1976年。初夏。
いつものように金もなく昼飯抜きだ。まだ午後2時半だ。中野ブロードウェイを急いで歩きながら行き先は「シャドウ」でもない、勿論「サンプラザ」でもない。目的はハッキリしている。マイルスのレコードだって買わない。アサヒヤ書店で東山魁夷の画集も立ち読みしない。
パチンコ屋の手前の角を右に入る。今日は行くとこがあるんだ。三日ぶりかな。火曜日と金曜日は欠かさない。映画館も通り過ぎて、マージャン屋のとこの建物の2階へと続く階段を静かに昇る。バッグに植草甚一の本が入っていることを確かめる。マドロス・パイプが飛鳥とともにあることはわかってる。ロングピースは念のため持ってる。長丁場だよ、今日は。
「ビアズレー」のガラスの扉が見える。少しだけ中の音が聴こえる。いつもなら、キース・ジャレットの「ケルン・コンサート」が聴こえてたりするけれど、今日は違う。火曜日ならSってイニシャルの髪の長い可愛い女の子がウェイトレスをやっているんだけど、今日は7月17日で火曜じゃない。だからいないんだよ、彼女は。会いたいけれど大切な370円は、彼女のためじゃなくて自分のために遣わせてもらう。
二重扉をあけて中に潜り込む。席は空いている。黒い壁ではなく、黒い鏡。壁の上にレコードが詰め込んである。
マッチをもらう。パイプに火をつけるのにここのマッチはいい。箱にビアズレーの絵が描いてある。「オーブレー」のことも書かれている。オーブレーは、ビアズレーと姉妹店だけど中野駅を挟んだ反対側でマルイの横にある。あっちはボーカル専門で、こっちはだからボーカルは流れない。ボクはそれでいい。ボーカルの勉強もしなくちゃいけないけど、今は自分がやる演奏のためにラッパやサックスをたくさん聴かなければいけないんだ。
黒い鏡に自分のことを映しながら、一番前の左隅の席に座る。ここはボクの席だ。勝手に決めてるだけだけど。それにこの席の横には黒い鏡がないから、若いのにパイプなんか咥えてる生意気な自分の姿を客観的に見なくて済む。コーラを頼んで、パイプに火をつける。ゆっくりと煙を燻らす。
正面にはJBL!のパラゴンがある。中音域には芯があり低音も柔らかくて気持ちがいい。モンティー・アレキサンダーの「We've Only Just Begun」一曲目「It Could Happen To You」のズン・ズドド・ドンと入るタイコとベースのリズム合わせは、このパラゴンでないといけない。そのパラゴンの上に赤いバラの花が飾ってあって、真上にはジョン・コルトレーンのパネルにスポットが当たっている。命日だ。合掌。パイプの煙が線香がわりさ。
---聴いたこともないようなレアもののコルトレーンがかかっている。おおかた誰かが海外で購入したかなんかのライブものだ。バリバリ吹きまくってるコルトレーン。このいっちゃってる感覚が好きだ。汗が噴出してくる。ドルフィーと延々演奏し続けるライブも好きだけれど、それとは別に一人でバリ吹くトレーンはサイコー。誰かコーラになんか入れてくれ!ってお願いしたくなる。じゃないと聴いてらんない、負けちゃう。しばらくほとぼりが冷めると、「ア・ラーブ・シュープリーム」みたいな呪文で、またまた少しずつ絶頂へと向かい始める。
だからさ、これを何度も何度も何度も繰り返すのが、7月17日のビアズレーなんだ。いつイッちゃったのかもわからなくなるんだよ、6時間もこうしているとね。これじゃ夕飯も抜き出し、銭湯も行かなくていい。店に悪いから、もう一杯コーラ頼むよ。
※メモ:「恋するマドリ」 新垣結衣/松田龍平/菊池凛子
いつものように金もなく昼飯抜きだ。まだ午後2時半だ。中野ブロードウェイを急いで歩きながら行き先は「シャドウ」でもない、勿論「サンプラザ」でもない。目的はハッキリしている。マイルスのレコードだって買わない。アサヒヤ書店で東山魁夷の画集も立ち読みしない。
パチンコ屋の手前の角を右に入る。今日は行くとこがあるんだ。三日ぶりかな。火曜日と金曜日は欠かさない。映画館も通り過ぎて、マージャン屋のとこの建物の2階へと続く階段を静かに昇る。バッグに植草甚一の本が入っていることを確かめる。マドロス・パイプが飛鳥とともにあることはわかってる。ロングピースは念のため持ってる。長丁場だよ、今日は。
「ビアズレー」のガラスの扉が見える。少しだけ中の音が聴こえる。いつもなら、キース・ジャレットの「ケルン・コンサート」が聴こえてたりするけれど、今日は違う。火曜日ならSってイニシャルの髪の長い可愛い女の子がウェイトレスをやっているんだけど、今日は7月17日で火曜じゃない。だからいないんだよ、彼女は。会いたいけれど大切な370円は、彼女のためじゃなくて自分のために遣わせてもらう。
二重扉をあけて中に潜り込む。席は空いている。黒い壁ではなく、黒い鏡。壁の上にレコードが詰め込んである。
マッチをもらう。パイプに火をつけるのにここのマッチはいい。箱にビアズレーの絵が描いてある。「オーブレー」のことも書かれている。オーブレーは、ビアズレーと姉妹店だけど中野駅を挟んだ反対側でマルイの横にある。あっちはボーカル専門で、こっちはだからボーカルは流れない。ボクはそれでいい。ボーカルの勉強もしなくちゃいけないけど、今は自分がやる演奏のためにラッパやサックスをたくさん聴かなければいけないんだ。
黒い鏡に自分のことを映しながら、一番前の左隅の席に座る。ここはボクの席だ。勝手に決めてるだけだけど。それにこの席の横には黒い鏡がないから、若いのにパイプなんか咥えてる生意気な自分の姿を客観的に見なくて済む。コーラを頼んで、パイプに火をつける。ゆっくりと煙を燻らす。
正面にはJBL!のパラゴンがある。中音域には芯があり低音も柔らかくて気持ちがいい。モンティー・アレキサンダーの「We've Only Just Begun」一曲目「It Could Happen To You」のズン・ズドド・ドンと入るタイコとベースのリズム合わせは、このパラゴンでないといけない。そのパラゴンの上に赤いバラの花が飾ってあって、真上にはジョン・コルトレーンのパネルにスポットが当たっている。命日だ。合掌。パイプの煙が線香がわりさ。
---聴いたこともないようなレアもののコルトレーンがかかっている。おおかた誰かが海外で購入したかなんかのライブものだ。バリバリ吹きまくってるコルトレーン。このいっちゃってる感覚が好きだ。汗が噴出してくる。ドルフィーと延々演奏し続けるライブも好きだけれど、それとは別に一人でバリ吹くトレーンはサイコー。誰かコーラになんか入れてくれ!ってお願いしたくなる。じゃないと聴いてらんない、負けちゃう。しばらくほとぼりが冷めると、「ア・ラーブ・シュープリーム」みたいな呪文で、またまた少しずつ絶頂へと向かい始める。
だからさ、これを何度も何度も何度も繰り返すのが、7月17日のビアズレーなんだ。いつイッちゃったのかもわからなくなるんだよ、6時間もこうしているとね。これじゃ夕飯も抜き出し、銭湯も行かなくていい。店に悪いから、もう一杯コーラ頼むよ。
※メモ:「恋するマドリ」 新垣結衣/松田龍平/菊池凛子