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指揮者(故)岩城宏之さんが語ったこと

2023年07月29日 | 記録・観察ノート

<指揮者(故)岩城宏之さんが語ったこと>

 (公財)全国公立文化施設協会は、かつて『芸術情報アートエクスプレス』という冊子を発行していました。その「vol.22」(2005年発行)には『いま改めて問われる公共ホールの使命』指揮者岩城宏之氏に聞く──という特集記事が掲載されています。ここではその時の岩城宏之氏の言葉の抜粋を背景情報も含めて書くことにします。

 この記事には公共ホールの役割と、岩城宏之氏の現代音楽に対する思いが明確に語られています。岩城宏之氏はこの翌年他界しており、氏の活動を振り返っても大変貴重な意見で、先人の思いを風化させてはならないと感じています。本来なら全文を読んでいただくことが一番いいのですが、残念ながらすでに冊子のアーカイブは見つからずPDFファイルなどで直接閲覧できない状態です。それゆえ誤解のないよう注意しつつ一部について引用するという形をとらせていただきます。


 なお、この記事が掲載されたのは、おりから指定管理者制度が公立文化施設や博物館に導入され始めた2005年のことです。(※ 指定管理者制度とは、それまで行政が担っていた公立施設の管理運営を民間企業やNPO法人にも開放し、効果的で効率的な成果を得ることを目的にした制度で平成15年に地方自治法を改正し施行された。)この制度の導入は当時の文化ホールや博物館・美術館の関係者にとって青天の霹靂であり、文化芸術振興を目的とする公立文化施設の役割にこの制度はそぐわないのではないかという議論が巻き起こっていました。


 冒頭で指定管理者制度が民間企業に管理運営の門戸を開放する時代になったことを踏まえ次のような説明が付され、岩城宏之氏の話を導入していきます。

 

(前文の引用)―「現代音楽好き」と形容される活動の原点には、「革新性こそ芸術の命」とする使命感と信念、「動かない岩」があるようにお見受けしました。指定管理者制度で大きく変わろうとしている日本の文化環境。「公としての使命と役割」という視点にも確かなご意見をいただきました。―


 「革新性こそ芸術の命」とする岩城氏が公共ホールの役割を規定する前提となる考え方が次の言葉から伺えます。この後力説されますが、新作を聴衆に披露する場が必要なのです。

(岩城宏之氏・引用)

 僕は、世界で最も現代音楽を指揮していると思うんです。日本初演でも世界初演でもいいのですが、当然僕にとっても初めての経験であり、書かれたばかりの曲を指揮して、まだ何も知らない聴衆に聴いてもらうことが好きだということです。仮にどんなに聴衆が嫌な顔していても、です。時代の成り行きですが、NHK交響楽団の研究員として、当時の新作を片っ端から指揮しました。


 革新性があるということは、馴染みがないことでもあります。岩城氏はあえて「前衛音楽」を取り上げ多くの人たちに新しい音楽に触れる機会を用意していくことが未来にとって必要であると説きます。ただし馴染みがないものを演奏する場には、お客さんに来てもらいにくいというリスクがあるのも事実です。ホールや劇場にしてみれば聴衆が来ない公演では、厳しい経営を強いられることになります。

(岩城宏之氏・引用)

 日本の作曲家が書いたばかりの曲を、生きている僕が指揮して、生きているお客さんに聴いてもらう。きょとんとしていてもいいから新しい曲をたくさん聴いてもらい、インフォメーションを与える。彼らが未来にその曲を残すか残さないかを選ぶ。

(略)

 ベートーヴェンは、当時とても過激な前衛音楽として嫌われていた。全ての音楽が、作られたときは現代音楽で、かならず抵抗があったんです。ベートーヴェンも、オーストリアで相当に偉大になっても、フランスでは全然だめで、ある指揮者が自分でオーケストラを組織し、ベートーヴェンだけを10 年間定期演奏会した。それでやっとみんなが聴くようになりました。あのベートーヴェンでさえ、そういう指揮者が必要だったんです。


 これまでの時代背景には、「箱(文化ホール)」だけ作ってそこで実演する公演芸術を育ててこなっかったという地方自治体の文化芸術振興施策の無さに対する批判がありました。岩城氏が関係する「オーケストラ・アンサンブル金沢」は石川県立音楽堂を本拠地にしています。ここではソフトづくりが先行し相当なレベルになってから、それに見合う良いホールができた、という認識です。

 民間資金でこのようなオーケストラやホールを作れるでしょうか。という問いかけに対する答えが次に続きます。

(岩城宏之氏・引用)

 無理だと思います。石川県に感謝しているのは、日本というのは誰かが強力に何かをすると必ず誰かが足を引っ張りますが、金沢では今までに一度もそういうことはなかったことです。それに近い噂が出たこともありましたが、知事と市長がちゃんとつぶしてくれていました。県議会でも、なぜアンサンブル金沢になんか……という意見もあるんです。でも、不愉快なことは岩城に聞かせるなという部分を守ってくれていました。金沢は、「文化こそ生きる道だ」という、加賀百万石の伝統が生きているところなんです。


 また指定管理者制度を例として、近年の成果・効率主義が、本来、公が担うべき文化事業も民間に任せて縮小させてしまう傾向になっているという問いに対しても答えています。

(岩城宏之氏・引用)

 音楽なんかなくたって飯は食えるんです。無駄なモノなんです。でも無駄なモノを大切にするということが人類の人類たるゆえんです。その人類のゆえんを作るために、行政が義務として、まず第一に「文化」をやらなければいけません。


 最後に「お金にはならない現代音楽や芸術音楽をまもっていけるか」という問いに対し、わかりやすくかつこれからの公共ホールのあり方について示唆する言葉で答えてくれています。これが最も重要なポイントです。

(岩城宏之氏・引用)

 面白くて分かりやすいものが良いものとは限りません。ちゃんとした良い小説は相当我慢して読まないと読めません。

 音楽は、絵や彫刻などの先端の芸術から60.70 年の時間差があります。目は、初めて見るものでもその良さがわかりますが、耳は、耳になじんだものが好きなんですね。それでも、かつては大スキャンダルだったストラヴィンスキーの「春の祭典」が今ではもう古典です。慣れることが大切です。子どもの頃から耳慣れた音楽と難解な現代音楽も両方聴かせるべきなんです。そのためには積極的に、強引に現代音楽も演奏していかないといけません。今は、公共ホールこそ現代音楽のような芸術をサポートできる唯一の「場」なんです。その場限りの考えで文化を切り捨てることは、将来に大きな禍根を残す事になります。


●岩城宏之氏について:1932年東京生まれ。NHK交響楽団終身正指揮者でした。オーケストラ・アンサンブル金沢音楽監督、石川県立音楽堂芸術総監督も務めました。

●参考文献及び画像:(公財)全国公立文化施設協会『芸術情報アートエクスプレス』「vol.22」


トランペットを始めた動機は不純だった(2)

2023年07月26日 | 記録・観察ノート

トランペットを始めた動機は不純だった(2)

 前回の記録・観察ノートのリンクはコチラ 『トランペットを始めた動機は不純だった(1)』(https://blog.goo.ne.jp/bule1111_may/e/2c8071b46b182f9089b37c5bb161fb5

 ここではトランペットを吹くことになるまでを、自分ごとなので申し訳ないが記録している。前回までのお話では中学校のバスケットボール部の腹筋練習に嫌気がさして退部し、たまたま耳にしたブラスバンド部の演奏に心誘われ入部したが、吹いてみたいと思っていたトランペット・パートはすでに埋まっており空いていた大太鼓を担当させられ毎日行進曲の二拍子を叩いていたというところまで書いた。次からつづきのパート2が始まります。


 さて、秋になると三年生の先輩たちがブラスバンド部を引退することになり各楽器の代替わりが始まった。いよいよトランペットを担当する時が来たのだと一人密かに期待しながら田んぼ道をスキップしながら(おおげさだが気持ちはその感じ)学校に向かった。が、結局かねてより引き継ぐことになっていたユーフォニアムを担当することに変わりはなかった。トランペットの担当は上手い人が数名いたし自分がユーフォニアムを吹かないとパートに穴が空いてしまうのでわがままを言えるような状態ではなかった。

 ユーフォニアムは低音パートの楽器だが曲によってはテナーサックスなどの中音域の旋律を演奏することもあり、また主旋律に対してユーフォニアムに裏旋律を吹かせる曲もあり吹いていて楽しくなってきた。毎日技術を磨く個人練習を続け、全員で一曲仕上げるために合奏練習を繰り返しているとおもしろさも増しユーフォニアムが好きになった。

 二年生になりパートの代替わりも落ち着いた頃、みんなの成果を発表するつもりで吹奏楽コンクールの出場にエントリーした。ところが三年生たちが模擬試験日と重なり参加できなくなってしまった。せっかくまとまりが出てやる気もアップしてきたにも関わらずコンクールに出られない、みんなガッカリし練習にも来なくなってしまった。しかしもともと三年生の人数が少なかったこともあり、何名かで顧問の教師に嘆願しに行き二年生以下だけでも出場したいと主張し職員会議で許可を得た。昭和の東京オリンピックよろしく参加することに意義があるので演奏ができればよかったのだ。しかしコンクールでは予想もしなかった結果で「努力賞」として入賞することができ、みんなで大喜びした。コンクールへの出場は2度目だったが、少ない人数(当時の人数規定では25名以下のバンドは県大会には出られないB部門にエントリー)ながらアンサンブルがうまくいき各パートがきちんと吹き切った点が評価されたようだ。三年生には申し訳ないが二年生以下で入選することができたことが誇らしく楽器をやっていて良かったとあらためて思った。また、この成果への尽力がみんなとの信頼関係に結びつきブラスバンド部の運営を代表する部長を任せてもらうことになった。

 三年生になった。これまでと同じメンバーに一年生を加えいい演奏ができると思いコンクールでもさらに上を目指せると心の中で夢みていた。ところが、テューバを吹いていたY君がこの楽器はメロディーがなくておもしろくないという理由でブラスバンド部をやめてしまった。きっとクラリネットやトランペットが吹きたかったのだと思う。だがそんな個人のわがままを通すことが彼にはできなかったのだろう。新たにテューバを担当する人を決めなければならず三年生で会議を持った。しかし、すでに各パートともメンバーが落ち着いており当然ながら誰も手を挙げなかった。

 というわけで、自分がユーフォニアムからテューバへと楽器を変更した。低音パートなのでそれが自然だと思ったし、練習を重ねテューバに慣れるのにそれほど時間はかからなかった。部長としてなんとかせねばならなかったのだ。けれど楽しかった裏旋律とはオサラバだし大きな楽器同様マウスピースもサイズが大きくなり、いよいよトランペットから遠のいてしまい内心残念に感じていた。そんな時、気持ちを前向きにしたくて家族の知り合いから使い古しのトランペット(ドイツ製ヒュッテル)を5,000円で購入した。当時の中学三年生にとっては高価な買い物であった。平日は学校でテューバを吹き、休日は家の近くの田んぼで名曲集の楽譜をトランペットで練習した。この年のコンクールはパートの準備不足もあり入賞を逃したが悔いはなかった。

 高校生になると(1)で前述した通り、クラシックにつながるフレンチホルンを自分の楽器として選び、ジャズトランペッターからまたまた遠のいた。大太鼓、ユーフォニアム、テューバ、フレンチホルン、時々トランペットという遍歴と中学時代に部長として指揮棒を振ったり各パートに耳を傾けたりした経験は、その後の人生に大いに役立っている。高校時代も同様に吹奏楽部の部長になり同じような日々を送り音楽三昧の毎日を送ったのだった。

 高校を卒業した三月。音楽漬けの日々に相応しく浪人が決まっていた。(音楽漬けだったが音楽大学に進む気はなかった)大学のモダンジャズ・サークルでトランペットを吹くつもりだったがそれもお預けになった。ヒュッテルのトランペットは卒業と同時に後輩に3,000円で売り払った。自分はテレビの洋画劇場で見た映画『五つの銅貨』のレッド・ニコルスに憧れ、当時ヤマハから始めて発売されたショート・コルネット(英国式ブラスバンドで使われるコルネットは主にショートコルネット。このほかにアメリカ式でジャズ・吹奏楽に使われるものは形の若干異なるロング・コルネットがある。)を購入した。その後、東京で下宿暮らしを始め予備校に通いながら、高田馬場のビッグボックスの中にあったビクター・ミュージック・プラザの無料貸しスタジオでこの楽器を吹きながらジャズの沼にハマっていった。(ジャズの沼にハマる話はいずれそのうちするのでここでは割愛する)そしてこのショート・コルネットと大学入学後もしばらく付き合い、純粋にラッパ吹きになったのは社会に出てからだった。腹筋トレーニングが嫌でトランペット吹きを目指してから何年も過ぎていた。

 

(おわり)


北杜夫・著「どくとるマンボウ青春記」

2023年07月23日 | 読書ノート

 北杜夫・著「どくとるマンボウ青春記」

 この作品は昭和43年3月中央公論社より刊行され、平成12年10月1日新潮社の新潮文庫として発行されました。著者の北杜夫(きたもりお)は1927(昭和2)年の東京生まれで本名は斎藤宗吉。すでに2011(平成23)年に84歳で亡くなっています。北杜夫の父はアララギ派の歌人で精神科医でもあった斎藤茂吉です。北杜夫は父に抗いながらもその影響をうけ精神科医で小説家としての道を歩み、たくさんの小説やエッセイを著しました。代表的な作品には精神病院を舞台に自分の家族をモデルにした長編小説『楡家の人々』があります。著書のタイトルにある「どくとるマンボウ」とは海の呑気者・マンボウと医師で怠け者の自分を重ねたもので、その名前を冠したエッセイがシリーズ化されています。

 この本の時代背景は先の大戦の敗戦(1945年)を挟んだ戦中、戦後です。日本人の誰もがひもじい時代、腹を空かしながら若さ故に騒がしくそれでいてナイーブな毎日を送る信州の旧制松本高校生時代と、医学部に入学後作家をひたむきに目指し躁鬱気味な東北大学生として悩む日々が、著者特有の感性で生き生きと描かれています。


 「どくとるマンボウ青春記」とは何か?その答えは人それぞれで違うだろう。ただこれだけは言える。この本を読むと自分の「青春」が呼び覚まされその時の意識や精神が蘇る。老人にとっては若返りのカンフル剤になり、若者にはバカなことでも真剣に取り組むことの面白さを教えてくれるはずだ。本書の解説で歌人・俵万智がうまいことを言っている。(引用)「…本書を読みすすめていくうちに、これこそが青春時代の、一つの正しいありかたなのだ、と思われてきた。大げさに聞こえるかもしれないが、いまの日本に一番欠けているものが、ここにはあるのではないか、と。」(引用終わり)俵万智さんが言う一番欠けているものについて知りたい方、知っているがあらためて確認しようと思った方はこの本を読んだ方がいい。北杜夫氏の躁鬱的な行動がそのままエッセイになったようなところがあり、それこそが青春期なのだと理解できるはずだ。

 自分がこの本を読んだのはちょうど青春の入口と言える高校一年生の頃だ。北杜夫のエッセイは「どくとるマンボウ航海記」をはじめユーモアにあふれた内容で同年代にもファンが多く自分のクラス内でも話題になることが多かった。同級生のT君などはいまでも会話する機会があると話の中にエッセイの一節を入れてくるほどで、それがお互いを確認し合う方法にまで昇華されているほどなのである。

 ところでジャズという音楽は現在すでにムードミュージックのようなBGMとして受け入れられるものになってしまった。かつて脳や心を揺さぶった刺激的なジャズが、いつのまにか心地よいララバイに変わってしまったのだ。同様に人々を虜にした昭和の価値ある小説はさらに危機的で、いまや忘れ去られリユースの価値を奪われ誰も目にすることなく処分され読む機会すら与えられずに葬られようとしているものがある。良書や北杜夫さんのような人の書物がこの先も人々の目にとまり、新鮮な感動を与える機会が失われることがないように祈る。


トランペットのアンブシュアについて

2023年07月20日 | ドレミノート

<トランペットのアンブシュアについて>

 アンブシュアは、管楽器を吹くときの演奏者の口の形のこと。もともとフランスではマウスピース(吹き口の部分)のことをアンブシュアと呼んでいたが、日本でアンブシュアといえば演奏の際に息を吹き込むマウスピースに接する口の形を指す。

 ところで管楽器は金管楽器と木管楽器に大別され、それぞれでマウスピースの仕組みが違うためアンブシュア自体が異なっている。木管楽器はマウスピースに固定したリード(薄い板)を振動させて音を出し(ただし吹き口の穴に息を当て音を出すフルートを除く)、金管楽器は金属のマウスピースに接する唇を振動させて音を出す。唇の振動に頼らずリードの振動によって音を出す木管楽器の方が比較的容易に音を出すことができるが、楽器吹奏の技術まで容易であることを意味するものではない。ここで採りあげるトランペットは金管楽器なので、金属のマウスピースに息を吹き込み唇を振動させて音を出す仕組みについて書く。

 金管楽器の音の出し方のみにスポットを当てると、マウスピースが小さい楽器(トランペットやホルン)の方が音は出しづらい。トロンボーンやユーフォニアムはマウスピースのサイズが人の唇にちょうど当てはまり、唇の振動を無駄なく楽器に伝えられる点で音は出しやすい。またマウスピースのサイズが大きいチューバは音を出すことができても、唇をしっかりと振動させ息をたっぷりと吹き込なければ低音の響きを得ることはできない。金管楽器は唇の振動と唇から吹き込む息の出し方で音が鳴る。

 実は多くのトランペット奏者は、アンブシュアに迷い悩んできた経験があるはずだ。自分などは、音が出しづらいだけでなく、長い時間吹くことができる唇の耐久性、低音からハイトーンへ柔軟に吹奏する対応、音の強弱やリップスラーなどのコントロール、楽器を構えた時の見た目など、何年も悩みその結果ついにどうでも良くなり気持ちよく吹ければそれでいいと開き直って現在に至っている。だがそんな気分だけで整理してしまうのも何なので、トランペットとアンブシュアに関係する内容を手元にある冊子から抜粋しここに記載することにした。気に入ったものがあればぜひ手にとって読んでいただきたい。

 わざわざ抜粋を読むまでもないとお考えの方のために、ポイントのみ挙げておくと<唇にマウスピースを押し付けすぎない><上唇の振動は必要だが下唇は振動していない><マウスピースが唇の左右にずれていてもそれでいい音が出ていれば構わない><これが良いというお手本のようなアンブシュアはない>ということです。ではどうぞ。

 

「Amazing Phrasing TRUMPET (インプロヴィゼイション・スキルが向上する50の方法)」

株式会社エー・ティー・エヌ

著者:Dennis Taylor & Steve Herman 

翻訳:佐藤研司 

2003年発行

(引用)

…歯並びや唇の厚さは人それぞれで、各自が目標とするゴールも人によって異なります。何が自分に必要なのか探すためには、経験を積んでいかなければなりません。…ウォーミング・アップをするときに、このエクササイズも時どき試してみましょう。毎回できる範囲でレンジを広げていき、最終的にはあなたの演奏に必要なレンジすべてでできるようにしましょう。…

 

「超絶トランペット(サックス&ブラス・マガジン)」

リットーミュージック・ムック

著者:佐久間勲

2008年発行

(引用)

アンブシュアの極意はスイカの種を捨てる口の形

…「スイカを食べつつ、種を選り分けながらペッと捨てる」ニュアンスが望ましい。その時の口の形を考えてみると、無理矢理すぼめてもいないし、両側に引っ張っているわけでもない。…(ここからがポイントか?!)バズィング中に上唇だけを指で押さえると振動が止まるのだが、下唇だけを指で押さえても振動が続く。おそらく「下唇を支えとして上唇が振動している」という状態だろう。…唇の形や歯並び、骨格などは十人十色なので、基本的な条件を満たしていれば「このアンブシュアが絶対」ということはない。…

 

「金管ハンドブック」奏法のツボとコツ /ESSENTIALS OF BRASS PLAYING

パイパーズ

著者:フレッド・フォックス

翻訳:滝沢比佐子

1978年発行

「超絶トランペット」の佐久間氏同様以下の内容が示されている。

(引用) 

…マウスピースを用いず唇だけでバズィングし、バズィングで音を出しながら下唇に触れてみる。この時、バズィングは止まることなく続いていることに注目していただきたい。もう一度やってみよう。ただし今度は下唇ではなく、上唇の振動部分に指を触れる。バズィングは止まったであろう。結 論:上唇はヴァイブレイションのもとである。下唇と舌は入れ替えても結構まともな音で吹ける――もっとも広い音域を吹きこなすというわけにはいかないが、冗談に私は時々そうやって吹いてみせることがある。

(引用)

初心者にまずやらせるべきことは、マウスピースを用いずに唇だけでバズィングすることである。初心者は楽器で音を出そうとする時、頬をふくらませがちである。アムブシュアをかたちづくるのに、マウスピースを支えにしがちなのである。つまり、口の両端の筋肉よりもマウスピースの圧力に頼ってしまうわけである。なるほどたしかにマウスピースの圧力はある。しかし、その程度は最小限に留めなければならない。なぜならば、高音域に上がるにつれていよいよ圧力を加える必要があり、簡単に出る中音域の音ですでに過度の圧力をかけてしまうと、ほんとうに必要な時に、十分な圧力の貯えはなくなってしまうからである。

 

「エリック・ミヤシロのBRASSテクニック・ガイド」

パイパーズ

発行者:杉田道夫

2008年発行

エリック宮城氏がアンブシュアについて応えたインタビューから

(引用)

…悪いアンブシュアを考えてそれを避けるようにすればいい。…その人にとって気持ちのいいアンブシュアであればそれでいいんだと思います。いろいろなプレイヤーがいて、いろいろなアンブシュアがある。悪いアンブシュア、いいアンブシュアではなくて、音が良ければ何でもいいと思いますよ、僕は。…「いい音」というのは、本人の頭の中にある「イメージ」の問題だと思いますよ。よく、新しい楽器に替えたときに、替えた瞬間はすごく音が変わっているんだけれど、何週間か経ってみると結局は前と同じ音だった、なんていうことはよくあるじゃないですか。周りの人たちも、その人が楽器やマウスピースを替えたことなど気がつかない場合が多い。結局、自分が持っているイメージ以上の音は、奏法や楽器を変えても出ないと思う。だから、生徒にいい音を吹かせたいときは、実際にいい音を聴くように薦めて、「自分はこんな感じで吹きたい」というイメージを彼らに探させるようにして、それを真似させるようにするんです。

 

「初級脱却トランペット練習術」

リットーミュージック

著者:中山浩佑

2013年発行

(引用)

…ベストなアンブシュアは十人十色…アンブシュアは見た目の綺麗さよりも体の使い方や、舌の使い方、息の使い方などがより大切だと思います。そもそも一般的に言われる奇麗なアンブシュアの定義自体、なぜそれが正しいと言われているのか怪しいと思っています。…例えば10人いたら、外観、声、背丈などが違うように、歯ならび、アゴの噛み合わせ、舌の長さなどの条件も違いますよね。アンブシュアも自分にとってベストのものが人と違っていても、良い結果が出ていればそれでOKと考えています。


1979年(4)

2023年07月18日 | 記録・観察ノート

 1979年当時の学内の状況を記録しておきたいが、あまり個人的な内容に偏るわけにもいかないと思う。ただあの時代の一部を補足する意味から自分の知る範囲で整理しておく。あの場にいた彼ら彼女らの体験した日常だったと理解してほしい。

 

 文連では学内闘争として、前々年度の学園祭開催に向けて自主管理・自主運営を貫こうとする運動の中で大学当局による数名の不当処分者を出しており、1979年に入っても反処分闘争・学内管理強化反対闘争を続けていた。また、新施設建設計画があり当局による一方的施設建設反対とそれに伴う学費値上げ反対闘争を準備する状況にあった。

 学外の政治闘争では「成田空港」の建設をめぐり三里塚芝山連合空港反対同盟に連帯する三里塚空港粉砕・二期工事着工阻止闘争に「三里塚闘争に連帯する会」を通じて参加しており援農にも行っていた。関連して1978年の空港開港阻止闘争に横堀要塞の外で機動隊と対峙し公務執行妨害で逮捕された三闘委の一名を支援する裁判闘争が進められていた。また部落解放同盟に連帯し「狭山差別裁判糾弾闘争」に東京北部狭山闘争実行委員会として参加し、逮捕された石川一雄さんを奪還する再審請求闘争を続けていた。さらに日韓連帯闘争では地域の人たちと日韓連帯を考える学習会なども進めながら無実の在日韓国人政治犯釈放に向けて運動に共闘していた。当時の「朴正煕軍事独裁政権」が在日韓国人を「北朝鮮」のスパイとして逮捕した事件だ。その連帯運動は後に大きなムーブメントへとつながり、1980年の韓国の全斗煥政権打倒、金大中氏奪還や全羅南道光州蜂起に連帯する闘争へと発展した。これ以外にも障害者解放をはじめとして取り組むべきことはあったが、組織的な取り組みにはなっておらず未消化な状態だった。

 その頃、狭山闘争は「5.23部落解放・狭山差別裁判徹底糾弾闘争」に向け状況が活発化していた。北部狭山闘争実行委員会も西武線池袋駅頭でのビラ配りなどを原則的に実施し、学生、公務員、会社員が共同で情宣活動を行っていた。狭実委へは大学から文連と自治会が連帯しており両者は学内的に相容れないところもあったが地域への共闘に向け大学狭実委を形成していた。自治会は労働者階級解放闘争同盟(日本社会党社会主義青年同盟協会派系)というセクトだが、個別狭山闘争の地域共闘では委員会に対するヘゲモニィをとることはなく原則的な立場をとっていた。

 余談だが、池袋駅頭の情宣ではマル青同(マルクス主義青年同盟:元ブント・共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派系の流れを汲んだ組織)が戦闘服に街宣車で駅のロータリーに乗り込んできて大音響でアジテーションしながら機関紙『党旗』やビラを街ゆく人たちに配っていた。狭実委の人たちとは無関係だが街ゆく人たちから見れば同じに見えていたかも知れない。

 

 僕はあの頃、文連や新聞会の人からよくオルグに誘われ学生街の喫茶店に連れて行かれた。テーブルに向かい合わせに座り冷めたコーヒーをすすりながら「個別サンリヅカ、個別サヤマは既に理解していると思うので、そうではなくてカイキュウテキガクセイウンドウのゼンシンに向けて…云々」。大変勉強になった。日比谷公園、明治公園や清水谷公園、礫川公園、神田や四谷、労農合宿所での出来事、この年初めて6.28に開かれた東京サミットに党派がこぞって反対したサミット粉砕闘争などその後の話はまだまだあるが少し気が変わった。

 事実を記録するにしても暴露記事にするつもりはない。それでは笑い話だ。時代はこの後ポストモダンに急旋回しパラノからスキゾへと意識が変容していき、ストイックに語れば語るほどくちびるが寂しい。みんながどこかで自分らしく生きていることを祈りながら、僕もあと数年語るのをモラトリアムしておこうと思う。

(おわり)


小澤征爾・著「ボクの音楽武者修行」

2023年07月15日 | 読書ノート

 この作品は昭和37年4月音楽之友社より刊行され、昭和55年7月25日新潮社の新潮文庫として発行されました。著者の小澤征爾はもちろん国際的指揮者としてクラシック音楽好きの誰もが知っている小澤征爾さんのことですが、この作品の面白いのは大御所として活躍する以前(駆け出しと言ったら失礼ですが)の小澤征爾さんが昭和37年にまだ26歳の若者として自ら綴ったところです。1959年から1961年までの約2年半、その場その場でふりかかってきたことを精いっぱいやって、自分にできる限りのいい音楽をしてきたことが生き生きと語られています。



――スクーターを唯一の財産として神戸から貨物船に乗りこみ、マルセイユからパリまでたどりつき、フランス国内、アメリカ、ドイツ、そしてふたたびアメリカへと回って日本へ帰る――お話の舞台は日本ではなく海外です。1964年に日本はようやく海外旅行の自由化が始まった訳ですから、この時の“世界の小澤征爾”さんが繰り広げる体験には新鮮な驚きや喜びに溢れています。


 また、なぜ貨物船で海外旅行に出たのかといえば、それは小澤家が裕福な資産家ではなく貧しかったからです。しかし小澤家は指揮者として武者修行に行くことを望んだ息子の意思を全く否定せず応援したことが、旅先から実家宛に送る手紙に書かれた素直なやりとりから読み取れます。


 この本は小澤さんの主な行動にスポットを当てた部分と日記として生活について書かれた部分が交互に記載されており、読んでいると出来事の順番を見失うことがありました。これは自分に限ったことで全ての読者が同じとは限らないのですが、ここでこの旅の流れを時系列で大雑把ですが整理しておきますので、今後読書をすることがあれば参考にしていただければ幸いです。


1959年

(日本出発 貨物船淡路山丸による航海)

2月1日 神戸を出港

2月4日 フィリッピン エスタンシャ島寄港

2月28日 インド ボンベイ寄港

3月10日 アフリカ ポートスーダン寄港

3月12日 エジプト アレキサンドリア寄港

3月?日 イタリア シシリー島寄港

3月23日 フランス マルセイユ上陸

(ヨーロッパ スクーターや列車による移動)

4月8日 フランス パリ

9月7日 フランス ブザンソン 国際指揮者コンクール・一次

9月9日 国際指揮者コンクール・二次

9月26日 ドイツ ベルリン 音楽祭へ

10月12日~ パリ、ドナウエッシンゲン、ストラスブール

12月4日 ノルマンディの修道院

12月28日 チロル

 

1960年

1月11日~ パリ 自動車免許取得 トゥールーズで演奏会ほか 

3月29日 ロンドン、パリ

7月11日~ アメリカ ボストン タングルウッド・コンクール

9月末~ パリ、ベルリン

10月~ カラヤンによるレッスン

10月9日 ドナウエッシンゲン現代音楽祭

10月24日~ パリ、ベルリン、チロル

 

1961年

1月6日~ パリ、ベルリン

3月 アメリカ ニューヨーク・フィルハーモニー副指揮者就任

4月24日 羽田着 日本(JALニューヨーク・フィル特別機)



 私がこの本を最初に手にしたのは昭和47年(1972年)頃だったと思います。その頃若き小澤征爾はいい音楽を世の中に送り出し続けていました。NHK交響楽団の正指揮者には小澤征爾より3歳年上の岩城宏之がいて、やはり新鮮な音楽を世の中に送り出し続けていました。テレビ番組では山本直純の「オーケストラがやってきた」が放映されクラシック音楽が茶の間(今は使われない言葉!)により身近になった時代でした。この書籍をまちの本屋で見つけた時に、表紙の絵はシンプルでしたがスクーターに乗って音楽修行に行くという感覚に心がワクワクし少ない小遣いを顧みず即座に購入しました。この本のおかげで自分の人生もずいぶん豊かになった気がします。


(おまけ)

1996

タングルウッド 小澤征爾

ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」

https://music.youtube.com/watch?v=pBw3Cnwnwqs&si=Ufc1APaDkPzxQMsS


トランペットを始めた動機は不純だった(1)

2023年07月12日 | 記録・観察ノート

 今でこそジャズ好きと明言して憚らないが、トランペットを始めることにした動機は不純だ。今思い返してみても確かに不純だ。話題としておもしろくもない。それでもまだラッパを吹いているわけなので、一応経緯を素直にまとめて記録しておくことにした。

 

 ――昭和47年、高校一年の夏休み。すでに8月に入ったある日の朝。普段はバンカラを気取って下駄で通っていた高崎高校へ珍しく革靴を履き自転車をこいで向かった。所属する吹奏楽部の定期演奏会の日だ。高々生(群馬県立高崎高校生の略称)として群馬音楽センターのステージで演奏する喜びと期待と緊張感を胸に、いつもより空気の澄んだように感じる早朝の高崎市の街中を走り抜けた。自分にとって音楽は高校生活に欠かせないものになっており、とりわけ吹奏楽は伝統的なクラシック音楽に通じるだけでなく、ちょっと大人びたジャズにも繋がるところが魅力だから、管楽器を通じて自らの感性を膨らませる可能性を十分に託すことができた。――

 

 高々に入学する時にはすでに吹奏楽部に入りフレンチホルンを吹こうと決めていた。高崎四中でブラスバンド部に入部していたし、高々のブラス(部員はわざわざ吹奏楽部とは呼ばずブラスと呼んでいた)には高崎四中のブラバンでお世話になった先輩もおり自然に先輩の吹くフレンチホルンを担当したいと思った。また当時、中学にはフレンチホルンがなかったので吹いてみたいという願望もあった。ホルンの音色は柔らかく澄んでおり複数で音合わせするとハーモニーが美しく響くところが好きだった。

 

 ここまでの流れでは音楽を好きになった動機は管楽器が好きなんだなと感心して終わるところだが、中学校でブラスバンドに入ろうと決めた経緯があまり感心できるものではなかったことが不純なのだ。それでも音楽を始めるきっかけになったのは間違いない。

 中学に入学した頃、背の高さは160cmを超えておりさらに伸び盛りだったこともあり、短絡だが背が高いのだから部活をするならバスケットボール部だろうと思い体育館で汗を流して練習する先輩たちを眺めながら入部することにした。華麗にボールを運びコートの中を跳躍しゴールする自分を想像しながら毎日部活に足を運んだ。が一週間、現実は毎日先輩たちの練習を横目で見ながら掃除と腹筋トレーニングに明け暮れていた。新入生なのだから当然といえば当然だ。それから再び一週間が過ぎたが朝練も放課後や日曜日の部活も腹筋トレーニングが続いた。しかも腹筋が苦しくなってあげている足が床につくと、先輩がそれを見つけてバスケットボールをぶつけてくる。だんだん嫌気がさし始め面白くないと思い始めた。次の日曜の部活は家族と祖母の墓参りに行く予定だったので事前に三年生の先輩に休みを申し込んだがあまりいい顔をされずなんだか強引に休む形になった。休んでみると腹筋の特訓から解放されてスッキリしたが、そのまま部活を続ける気持ちも薄れてしまい翌日先輩に退部を申し出た。退部すると身軽になった気持ちがした。しかし腹筋との戦いに負けたような虚しさも感じていたし、このまま部活をせずに帰宅部になるのは嫌だった。

 すでに入学してから三週間が過ぎており、部活をしようとする新入生はだいたいそれぞれの活動の場におさまっている時期だった。やれやれ…、溜息をつきながら帰りがけの通用門を通りかかると、その脇にあった音楽室からブラスバンドの楽器の音が聴こえてきた。いつもなら気にせず通り過ぎるのだが沈んだ気持ちにその音が不意に流れ込んできた。決して上手な演奏ではないけれど楽しそうだった。金管楽器や木管楽器、打楽器などの音がぶつかり合って曲を奏でており、トランペットに魅力を感じてしばらく聴き入った。こんな部活もあるのかと思った。楽器の練習をしていてまさかバスケットボールをぶつけられることもあるまいという負け犬の声も心に聞こえた気がした。

 ブラバンに入部しようかどうか一晩考えてみたが、ピカピカした金管楽器に魅力を感じ始めていた。授業が終わりブラバン部員のいる音楽室へと向かった。入部したいと三年生に伝え楽器はトランペットを希望すると話したところ、すでにトランペットの人数はいっぱいで他の楽器も足りていると言われてしまった。仕方がないので入部を諦めようと思っていると、三年生の一人が大太鼓なら空きがあると言ってくれた。それから秋に部活を終える三年生の楽器でユーフォニアムが空くので、大太鼓を担当しながら先輩の練習の合間に吹かせてもらえばいいということになった。結構なことなのでそれに賛同し入部することに決めた。

 入部してみると中学のブラバンでは楽器の数や種類も少なく、部員数は22名でシンプルな行進曲くらいしか演奏できなかった。本来、大太鼓の担当と言ってもパーカッション全般の中の一担当のはずだがこの中学校にはティンパニやドラムセット、マリンバなど興味を唆られるような楽器はなかった。それゆえ大太鼓の演奏と役割は、2/2で強弱・中弱を繰り返すマーチの単調な二拍子が主たるもので凝った演奏はないに等しかった。それでも小学校の時に運動会の鼓笛隊でシンバルを担当した経験があったので、単純な演奏には慣れておりシンプルな音を出すパートも必要だし、まあいいやと思った。音楽とはみんなで合奏するものなのだと自分に言い聞かせドン・ズドンと太鼓を叩く日々を重ねた。

 腹筋地獄から逃げ出せたのは良かったが、大太鼓見習いの時間が続きなかなかトランペットを手にすることはできなかった。

(つづく)


トランペットのバルブオイルについて

2023年07月05日 | ドレミノート

 バルブオイルは、トランペットなどの金管楽器のピストンの動きを良くする潤滑油で管内部を錆から守ります。ピストンバルブとバルブケーシングの隙間に直接オイルをさして使用します。

 ピストンバルブの滑らかな動きは金管楽器の演奏上とても大切で、バルブとバルブケーシングは互いに擦れ合う金属パーツのため精密に作られています。これをスムーズに動かすためにバルブオイルが必要です。

 私が使用しているバルブオイルは、ヤマハ製のValve Oil Synthetic “LIGHT”です。100%化学合成オイルで『ライト』(低粘度のサラサラ系のオイル)を使用しています。しかし吹き続けているとピストンの動きが急に悪くなることが度々あります。サラサラ系というとピストンの動きがスルスルと早くなるように考えがちですが実は違います。低粘度でキメが細かいオイルなためにバルブとケーシングの隙間が狭いトランペット向けという点が『ライト』のポイントになります。『ライト』の場合は潤滑剤としての効果も高い反面、サラサラのオイルがバルブから管内に流れやすくピストンにオイル切れが起こりやすいようです。そのためオイル調整をこまめにしないとピストンの動きが悪くなります。(管内が汚れている場合はオイルをさしても動きは改善しません。きちんと掃除しないと後悔します。)

 

 オイルの種類にはヤマハの場合は『ライト』のほかに『スーパーライト』『レギュラー』『ヴィンテージ』などいくつか種類があります。私は管内をブラスソープを使用したり水洗い清掃をした際には、オイルを『レギュラー』に変えることがあります。気分的なものですが粘度もほどほどで使いやすく思います。また『ヴィンテージ』ですが、これは古い楽器に使用するのでこのような名称がついているわけではなく粘度が高いことを意味しています。トランペットより大きなユーフォニアムやテューバなどに向いています。

 以前、アントン・コルトワのフリューゲルホルン用にHetmanのバルブオイルを使用していましたが、こちらは名称別に新しい楽器には「Light PISTON」、一年以上使った楽器には「PISTON」、それ以上なら「Classic PISTON」と楽器の新旧で使い分けるようになっていました。ヤマハの設定と異なるので覚えておくと便利です。楽器も使い込むと少しずつ隙間が生じ、これを埋めるためにオイルを使用するという発想がHetmanにはあるわけです。今はフリューゲルのバルブにもヤマハの「レギュラー」を使用してますが特に問題は感じません。

 

 バルブオイルの話は地味ですが毎日のように使用するものですからたまに見直したりして吹奏感が高められればいいと思います。備忘録として整理しておきました。

 

(尚、タイトル画像のトランペッターの人形は木彫で以前作ったもの。いろいろ試して作りました。結構難しい。またそのうちトライしますが、友人に「作った木彫は誰かにプレゼントしないほうがいいぜ、断捨離の時困るからな」と言われました。確かにその通りだ、欲しがる人もいないから余計な心配に終わるのだが…。)


トランペットのブラスソープについて

2023年07月03日 | ドレミノート

 ブラスソープ(BRASS SOUP)とは、金管楽器の管内の汚れを落とす液体。管内についたゴミを取り除き清潔に保つためのもの。

 

 ブラスソープの使い方としては希釈して水溶液(ソープ1:水10)を作り、フレキシブルクリーナーのブラシの部分にこれをつけて抜き差し管の中の汚れをこすり落とします。つまり管内に水溶液を流し通すのではなくブラシを利用して掃除するものなのです。ついつい大きめの洗面器いっぱいに水溶液を作りこの中に楽器全体を浸けておきたい気持ちになるのですがそういうものではありません。(テューバやホルンの場合を想像すると洗面器ではなく風呂くらいのサイズがないとダメですが)そんな水溶液を作ろうとしたらブラスソープがいくらあっても足りません。

 

 事実、自分の場合汚れをしっかり落としたいという誘惑にかられトランペットのベルから直接ブラスソープを流しこみシェイクしたことがありました。この後ソープを流し落とすため水道の水を無駄に使うことにもなり反省しました。(ただし、どうやら抜き差し管だけなら水抜きキーをラップで包んでから水溶液につけておくという方法があるようです。)

 

 どれほど汚れるのか、どんな頻度でブラスソープを使うかという点ですが、ラッパ吹き仲間で甘栗を食べながらトランペットを吹いたダメなヤツがいまして、プッと吹いたらそのままマウスパイプに栗がつまり掃除に苦労した例がありました。こんな場合フレキシブルクリーナーは必須です。即座に掃除をする必要があります。が、甘栗を食べながら吹かない限り普通に毎日吹いているような場合なら、1ヶ月に一度くらいの割合でいいと思います。それから一度に使用するブラスソープの量ですが、フレキシブルクリーナーのブラシを浸すだけなので、タイトル画像にあるような小さなプラスティック製のコップに半分くらいの水溶液が作れれば十分です。

 

ブラスソープに関するサイトのリンクを貼っておきます。

 

島村楽器のWEB「管楽器プラザ」には次のような説明があります。

https://kanplaza.com/article/438

(引用)

1.ブラスソープ1に対して温水10~15の割合で溶液を作ります。

2.管体は別売りの各楽器用のフレキシブルクリーナーに溶液を含ませて管内の洗浄を行います。

3.管内の汚れが落ちたら、清潔な水で汚れとブラスソープを洗い流す。

4.最後はガーゼやクロスで水分をしっかり拭き取り各楽器に合ったオイルやグリスを差して下さい。

 

Yamaha_Japan ブラスソープの使い方

https://youtu.be/u78eTHp8qEA