阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

1月12日 広島県立図書館「沼田町史」など

2019-01-13 10:16:10 | 図書館

 夜に飲み会があって土曜日5時の閉館時間までいられるから、いつもより少し余裕がある。グーグルの書籍検索で出てきたものを時間の許す限りつぶしていく作戦だ。

まずは、郷土史の書架にある本から攻めることにして、「広島県史 近世2」、グーグル書籍検索では別鴉郷連中の記述が見えて期待したのだけど、この出典は大野町誌であった。聖光寺の辞世歌碑を建てた京都の門人360人も出典は尚古となっていて、中々原資料にたどりつけない。しかし新たな発見もあって、ネットで出てくる保井田薬師の貞国の歌は、「五日市町誌」に記述があることがわかった。

その五日市町誌上巻をみると、「芸陽佐伯郡保井田邑薬師堂略縁起並八景狂歌」(文政十二年)の全文の記載があり、八景狂歌は地域の門人による八首のあとに師匠の貞風と貞国の歌があった。驚いたことに、五日市町誌の解説に貞風は柳門四世と書いてある。周防国玖珂の貞六が柳門四世を称したことは前に書いたが、広島にも四世を名乗る門人がいたことになる。この五日市町誌上巻の狂歌の記述は8ページ余りに及び、「柳門正統第三世栗本軒貞国」と署名した「ゆるしぶみ」の写真や、大野町誌に写真があった狂歌誓約の翻刻など、じっくり見たい箇所が多く比較的薄い本で荷にならないこともあり借りて帰ることにした。

次は「沼田町史」、伴村出身の医師、岡本泰祐は大和国十市郡今井村(現橿原市)で開業していて、日記に大野村の大島氏などからの書状が届いた記述があり、門人の冠字披露時の貞国の歌(天保三年)の記載がある。また、

「天保四年八月九日の条には、「天満屋伝兵衛来る、鰯を恵む、芸州大野村大島屋書状を持来る、卯月八日認め、(中略)栗本軒貞国翁二月廿三日病死之事報来る」とある。」

京都の門人が建てたという聖光寺の辞世歌碑にもこの日付があり、また八十七歳没説の元と思われる「尚古」参年四号の記述は戒名もあることから過去帳などからの引用が考えられ、そしてこの岡本泰祐日記の記述を見ても、貞国が天保四年(1833)二月二十三日に没したのは間違いないことと思われる。このときの年齢は辞世歌碑の八十と尚古の八十七と二説が存在している。いずれにせよ、「狂歌秋の花」に登場する芸州広島の竹尊舎貞国なる人物は、貞佐の門人、しかも狂歌秋の花で貞柳の十三回忌(1746年)に追悼歌を残しているのは一部の門人だけで、そのような重要人物ではあるけれども、時代が合わないため栗本軒貞国とは別人ということになる。同じ貞佐の門人でこのように同じ号というのは、二人の貞国の間に何か縁があったのかどうか、今のところ手掛かりはない。

ここで郷土史の書架を離れ、書庫から内海文化研究紀要(広島大学文学部内海文化研究室 編)の11号から14号を出してもらった。グーグルの書籍検索では11から14までとなぜか絞れてなくて、4冊出してもらったが、狂歌の論文は11号にあった。永井氏蔵の屏風に張り付けられた貞国の歌二首の写真があり、うち短冊の一首は「狂歌家の風」にもある「寄張抜恋」と題する歌で、上に題、左下に貞国、そして一句を三行に分けて五段に書いた書式が聖光寺の辞世歌碑と全く同じで、あの見上げるような縦長の石碑は短冊をそのまま写したもののようだ。

この写真をコピーしたところで4時半を過ぎ、上記五日市町誌上巻に加えて、上方狂歌の四巻と江戸狂歌の十一巻を借りて帰った。

いつもはここでおしまいだけど、ちょっと続きがある。まだ飲み会まで時間があるので、シャレオでやってる古本市をのぞいてみようと路面電車で紙屋町に移動した。そしたらまだ明るくて、古本市の前にパセーラ6階、北の阿武山方向が見えるというテラスみたいなとこに行ってみた。今調べたらスカイパティオという名前がついた場所のようだ。そして、確かに広島城、の向こう、基町白島の高層住宅群の上に、権現山(左)と阿武山が見える。

 

前に書いた広島城と阿武山の話で、真北ではなくやや西にずれた阿武山山頂と広島城を結んで、城下の朱雀大路としたという論文を読んだ。しかしここから眺めた限りでは、お堀のラインを延長していくと、阿武山山頂ではなく二つめか三つ目のごぶに当たるように思える。まっすぐライン上に立ってないから不正確でもあるし、当時の道はまた違ったのかもしれないけれど。

古本市をやってるシャレオ中央広場は紙屋町交差点の真下ということもあり、時折頭上をガタガタと路面電車が通過する音が気になった。私は疑り深い性格で、広島の三セクといえば軒並みアレだから天井が抜けて電車が落ちて来ることはないという確信が持てないのだ。それはともかく、ここでも郷土史関連の本を中心に探していくと、厳島図会や厳島道芝記を活字化した本を見つけた。これは合わせても三千円で欲しかったけれど、先ほど借りた三冊がずしりと重く、さらにこれを持って飲み会にいくのも難儀なのでやめておいた。厳島図会の舌先で引用した部分を見たら一か所漢字の間違いがあって、帰ってすぐに訂正した。やはり活字化した本はありがたいものだ。

「広島胡子神社由緒」という本があり、気になる原爆のあたりを読んだら、えびす講の回で書いた御神体の像はやはり原爆で失われていた。そして、胡子神社の方も、この像は大江広元という認識だったようだ。

もうひとつ、「廣島軍津浦輪物語」の中の己斐の地名に「才ケ谷」とあり、狂歌家の風の詞書に「城西甲斐村さいか谷」とあるのは、己斐村才ケ谷が有力になってきた。漢字がわかったことで、地図から見つけることができた。もっと山奥かと思ったら太田川に近い場所だった。己斐橋から少し上流、キリシタン殉教碑があるあたりの谷筋、女子高の周辺だろうか。虫メガネもってウロウロしてたら通報されるかもしれない。これはもう少し調べてから書いてみたい。

今回はたくさん収穫があったけれど、まだ全部消化できていない。腰を落ち着けてひとつずつ調べてみたい。

 

 



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