阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

12月14日 広島県立図書館「文政二年高宮郡 国郡志御用につき下調べ書出帳」など

2019-12-14 20:30:48 | 図書館
今日もあまり時間が取れず、2時間弱の滞在だった。まずは郷土関係の書架で新修広島市史の資料編、知新集が入ってる6巻は分量があって今日はじっくり読む時間が無く、また重くて借りて帰るのも難儀なことだ。それより少し薄い7巻をパラパラめくっていたら、阿武山と広島城の回で紹介した郷土史に詳しいブログに出てきた、江波と仁保島の海苔篊(ひび)の境界を定めた史料が目に留まって、こちらを借りることにした。海上から阿武山を見通して境界を定めた部分は、

「此度相改六番之八重篊西袖之鼻ゟ潟上之江眞直ニ見通し、向沼田郡八木村之内蝱山峠を著ニ相刺、夫ゟ西手ハ明潟ニ取斗置、双方役人共立會之上少しも刺越申間敷候事」(郡方諸御用跡控、天保三年)

とある。なぜかこれがスッと目に入ったことで他にどんな史料が入っているかまだよく見ていないけれども、家でじっくり読んでみたい。そのあとカウンター2に行って書庫から3冊出していただいた。インフルエンザの時期でもあり、司書さんがマスクをされていた。3冊の内訳は、

「国郡志御用二付下調帳  吉田村之部」
「文政二年高宮郡 国郡志御用につき下調べ書出帳」
「文政三年高宮郡 国郡志御用郡辻書上帳 」

似たような本だが目的が違っていて、吉田村は高田郡誌にあった大師講の俗説について、高宮郡は今の三篠川についての記述を見るためであった。吉田村については、この下調帳を高田郡誌が引用したのかと思ったら、下調帳は高田郡誌よりもずっと平易な文章である。小豆の団子汁の具について、高田郡誌では蘿匐蕪菁とあるのをそれより古い下調帳は蕪大根と書いている。これはひょっとすると原文ではないのかもしれない。今日は他の本をあたる時間がなくて解明はまた次回になってしまった。

高宮郡の二冊を読んだところ、地図も本文も今の三篠川は三田川とあって、深川の三村の項でも後年の深川川みたいな表記は無かった。これをどう考えたらいいのか。また、文政二年の本には、中深川村の条に阿武山関連で香川勝雄の短刀と杯の記述があった。

「一、香川勝雄ノ短刀 但長九寸五分 銘正家 一腰
  虻山大蛇退治ノ節頭ヲ刺シ候由申伝候

 一、右同人所持 盃一木皿二枚
  右同断退治ノ後祝ニ用ヒ候由申伝候」

これは前には所有の田畑屋敷などが書かれていて続きが私にはよくわからないのだけど、蛇落地の記述がある「黄鳥の笛」には、祝宴で勝雄が主君より賜った盃は亀崎神社の久都内氏蔵とあった。するとこれは亀崎八幡社の所有物だろうか。

関係箇所をコピーした後、帰る前に加計町史の水運のところを読んだ。貞国が加計に行くのに舟で行ったという可能性はあったのか気になった。すると、下りは一日で、急流を抜けた可部からは帆を張って進んだとあるが、上りは一泊必要で、しかも上流の急流は応援が必要だったとある。それにどうやら人じゃなくて荷を運ぶのでやっとこさのような書き方だ。貞国は徒歩で行ったと考えるのが自然だろうか。そして、太田川の名前について書いた項に、ちょっとヒントになる一文があった。正確にメモしなかったが、目の前の川を太田川と呼ぶ人はいなくて、太田川と言うのは役人と議員ぐらいのものだと書いてあった。なるほど、狭い地域に暮らして一本の川しか関りがなければ、川の名は必要ないのかもしれない。すると、三田川も同じような事だろう。それまで川の名前など気にしたこともなかったのに、書物に三田川と書いてあるのを見て、深川村の人が残念に思って深川川なる呼び方を提唱したということも考えられる。明治30年代、役所が三篠川という呼称をデルタ付近から支流に移した時も、気に留める人は少なかったのかもしれない。そうだとすると、河川名変更の痕跡を探すのは増々困難ということになるのだけど、どこかに残っていそうなものだ。気長に探してみたい。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。