山 近子と 21 700
76 10月31日 三舟山 自宅から往復 ソロ
77 11月1日 高宕山・大滝コース キッコウハグマも ソロ 22 701
78 11月7日 鹿野山周回コース 初冠雪の富士を眺めに ソロ ⑨
79 11月10日 関東ふれあいの道 j巡視 シルバー5名
番外 11/12~17 第二回青峰会三人展 盛況裏に 工藤・蔵・山田
80 11月19日 高宕山・監視所コース 右膝痛 ソロ 23 702
81 11月22日 きみつ散歩道 紅葉に ソロ
82 11月24日 三浦富士、砲台山、武山 富士山は望めなかったが、軍艦カレーは食べた ソロ
83 11月28日 鋸山 安兵衛井戸経由で ソロ
84 12月1日 関東ふれあいの道 石川君入隊体験 シルバー6名
85 12月3日 クオードの森 梅が瀬渓谷へは通行止めで ソロ
86 12月5日 鉄砲木の山・高指山 富士山を満喫 房総の山仲間
87 12月8日 大福山・梅が瀬渓谷 紅葉に染まって 睦男、近子
88 12月11日 高宕山・大滝コース 陽だまりハイク ソロ 24 703
89 12月17日 伊予ガ岳 冨山は断念 ソロ
90 12月20日 高宕山・監視所コース 監視所コースを外れて ソロ 25 704
91 12月24日 冨山・西尾根 リベンジ冨山 ソロ
92 12月27日 鹿野山周回コース 今年締めの山歩き ソロ ⑩
最近読んだ本/第三弾 2024年7月
井上 靖著の星と祭り(上、下)昭和50年3月初版で、前には自分で本を購入して印象深かったので誰かに進めて贈って手元にはなく、今回は図書館から借りて読みました。タンボチェで満月を観るというのと、十一面観音との出会いが印象強く残っていた。お薦めの本です。
娘みはるが17歳の時、琵琶湖で乗っていたボートが転覆して遺体は上がらなく、みはるは永遠に「生と死」のはざまにいる。娘とともに死んだ青年の父親に誘われ、琵琶湖湖畔の古寺を訪れた父親は、十一面観音に出会い、その不思議な安らぎに魅了され、そんな日々に中、ヒマラヤのタンボチェでの月見に誘われ銀色に輝くヒマラヤの峰に神々しく光を放つ満月を観ながら、娘みはるの死に対する考え方が変わっていく、最後に満月の湖上で青年の父親と二人の葬儀を執り行うシーンは今まで拝んできた十一面観音も現れて素晴らしい葬儀で、わが身を振り返るともう何十年もあってない娘紀子のことを思うと泪せずにはおられなかった。
高宕観音堂の仏像も十一面観音様とのことです。
沢木耕太郎の深夜特急(Ⅰ~Ⅲ)
『深夜特急』は、1970年代にインドからロンドンまでバスで旅した沢木耕太郎の紀行文です。バックパッカーのバイブルと呼ばれる人気の旅本で、以前山仲間からもらって読んだ。若い血潮をたぎらせる痛快・爽快な貧乏旅行記で自分もこんな旅をしたいなーと思った記憶があり、誰かに上げてしまっていたのでもう一度と思って図書館から借りて一気に読んでしまった。
最近読んだ本第二弾
山靴の音(昭和49年3月15日4版)新編山靴の音(昭和58年4月の三版)と新・山靴の音(平成4年4月発行)の限定200部の第118番の三冊でいずれも著者:芳野満彦です。いずれも複数回読破していました。
二番目の新編山靴の空白ページに「芳野満彦、彼とはヒマラヤトレッキングの帰りにカトマンズ~東京までの機中で彼と語る幸せを持つことが出来た。特に印象深くあったのは【白いノート】をバンコクの空港で見せてくれたことであった。彼の山への思慕があふれるこのノート、以降私も白いノートにつたない絵と文を少なからずも書き続けている」と記されていました。1984.6.8記
1974年カラパタールトテッキングに参加、その時のツアーリーダーが芳野満彦氏でアルパインツアーツの会社がヒマラヤトッレキングを始めたのは1971年で3年後、ツアーそのものも未熟だし人材もいなく、会社創立者の一人である彼がツアーリーダーとはびっくりした次第です。
カトマンズ空港に着くと三浦雄一郎氏が出迎えてくれていて、芳野さんは雄ちゃんと気安く呼んでいて、一緒に写真を撮りました。三浦氏がエベレスト大滑降をしたのは1970年5月6日で、カトマンズの街を歩いていると「日本人か、三浦は素晴らしい」とよく話しかけられ鼻高々でした。
ツアー出発の朝、「山田さん、俺久し振りに雄ちゃんと会ったからカトマンズで麻雀などして過ごすから5人で行って」と今だったら考えられないことだが、自分も気安く「ハイ!良いですよ」と応えた。
ピラタスポーターという5人乗り位の軽飛行機で、シャンボチェという飛行場と言うより牧場の斜面に着陸。エベレストビューホテルはまだ建設中で、その前の空き地にテント泊まりです。ツアーは個別参加の村上、中村、保久、笹島、山田の5名と現地のサーダーとシエルパ・コック・ポーターが数人で行動です、行動中にはいろいろハプニングもあったが楽しかった。
シャンボチェシからカトマンズに戻る飛行機は天候やお祭り(パイロットが二日酔い)とかで三日遅れてカトマンズに。これが帰路のトラブルの基になります。
バンコクのホテルを出ようとするとスタッフがスーツケースを掴んで離さない。予定が遅れたので現地のエージェントからの連絡が不徹底で支払いがされてない。この時、芳野さん「山田さん、金持ってない。俺、財布をカトマンズに忘れてきたようだ」とのことで立て替えてその場をしのんだ。もちろん帰国後会社から払い込みがあった。
復路のメンバーは芳野さんと山田と笹島の二人で、残りの3名は金が残っているからカトマンズで一ケ月位遊んで、インド経由で帰るからとのことだった。
次は空港で帰路の便が予約されてなく、芳野さんが日本語と英語で猛抗議していて時間がかかりそう。この時、芳野さんが「この本でも読んでいて」と渡されたのが【白いノート】だった。結局、最終便の出入り口のスッチャーが座る折りたたみ椅子に収まって帰れることになった。
羽田に着いたが笹島と山田は自宅に帰る足が無く、芳野さんが俺の家に泊まろうとタクシーで鶯谷の実家に。「おふくろ帰ってきたよ、友達二人連れてきたから」と言って、久しぶりの日本だから新橋まで行ってくるからと待たせてあったタクシーに乗っていったきりだった。おふくろさんは満彦はいつもこんな調子だからと、白飯に味噌汁を作ってくれて久しぶりの日本食は美味しくありがたかった。
その後、キリマンジャロの誘いの連絡がきたが公私共に落ち込んでいた時期でそんな心の余裕はなかった。麻布十番街の東京映像ギャラリーで個展をするとの案内が来て3回は顔を出した。彼が在住の時に一枚の年賀状を出して語ってくれたのは、カトマンズ近郊のナガルコットの丘で超美人のシエルパニと出会った、その超美人が八千草薫だったとのことでその後友達になったと嬉々として話してくれた。
小生もとあるツアーの帰路、ナガルコットに寄ったが二匹目の泥鰌はいなかった。
水戸での個展の案内が来て出かけたときに見せてくれたのは、白ではなく【黒いノート】で内容も岩に登れなくなっている彼の心境を現したのか寂しく感じた。
2021年2月80歳でこの世を去った。この時、1974年のカラパタールトレッキングで一緒だった兵庫の保久君から電話があって「山田さん、水戸は近いから芳野さんの葬儀に代表して参列してください」と、彼も芳野さんの印象が強かったのでしょう。
中学の時、冬の八ヶ岳で遭難、友は無くなったが彼は凍傷で両足先を切断、<5文半の男>になったが山への情熱は衰えることなく、一流のクラーマーとして日本山岳会に名をとどろかせた。本の内容であるが、1冊目は処女出版で20代前半までの彼の青春を賭けた山々の記録。2冊目は青春の日の記録、徳澤の生活が主体で3冊目はその後に岳人に掲載された、まさに白い日記帳から抜粋された内容のようで一気に読むことが出来ました。
最近読んだ本NO2
月一冊を目標にしていて、4月から6月まではようやく4冊です。本を読み始めると細い瞼が直ぐに重なってきて眠くなってしまいます。
老生の名前は「睦男」と言います。出生時は爺さんが「陸奥男」と役所に届けたそうです。当時は世界大戦1941年12月開戦目前で初期に戦艦大和・戦艦武蔵・戦艦陸奥が日本海軍の主戦力で世界に名を轟かせていて、戦艦陸奥から「陸奥」の名前を採ったと聞いていたが、小学校からは「睦男」で「むっちゃん」と呼ばれていましたが高校入学時に戸籍謄本を採ると「陸男」で奥の字が抜けていて、親も無責任だなーと思っていました。裁判所に2回ほど通って近所の友達や通知表を持って行って「睦男」になった次第です。故に、戦艦陸奥には愛着があって何処で撃沈したのかずーと気になっていました。
・山田風太郎の「戦艦陸奥」は奇想小説で戦争をめぐる悲壮美の物語で撃沈の真相は分からなく、吉村昭の「陸奥撃沈」は史実に基づいて書かれて真相を知ることが出来ました。これで胸のつかえがとれた感じがしました。
昨年9月に図書館ギャラリーで仲間と二人で絵の展示を2週間行ったときに、山ほどの本を借りる人の多いのに「Unbelievable」だった。それに刺激されて、よし俺も本を読もうと・・・思ったが、・還るべき場所(笹本稜平)・山岳稜線(笹本稜平)・ゴザインタン(篠田節子)・山岳短編集(夢枕獏)・苦難の道程K2(小牧由香)・その峰の彼方/デナリ(笹本遼平)の6冊だけだった。今年こそと思ったが、北壁の死闘(ボブ・ラン自動グレー)・高熱隧道(吉村昭)・アコンカグア山頂の嵐(チボル・セケリ)のまだ三冊のみで四冊目を読み始めたところです。
お薦めは高熱隧道、黒部第三発電所建設を背景にしているが、トンエル掘削工事の岩盤が最高166度に迄に達する中で、自然と人間の戦いで読み応えがあります。
アコンカグア(6959m)初登頂は1897年で127年前で、この本は1944年2月登頂時の記録で80年前で山親爺が生を受けて3年後です。ちなみに山親爺は2002年に挑戦しましたが、「ビエント・ブランコ」白い嵐に高山病?で下痢・嘔吐に悩まされグランアカレオ6500m付近で退却し登頂できませんでした。もし、登頂出来たら高所登山のスケジュールがあったのですが断念しました。故に、この本を読みながら登頂を味あわせていただきました。
読書の時間は寝る前にベッドのなかで姿勢が悪く首の斜面の筋が痛くなり、片頭痛の要因かなーと思っていて、要改善だと思ってます。