興味津々

日々思ったことを綴ります

台風前に実家でイチジク収穫です

2024年08月30日 | 65歳未満
台風やら雨やらやかましい報道の最中。
このところ、用心してバスで出かけると雨に合わず、あるいは帰りのバスを降りた途端傘も持っていられない程の雨で下着までズクズク。バス乗り換えるのが面倒で思い切って自転車で出かけると帰りに大雨、仕方なくポンチョ着て雨に堪えて家に到着したら晴れ。
百均で探し買ってきた孫用のシールブックは見事にズブ濡れヨレヨレ…。
ついてない。

今日は雨の気配もなく、しかし用心してバスで出かけた。銀行の用件を済ませて再びバス。晴れてる。
実家で人に貸した傘2本+自分用、計3本の長傘持っての晴れ空バス乗車は我ながら滑稽だ。いくら大雨を心配してるからと言っても傘の数は1本で充分だし、むしろ邪魔。

今年の実家は何故かイチジクが豊作だ。
確か去年は弟が青い実をたくさん取って来た。青いイチジクの実は食べられず結局廃棄したのだ。
今年は青いうちからもぎ取る弟の被害にも合わず無事に赤く甘く育った実ではあるのだが、今度は無人の家で鳥にやられているのだろう。

大量の雑草を踏みつけて、もぎ取った実はいくつかポロリと手からこぼれて、また雑草をかき分けて拾う。
売っているものほど、赤くはないが熟すのを待てばカラスにやられる、そう思って集めた。

先日は母の施設に持って行った。嬉しそうに抱える母に 一度に食べない方が良いとか、施設の人に分けたら?、等は言わなかった。

今回は全て私のものにした。
夫はイチジクは嫌い、というからジャムにする。

白い実の中から種いっぱいの赤い中身はこんなに甘くて美味しいのに。グロテスクに見えないこともないけど、私には不思議美しく魅惑的に思える。

実は採れたが、案の定大量の蚊に刺されてしまった。

今度採ったらまた母のところに届けよう。
訳のわからなくなっている母のところに。
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白ナスとオクラ即席煮は失敗でした

2024年08月16日 | 65歳未満
自分でも料理好きなのか料理嫌いなのかは不明だけれど、ともかく挑戦はしてみたくなる。

畑で採れた白ナス。白ナスは今回見たのも食べるのも初めてで面白かった。花は薄紫色。ツヤツヤで真っ白、でっぷりと実をつけるから特徴的だ。新しいのは本当に綺麗な白で瑞々しい。千両ナスに比べて水分が多い。
結構害虫に葉っぱをヤラれた。大きな葉っぱはカサカサになり、穴だらけ。トウガラシエキススプレーで少しはマシになったけれど、かなりたいへんだった。

その大きめ白ナスを買ってきたオクラとで揚げ出しにしたかったのだが。なるべく簡単にって検索して、イオンのやり方にたどり着く。

何でもサラダ油をふりかけて、電子レンジで3分。それで揚げたことになる、とある。
やってみました。ダメでした。
時間追加してもイマイチ。
とりわけオクラがスジが残り、揚出しにはほど遠い。

明日フライパンでもう一度揚げ焼きすることにしました。残念。

お盆にはそれぞれ毎日決まった物を供えることになっていて、それを諳んじて伝授してくれた亡き姑は やはり生粋の京都人だった。
私はその時のメモを未だに見ないと分からない。
明日の16日には、もう全部供え終えて供えたものを公園で集める。精霊流しという名のごみ収集。

面倒なのだが、いちおう自分も京都人になったつもりで乗っかっている。

ナスの揚げ煮。レシピ見ないで出来たら良いのにねぇ。

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母のことが嫌いです

2024年08月11日 | 65歳未満
初盆のお参りの日を機会に母に一時帰宅してもらうことにした。
施設でどうしているのかと聞くと、あまり良いことは聞かない。大概はベッドに横たわり、スタッフに依存しがちだという。出来るはずの゙ことも、やってもらおうとしがちだと。夜中にお腹が空いたと看護師さん呼び出しのベルを押したり、トイレもさせてもらったり 等。

そんなことを聞かされ、さらに時間を伝えて迎えに行っているのになかなか来ない。車椅子に乗せられて、靴下も履かず杖も持たずメガネだけぶら下げて ようようやって来た。

帰宅してきても、その言動がいちいちに腹が立つ。まず先に鍵を開けて待ってくれている私の夫によそ行き挨拶、◯◯さんすみませんねぇ、って。汗をカキカキ迎えに行った私については当たり前だと思っているのか、待たせておいて、平気な顔で そうやったん?と帰ることを初めて聞くように言っていたのに。

そこからしてデタラメだ、と感じる。

お寺さんを待つ間は 友人に電話。
電話で話したら少しでも元気になるかと思えばこそなのに。
元に元気に話していたのに。

その友人への愚痴を私に話す。
厚かましい人で亡くなった弟をこき使った、こき使っておいて何の悔みやお礼も言わない、と。何で弟が母の友人にこき使われたことになったのか?私はその経緯を知らされていなかった。引越の手伝いをしたらしい。
ということは、母が友人が引越すから一緒に行ってくれ、と言ったのだろう。友人から息子さんに手伝ってくれ、なんて急に言うはずはない、母が友人に息子をアピールするために引き合わせたのだ。そうしておいて、感謝を述べない友人、恩を売れなくなった友人を悪く言っている。寂しい時に電話かけてくれる友人なんてそれだけでもありがたいのに。表面では親しげに話しておいて私に悪口を言う。
そういう母が嫌いだ。
自分の友人関係に子どもを巻き込む。
子どもは自立出来なくなる。私も弟も。

仏間を2階の私のかつての部屋に移されたことも腹立たしい。そうしておいて、2階には上がれないと言う。良く分からない仏壇の掃除やら、弟が布団引きっぱなしにしていた仏間の片付けやら掃除やら お寺さんが来る準備やら全て私にさせておいて 前回はさらに当座になってから、お寺さんのおしぼり持って来いだの襖は閉めろ、開けろ、と色々指示して来る。そしてお寺さんにいくら包むのかと聞いてもわからない、と答えなし。

今日は2階に上がる際に階段の最後の段を上がった後、動けない、と到着したお寺さんの前で どうにもこうにもならなくなった。上がってしまっているのに、私は下から拝んでおく、とか 手を引っ張ってくれと言っておいて引っ張るとイタイッと言う。体が動かないのではなく、ヒステリーのようになっているように感じる。そんな時に、母の言うようにお尻を押したり出来ない私に怒ってくる夫にもウンザリ。ともかくも欠点のある、時に私に冷たく感じる夫ではあるがこの夫がいないと私は前に進めない。依存しているのである。母はそれを知っていて、こんな(ダメな)娘だけれどもよろしく、と夫に媚びるように挨拶する。

施設のことも文句タラタラである。
1人で怖い、誰も助けに来ない、ご飯が少なくてお腹が空く、朝の5時にカーテン開けられる、体操も何にもしてくれない、新聞なんて来ない、そんなん嘘や、
とどこまでが真実なのか分からない愚痴を言った後、そんなこと言っているなんて言わんといてや、とトドメを刺す。

ポータブルトイレに関しても、歩けるのにわざわざ使っているように思える。ポータブルトイレを使った後起き出してきて、ブツブツ自分はおかしいとか何とか言いながら 母の寝ている間に買っておいたゼリーやらジュースを冷蔵庫から出して口に入れている。私はテレビを切ってその場を離れた。スプーンを出す気も起こらない。勝手にどうぞ、もう姿も顔も見たくないです、って感じになってしまう。母が足を引き摺りながら寝に行った気配をみて、食堂を見に行くと やっぱり食べた後のゼリーの入れ物は置きっぱなし、ティッシュの丸めたのがあちこちに、電灯もつけたままである。毎回ティッシュの片付けである。私がするのが当然のように。

こういうことだから私はどこに行っても他人に使われる立場になってしまうのか。

施設でポータブルトイレの処理や掃除をしている人に何かあげたら良いかな、と言う。例えばお金を小さな袋に入れて渡すとか、500円とか…。って。私はもうそういうのに付き合いたくない、それが常識なのかどうなのかも分からない。ヘルパーさんにちょっとしたものを買ってきて、とか、そういうのも色々過去にしたけど もう疲れた、渡しそびれたとか、そういうのも もうイヤなんだ。母の思いつきのような他人との付き合い方に巻き込まれるのは、害あれどほとんど利がない。
ほとんどが不愉快な思い出である。

そんな大嫌いな母なのに、どうか幸せの方向に向きなおって欲しいと真剣に願っている自分がいたりする。本当にどうしようもない。
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ご先祖の納骨が終わりました

2024年08月05日 | 65歳未満
祖父母が共に遠方の県からやって来て 何度か市内の借家を経た後、落ち着いたのが現在の実家の始まりだ。
祖父は 里子に出されて育てられ高等師範出身の教師だった祖母の支えもあり、苦学の末に地位を得た。私の子供の頃は祖父の知人やお弟子さんと言われるような人達が母屋に出入りするようなそんな家であった。私はその家の初孫である。祖父が帰宅すると脱いだ帽子を幼い私に被せ、学会でもらって来たであろう造花やプラスチック製虫めがね付きの小さな定規のついた名札を土産にくれて上機嫌に可愛がってくれた。気難しいと言われた祖父は自分だけは可愛がっている、と言うような特別感が私を幸せな気持ちにして今まで引きずってしまっているのかと思う。

祖父は昔でいうところの家長だった。
金銭感覚に普通ではないところがあり、庭や住居にお金をかけていたことは薄々知ってはいたが
その程度が極端でそのために父が長年借金を背負わされていたことは私達世代には知らされていなかった。それもここ数日、母の雑多な大量書類を夫が整理する過程で次第に分かってきたことだ。父は祖父に反発したこともあったようだが、それでも最後まで祖父母を尊敬していたことは私にもよくわかった。

叔父の突然死、弟の病気を始め色々なことがあり、果ての私は自分でもそのような祖父母や父や母に全く相応しくない、ろくでもない人間となり年老いてしまったと自分でも思う。毎日が生きづらい。

父が亡くなり、母と弟で購入し祖父母の故郷から移した墓地は僻地で誰も通うことが出来なくなり まだ古くない墓を畳んでようやくこの度全体を本山に納めることとなった。
それを済ませたのが昨日である。

私の役目は曲がりなりにもこれで一段階を終えた、落ち着くところに落ち着いた という安心を得た。

実家に血縁のない夫と私の2人で10躰を優に越える大量で重い先祖納骨を何とか終えて 後は遅い昼食である。

円山公園、八坂神社に長楽館、と大谷さん、知恩院、それぞれの位置関係が長年分かっていず、今回の機会でようやく少しわかった。

見つけた食事処が いもぼう。有名で歴史あるお店にすんなり入ることの出来たラッキー。古風な襖や建付けを残した椅子席で個室の佇まいに満足したのも最初だけだった。店員スタッフの若さから来るのか振舞いがまず残念。出されたお茶にも幻滅。土瓶は欠け茶碗を差し出すも ご自分でどうぞと置いて出ていく。そのお茶は出がらしのような味。茶碗の洗い方が良くないのか臭いも変だ。鯛めしの食べ方を尋ねるとパウチされた説明を見てください、と返してきた。遅い時刻のためもあろうが日曜日の観光地、なのに客は私達だけだった。スタッフの数は決して足りていないはずはない、障子越しに雑談が聞こえてくる。夫の頼んだ鰻を一口もらったらカビの味。久しぶりの鰻に満足気な夫にそれはさすがに言えなかった。夫の言うように山椒がかかりすぎていたのかも知れない。
私の鯛めしは、生卵が付いていた。だしを生卵にかけて鯛の刺し身薄切りを漬けてご飯に乗せて食べる、とある。これにもいささかガッカリした。卵の黄身はなるほど大きく味濃い目、かも知れないが そもそも私は生卵が苦手なのだ。いつまでも口に残る卵の黄身味、口直しに飲むお茶が変で口直しにならない。5切れ程の鯛の刺し身も特段美味しくもなく、本当に失望した。夫の゙鰻に添えられた小さな昆布巻きを口に入れたが この味も苦手だ、と不味いお茶に手を伸ばす。
夫曰くメニューにはインバウンドさらに1000円プラスと表示されていたらしい。
あーはるばる外国から京都に来て有名店だと思って出された食事がコレだったら。しかも1000円プラス。ヒドイ。日本のイメージダウンだ。
後で調べると こっちが本店。本家と名のつく店舗も近所にある。本家の方がマシだったのか。それとも看板のいもぼうを食すべきなのか。海老芋を棒鱈で炊いた、いもぼう。味が滲みて美味しいんだそう、私はそもそも特に夏場にそんなものは食べたくない。大枚叩いてまで。

というわけで いもぼう店に文句たらたら。
最後に立ち寄ったのは これも有名和菓子
清浄歓喜団を販売するお店。

菓子の元祖、唐菓子 と呼ばれるお菓子だ。
一度は食べてみたかった。
想像していたものの、かなり硬い厚い生地を揚げた皮に包まれた餡は甘さはあれど、はっきり言えば私にすれば線香の味そのものだった。ものものしく黒に金文字で菓子名など記された2個入り箱。ええカッコしいの箱に思えるのがちょっと残念。でも一度は食べてみないと、である。
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