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第1回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・議論のまとめ

2017-10-27 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
第1回目の佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会が終わりました。
スカイプでの言論カフェはすでに実践済ですが、複数人による通信がどこまで可能なのか、今回はその可能性が問われました。
結果的には、スカイプでの議論の参加は6か所(福島市2・郡山市・いわき市・和光市・金沢市)でつながり、合計10名による空間を超えた言論カフェが実現しました。
その中には議論には参加せずに、対話を聞くだけの参加という方もいらっしゃいましたが、平日の夜にこれだけの方の参加が実現できたというのは、実験としては大成功なのではないでしょうか。

さて、肝心の中身ですが、渡部が準備したレジュメに沿って、各自の疑問やコメントをいただきながら1時間30分の読書会が進められました。
前もって言えば、議論の時間をもう少し取りたかったところ、レジュメが細かすぎた感があり、内容理解に時間がとられすぎたかなという反省がありますが、参加者の皆様はどのようにお感じになられたでしょうか?

まず、アーレント独特の「公的なるもの」「社会的なるもの」、「私的なるもの」というキーワードについて質問が挙げられました。
ふつう、「公的なもの」は「社会的なもの」とされるのだと思うけれど、そこに何の違いがあるのか。
まずアーレントにおいて「私的なもの」とは、生命や生活の維持・保護に関わるものを指し、それは家庭や家事といった領域でなされるものだった、と古代ギリシアにさかのぼって論じます。
これは、生命の必要(必然性)にかかわるもので、生物としての人間にとっては生きる以上、決して解放されることのないものです。
そして、そうであるがゆえに、自由とは相いれない営みになります。
したがいまして、「公的なもの」というのは、その生命の必要性から解放された、古代ギリシアにあったとされるアゴラ的空間で営まわれる自由な対話活動などを指します。
これが、すなわちアーレントの言う「政治」にあたります。
古代ギリシアでは、生命維持や生活の保持に関わる家事・育児全般は女性や奴隷にまかせておいて、それから解放された「政治」営みが「公的なるもの」です。
ここを指して、何だアーレントの自由なんて父権的で貴族的な自由じゃないか、という批判は常に付きまとうのですが、そこに拘泥すると彼女の言いたかったことが見えにくくなるので、とりあえずおいておきます。

しかし、アーレントはこの公私の区別が、近代の国民国家の登場によって破壊されたといいます
「私的なもの」、つまり生命の必要性に関わるものが政治の主題になってしまったことで自由の公的な領域が壊されてしまったというわけです。
そして、この境界を壊したものが「社会的なるもの」です。
僕らの社会生活を考えてみれば、年金から国民健康保険、保育園設置など、生命維持やと生活保障に関わることを担うのは政治の役割だというのが常識ですよね。
ところが、これがアーレントにとっては「政治」の自由を破壊するものだという。
なぜか?

これを考える上では、なぜ国家が国民の健康管理から生命維持に関与するのかを考えてみるといいと思います。
すなわち、国民国家の安全保障のためには健康な兵士が必要となります。
また、国家の財政基盤維持のためには産業の成長が必要であり、それに従事する健康な国民も必要になります。
さらには、これらの国家の(健康)方針に主体的に協力するような従順な国民が必要であり、愛国心をもつような国民教育を行う必要もあるでしょう。
学校教育における健康維持教育はこれらの延長線上にあるわけです。
これはフランスの思想家フーコーの議論ですけれど、こうした国民国家を維持するためには、国民は健康でなければならないという国家の意志がはたらくわけです。
この健康思想は優生思想にまでいきつき、働けない人間は無用な存在だと、ナチスが障害者安楽死政策を行ったことは歴史的事実として記憶しておく必要がありますし、それを受けて引き起こされたのが相模原事件だということも忘れるわけにはいかないでしょう。
日本でもハンセン病患者の強制堕胎や断種政策が人権侵害だと裁判で認められたのは、つい最近のことですよね。
アーレント自身はそこまで議論したわけではありませんが、国民全体の生命・健康管理を国家が担うという思想は、いきつくところまでいくと、国民のなかでの優劣を選別し、殺されても当たり前だという国家主権という暴力を保護するはずの国民にふるうことを正当化してしまうことの問題性は考慮しておく必要があるでしょう。
ちなみに、こうした国家の国民健康管理と同時に、国民全体のために廃棄できる権力を、現代思想では「生権力」と呼んでいます。
まぁ、国民の生活保障とう政治の目的には、同時にいつでも国家全体のために個々の生命が犠牲(廃棄)に供される思想が孕んでいることには気づいておく必要があるでしょうね。

話を戻しますと、「社会的なるもの」というのは、本来、私的領域でなされていた生命維持や生活保障の問題を社会全体で解決させようとするものだととらえてよいのだと思います。
佐藤和夫さんは、そこに「市場の原理」を例に挙げたりもしています。
今日の市場原理は国家とは異なりますが、なるほど生活に必要なものの交換がなされていた「市場(いちば)」が、今日ではグローバル化したことで、その「生命の必然性」を全世界的な経済活動の目的にしてしまっていますからね。
畢竟、政治の目的はこの経済のグローバリゼーションにどう乗っかるかを決める営みだと思われています。
こうなると、アーレントがいう「政治」はないも同然です。

それにしても、やはり生命の維持や生活の保障を、なぜ政治の問題にしてはいけないのか、容易に腑には落ちないでしょう。
このことを考えることがこの読書会の最大の目的になりますね。

このことに関して、アーレントのいう「社会」とは、社会主義国家の「社会」ともいえるんじゃないか、という意見が出されました。
なるほど、社会主義国家においてはまさに国民の生命生活の保障を至上命題にしていたはずですからね。
そうとも言えるかもしれません。

議論はアーレントの科学批判という点にも疑問が差し向けられます。
「仮説実験教室」という教育実践に30年取り組まれてきた方からは、社会科学的に物事の真理に迫ろうとすれば、仮説を立て、それについて議論し、問題の原因を突き止め真理に至るというプロセスが、どうして反「政治」的なのかという疑問が出されました。
さらに、金融企業に勤める方からも、職業上、そのようなことは理解できるという意見が出されます。
経済学が社会科学の模範例だとされるのは、なるほどその補足性や規則性が一定程度確保されるからでしょう。
けれど、たぶんアーレントは「政治」において法則性や真理を排除しようとします。
もし、それを前提とすれば、まさに話し合う必要がないわけです。
いやいや、真理探究のためには科学だろうが社会科学だろうが、仮説を検証するための対話のプロセスは必要なはずだ。
そもそも、自然科学の真理と社会科学の真理は別だろう。
こうした反論も出されました。
たしかに両者の真理は別物だといえます。
けれど、問題は「真理」を前提に話し合うことは、最終的に個々人の「意見」は邪魔になるはずでしょう。
西洋の哲学史において個々人の偏見ともいうべき「意見」は「真理」の対極にあるとされてきました。
しかし、アーレントは、この「真理」を政治にもちこむことが、プラトンの哲人政治などと結実してしまい、個々人の判断は蔑ろにされてしまう政治に転じてしまったとみるわけです。
ただ、この議論は延々と尽きないので、ここは、ぜひ佐藤和夫さんをお招きしたときに議論したい点ですね。

また、これに関しては多数決は本来の民主主義ではないという意見も出されました。
アーレントは民主政を危険視しています。
それは独裁の暴政が単なる多数者の暴政に転じるからです。
ナチスの政治をユダヤ人として身をもって経験した恐怖がそこにあるのでしょう。
でも、民主主義って、話し合いを基本として決めるもので、多数決なんてただの技術的な問題じゃないか。
その通りだと思います。
しかし、問題は話し合いで解決できる範囲とはどのようなレベルでしょう?
国民全体で話し合うことは不可能です。それゆえ多数決方式の選挙制度が導入されるわけですが、アーレントはおそらく現実的に話し合いができる範囲において「政治」は可能になると考えていたのではないか。
それをタウンミーティングというアメリカ独特の政治文化に見出し、それが下から連合していく細かい連邦制を構想していたと思うのです。
なので、本来の民主主義は話し合いによってなされるというのは、その通りだと思いますが、その本質だけを述べただけでは、話し合いの意義が見失われるように思うのです。
問題は、その話し合いが不可能なレベルで政治を実行しようとするときに、多数派の暴政が現実化するという問題を考えよう、ということなのだと思うのです。
ちなみに、アーレントにおいてはそれは共和政であり、多数性の暴走に法的な歯止めをかける仕組みを考えていたという点では、今日の立憲主義のような政治体制が望ましいと考えていたようですね。

さて、今回の議論でやはり、もっとも議論の焦点になったのは、アーレントの「政治」ってそもそも何?なぜそれが「自由」なの?実際にどんな例を考えればいいの?という点でした。
これに関しては、二週間前に和光市でおこなれた読書会の際に、佐藤さん自身が「政事=祭りごと」と語り、「祭り」の祝祭性を例示したことが挙げられました。
これには、一同ピンと来るようでピンと来ないという感触があったようです。
それは、「非日常的」であるがゆえに「日常」では経験できない。
しかも、そのとき、佐藤さんは「この自由は経験できたものしかわからない」と発言されました。
これはアーレントも同じ事述べています。
フランスの対ナチレジスタンスが、その活動の最中にはお互いに「自由」を経験したにもかかわらず、終戦後、それを言語化できずにその政治の自由という「宝」を後世に伝えられなかったということを問題にしています。
その点で、「政治」の自由は言語化も難しいものということができますが、しかし、ではそもそも経験したものにしかわからない「政治」や「自由」なんて、どんな意味があるのか、という点が議論の俎上に上がりました。
これもまた、著者を招いた時に議論したい点ですね。

もちろん、これ以外にも議論になったことはありますが、私には手に余る(というか記憶に残っていない)ものなので、参加された方からご自分の問題意識や発言をコメントに随時アップしていただければ助かります。

アーレントが経験したヴァイマール期の政治的危機の時代が、今日の日本の政治・経済的危機に重なるという点では、参加者一同ものすごく納得がいったようです。
そのような「政治」の危機において、果たしてアーレントを読む意味は何か。
参加者のお一人は、アーレントの「政治」や「自由」って、実はよくわからないんだけれど、社会や政治が危機になると常に召還される思想という点では、ものすごく人々を惹きつける何かがあるのは間違いないといいます。
さらに議論を深めていきましょう!(文:渡部純)