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『〈政治〉の危機とアーレント』読書会・Facebook編①

2017-10-29 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
第一回『〈政治〉の危機とアーレント』読書会では、Facebook上でも議論が交わされました。
以下、その記録もアップしておきます。


【マッケ】
マッケです。アーレントの本、43ページ最後の方
「科学的とされた経済学、心理学、統計学といった学問の在り方が、彼女にとって全体として批判の対象となる。」とあります。
「人間の条件」の最後の方に科学のことがまとめて書いてあったようです。
この本は、まだ手元にはありませんので、おたずねします。
科学と言えば、基礎になるのが自然科学、とくに物理学です。
これに対しては批判はあったのでしょうか。
相対性理論も、量子論まで、研究の対象になったかどうか分かりませんが・・・・。
経済学、心理学、統計学などは、権力側に都合のいい理論ができやすい分野だと思います。

【じゅん】
アーレントには科学批判があります。
1958年に書かれた『人間の条件』の冒頭は、スプートニクショックと試験管ベイビーのエピソードがから始まりますが、科学の進歩、というよりも科学者の欲望はまさに人間の条件そのものを根本から変更させかねない時代に入ったということを批判的に検討することが、この本の主題の一つです。
科学や仮設実験授業に取り組まれてこられたマッケさんや良心的な理系の方には、にわかに受け入れがたい論理ですが、僕なりにごくごく単純にその要素を説明すると、二点あげられます。

一つは、言語の問題にかかわります。
人間が語り合うことは、まさにそれぞれの経験がユニーク(個別的)であり、その言語化もまたそれぞれ異なるがゆえに、対話が必要となります。
しかし、科学では2+2=4という意味を問うという意味での対話を不必要にさせる科学言語に批判が当てられます。
科学は因果論的に原因―結果を考える思考方法は可能ですが、そもそも「それに何の意味があるのか」ということは示せません。
いかにして死に至るかは客観的に判定できますが、死の意味は答えられないということです。

この点で、科学的思考が人と人とが語らうという意味での「政治」の危機と結びついたというのが、アーレントの科学批判の根本にあります。
だから、科学者に政治的判断をゆだねることは危険だといいます。
なぜなら、彼らはそもそも「意味」について語り合う「言語」をもっていないというのが、アーレントの科学者に対する見方だからです。
「言語」は哲学にとって重要なテーマですから、これを単純に説明すると誤解が生じますが、あえていえば、理系の研究者と話していると、彼らがデータと法則の正誤の確認からはみ出す討議は不必要であるどころか、方法論的に不正だという点に理系研究の根幹があることが示されます。
これは水俣問題に取り組んだ科学者の言説にも示されているのですが、それはまたの機会に。

もう一つは、アーレントは原子爆弾の登場ととも に、近代科学とは異なる次元に入った現代科学が、よりいっそう「政治」の危機をもたらしてしまったことを批判する点です。
アーレントにとって「政治」は、人と人とが語り合う根本的な人間的営みを意味し、これは「人として生きる」ということとほぼ同義です。
つまり、アーレントにとっては人と人とが語り合えない状況は、人間として生きるに値しない世界なのだ、というわけです。
近代科学が「活動」という人間にとって最も重要な条件を根本から切り崩すことを彼女は分析しますが、現代科学はもはやそのレベルに止まらない危険性を有しているというのです。
核は「政治」の営みどころか、人類の自殺や滅亡を可能にさせますからね。

加えていえば、現代科学は人間の活動(行為)しか持ちえなかった「予測不可能性」と「不可逆性」を「自然」にもちこむことによって、それまではある程度人間に制御可能だった科学技術を、その枠から超出させてしてしまったことに、「人間の条件」の危機を最大化させたといいます。
アーレント流にいえば、宇宙にしか存在しなかった核エネルギーを地上に持ち込んでしまったことで、それがどのような結果をもたらすか予測不可能になり、いったんそれによってもたらされたものは不可逆なものをもたらしてしまうということです。
これも原発事故を考えれば容易に理解できます。
放射線被ばくの健康被害の評価は科学者の間でも一定しないという意味では「予測不可能」だし、廃炉や放射性廃棄物の処分に関してはいまだ結論が見えません。
それどころか、この問題が人類が存在しているのかどうかわからない数万年単位で議論されざるを得ないという点では、もはや「不可逆的」な状況がもたらされたというのは否めないでしょう。という意味では、もはや人間の能力では、御しえないものを地上に持ち込んでしまったという問題です。

ただし、アーレントはこの「活動」の「予測不可能性」と「不可逆性」は、逆悦的ですが人間が自然法則に縛られない自由であることの証でもあるといいます。
しかし、科学を模倣する社会科学は、逆にその人間の自由を意味する「活動」を無視し、人間があたかも一定の法則(傾向性)で動くことにしか興味を示さない点に彼女は批判の矛先を向けます。
ベルリンの壁崩壊などがその例であるように、歴史は突然予測不可能なものとして動きます 。
しかし、社会科学はそこに関心を示しません。
社会科学は「なぜそれが起こったのか」ということを後付けで因果論的(科学的)に説明することに関心を向けるだけで、それを引き起こす予測不可能な人間の自由に関心を示さないわけです。
もちろん、戦争や貧困の原因を探る社会科学の方法の有効性は否定できません、しかし、アーレントが問いたいことは、その方法が同時に過度に精密化した結果(経済学の数学化!)、人間の自由そのものをなきものにしたという点にあるのでしょう。

【マッケ】
マッケです。
ていねいな回答ありがとうございます。文章の初めから、ひっかかりを感じます。
<2+2=4という意味を問うという意味での対話を不必要にさせる科学言語に批判が当てられます。>
2+2=4
これは数学的表現であり、科学的表現ではありません。
というのは、きわめて抽象化した表現だからです。
よく、文系の人は、無条件、絶対的に、この式が成り立つと考えがちです。
誰もが疑いようのない事実として、この例を出します。
これは純粋数学上、つまり現実のすべてを捨象して<理想化>して考えた場合に当てはまるだけです。
ひとつひとつ具体的に考えるのが科学です。
①お金の場合→2円+2円=4円(貨幣価値)
②お金の重さの場合は1円玉は1gですが、
 現実には、すり減っていたり汚れがついたりで、4gより重かったり、軽かったりします。
③鉛筆1本といっても、長い物と、短い物があり、2本といっても新品の1.5本に当たる場合があります。
④水50ccとアルコール50ccを混ぜるとおよそ98ccにしかなりません。
 大豆1升と米1升は2升より少なくなります。大豆のすき間に米が入ることで、水とアルコールの場合を推測できます。
仮説実験授業では、これらのことについて選択肢を選んで予想を立て、大いに議論します。
科学的認識は社会的なもので、ひとりよがりでは認められず世界中の科学者が対話し、社会的認識になったところで真理と言えるのです。
<意味論>については、科学者はそれぞれが、人生観、世界観をもっており、それぞれの科学哲学だったり、さまざまな哲学、宗教をもっていたりするので、
そのことについて、どう意味づけるかも、それぞれのような気がするのですが・・・・
先ずはこのことについて、私が的外れなことを述べているのか、お伺いします。

【じゅん】
たぶん、お互いに前提としていることが相当違うので、少しずつどこに齟齬があるのか、理解を近づけていくほかありませんが、さしあたりマッケさんが「数学的表現」と「科学的表現」は違うということを確認で行きました。以下、それに対応する文を引用することでどこにずれがあるの示していきます。

アーレント『人間の条件』プロローグ・13頁
「科学によって作り出された状況は政治的な意味を持っている。言論の問題が関わっている場合にはいつでも、問題は本性上、政治的となるからである。というのも言論こそ人間を政治的存在にする当のものだから。
私たちの文化的態度を現段階の科学的成果に適応させなくてはならないという忠告がいつも繰り返される。しかし、この忠告に従うなら、私たちは言論がもはや意味をもたないような生活様式をきわめて熱心に取り入れることになるだろう。なぜなら、今日、科学は数学的シンボルの「言語」を取り入れざるを得なくなっているが、この「言語」はもともとは語られる言葉の省略記号として意味を持っていたものの、いまでは言論に決して翻訳しなおすとのできない記述を内容としているからである。だから、科学者が科学者として述べる政治的判断は信用しない方が賢明であろう。
……
科学者の政治的判断を信じない方が賢明なのは、科学は、言論がもはや力を失った世界の中を動いているというほかならぬこの事実によるのである。人々が行い、知り、経験するものはなんであれ、それらについて語られる限りにおいて有意味である。
……
この世界に住み、活動する多数者としての人間が経験を有意味なものにすることができるのは、ただ彼らが相互に語り合い、相互に意味づけているからに他ならない。」


科学的認識が多数の科学者同士の議論によって真理証明を志向することは事実ですが、その論証過程で高度に記号化による法則が持ちられることは事実でしょう。(試しにウィキペディアの「万有引力の法則」をのぞいてみましたが、そこでもやはり記号によって記述されています)

この科学言語の意味については、岡本達明とともに『水俣病の科学』を書いた西村肇が「科学者から見た水俣病研究」(雑誌「環」25号)で端的にこう書いています。
西村はまず、メチル水銀生成反応機構について詳細に説明した後に、これが自然科学の教育を受けていなければ、理解が難しい事実を指摘したうえで、文系と理系のあいだに「全く理解不能」に近い溝があるといい ます。それを二つの精神の「敵意」や「対立」とさえ言います。
なぜか。
西村は、まず科学は真理の認識において人間精神を支配してきたスコラ学批判として生まれた歴史を指摘します。
スコラ学はキリスト教神学の骨子ですが、それは基本的に「人は正確な言語と厳密な論理によって思考すれば、思考のみによって真理の認識に到達できる」という信念があると西村は指摘し、これに対して「言葉と論理への100%の信頼を否定する」のが科学であるといいます。

それについて西村は、「確立された知識を基礎に厳密な論理的思考を積み重ねて結論に達する点では、科学もスコラ学も違いはありませんが、基礎にする知識の性格が違います。スコラ学では、知識とは言語 知識ですが、科学ではその他に実体知識が加わり、こちらの方が重要です。実体知識とはまだ言語に表現される前の生の知識です。実験の際の生まの観察結果、生まのデータ、写真などです。これを人に伝えるために言葉で表現したのが言語知識ですが、実体知識にくらべ極めて貧しいものです」と述べます。
さらに、「スコラ学にくらべて科学の特徴は議論が定量的であ」ることも指摘します。

そのうえで、自然科学系と文科系の人間の違いの最も大きな違いは「科学者とは意見の違いでの論争を好まない人種だ」ということだといいます。
これは、立場を全く反対にしながら、アーレントの考え方と軸を一にしています。
アーレントにとって「政治」の領域は唯一の真理 が支配するのではなく、多様な「意見」が織りなす世界なのですが、西村はまさに科学者はそうした「意見」の論争を好まない人種だというわけです。
この「意見」の理解はとても重要です。
事実の真偽を論争することは科学者でもありえますが、「意見」はおそらく「人それぞれ」だから無意味だということでしょう。

実は、西村がこのような論考を書いた背景には、水俣病問題で科学的事実に政治的解釈が介入したことで、科学者としては不当な「科学の政治化」が生じたことがあります。
これは福島においても生じたのではなかったでしょうか。
科学的事実であれば、「意見」を排した「実体知識」をすり合わせていけば、真理に到達するのに、余計な「意味 」を介入させることに科学者が我慢できない姿がそこには示されています。

だから、西村は「科学でももちろん意見の違いはありますが、それを言葉による論争で解決しようとはしません。言葉は補助ですから言葉ではなくて良いのです」と言っています。
アーレントにとって「言語」や「言葉」は個々人のかけがえのなさや多様性に基づいています。
個々人の経験が多様であるからこそ、他者に理解されがたいからこそ、言葉は必要とされるのであり、対話が必要とされるにもかかわらず、科学者たちの世界にはそれが余計モノとされていることを、この西村の論考は如実に示していると思います。
それゆえに、核分裂の科学論争はあり得ますが、核分裂の武器使 用に関する政治的判断に関わる議論は科学者たちには無理だということを、アーレントは見抜いていました。
「政治」とは、「意見」の多様性が織りなす世界での活動ですから。

これが板倉さんの科学のとらえ方と異なるものなのかもしれませんが、しかし西村のそれは一般的であるように思われます。
もう少し言えば、板倉さんは科学の市民化を目指すのに対して、科学一般の論理はやはり科学者の官僚化に大きな力を発揮していく点を、アーレントは冷徹に見抜いていたように思われます。

【マッケ】
マッケです。先にいただいた文への感想です。

<いかにして死に至るかは客観的に判定できますが、死の意味は答えられない>
科学にかかわっている者はそれぞれ死の意味について考えていると思います。
「死の意味」とはどういうことでしょうか。
科学者は原子論で考えると、人間は最後は灰や気体になって終わる、と考えてはだめなのか。
よく天国にいる死者にむかって言葉をかけますが、
その人が、死者は天国で生き返るとは思ってはいないと思います。
「靖国で会おう」といういう死生観を植え付けようしたことは特攻隊というとんでもないテロをやりやすくしたものです。

どういうふうに考えれば、死の意味を考えたことになるのか、それが分かりません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<日常的にも対話を不必要とする科学的思考が政治の危機と結びついた>
実験室に閉じこもり、物を相手に格闘していると世間にうとくなる、ということなのでしょうね。
これは科学者というより<専門バカ>と言った方がいいのでは。
これでは重要な発見もなしえません。
プロジェクトチームでいつも対話をして、学会で対話しなければ研究は進みません。
科学的思考が対話を不必要と考えるということは、
逆に芸術系の人は<科学的思考>が不必要ということになりでしょうか。
音楽などは、楽器の科学、音響学の発達があったから芸術としての音楽が発展した。

哲学のない科学的思考はホンモノでないと思います。
哲学の基盤を持たない科学者は二流、三流になる、と思っているので、
科学者一般がダメと決めつけるのはどうかと思いますが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<彼らは、データと法則の正誤が確認できれば十分であり、そこからはみ出す討議は不必要であるどころか、方法論的に不正なのです。>
これは数学についても言えることで、公式の深い意味を理解し、公式を自分で導くことができず、公式を当てはめて問題が解ければよい、
という実用主義(単に道具として考える)の人はそうかもしれません。
微分積分学は立派な哲学です。
ギリシャの哲学者は芸術家でもあり数学者、科学者であった人もあり、
まさに理想形でしたが、個別科学が進化して以来、専門バカが増えました。
だからこそ、学際的研究が叫ばれていて、研究者は少なくとも、もうひとつ副専門をもつべきだと言われています。
総合大学なら、学部を越えた交流が必要になってきます。

受けた教育、自分の勉強の仕方がまずいのですね。
数学にしても、科学にしても、芸術でも<歴史的に学ぶ>ということが哲学を身につけることになります。
科学の発展過程を学ぶと、自分のミクロな研究からマクロに見ることができるようになり<世界観の形成>をすることができます。

<近代科学が「活動」という人間にとって最も重要な条件を根本から切り崩すことを彼女は批判しますが、現代科学はもはやそのレベルに止まらない危険性を有している>
「近代科学が「活動」という人間にとって最も重要な条件を根本から切り崩す」とはどういうことでしょうか。
現代科学の行き過ぎた所、倫理観の重要性は認めますが、近代科学はそうでないと思います。
迷信や悪い意味での宗教、言い伝え、偏見、非科学がもたらした弊害を近代科学はうちやびったことを一方で認めないと、
神風を信じて戦争することになるようなことになるわけです。
戦争の愚かさを見抜けなかったのは科学力がなかったことも大きいわけです。
日本の精神論、根性論は、見事にアメリカの科学技術、合理性に打ち負かされたわけです。

<社会科学の科学性は、逆にその人間の自由を意味する「活動」を破棄し、人間があたかも一定の法則(傾向性)で動くことにしか興味を示さない>
「科学とは何か」を考えることが非常に重要だと思います。その当時の社会科学が科学たりえていなかったのではないか。
板倉氏が「数量的に見る歴史」を提唱したのは画期的で、つい最近のことです。
社会科学といっても、実は学問の段階にとどまっていて、<科学>とは言えないものではないか。
科学とは、対象に対して、目的意識を明確にし、想像力をたくましくして大胆な予想・仮説を立て、それをいろいろな方法で検証する「仮説実験的認識」が非常に重要です。
アーレントの時代の社会科学の未発達がその科学性に疑いを持たせてしまったのではないかと思います。
現在でさえも、社会科学が真の科学になっているのか、それも分からないのでは?

【じゅん】
目下ゼミの準備にてんてこまいです。
加えて、論点が拡散してしまい答えるのが難しくなっています。
とりあえず、<いかにして死に至るかは客観的に判定できますが、死の意味は答えられない>について。

A.医科学的に死の判定基準は定まっていますが、なぜ人は死ななければならないのかという問いに科学は答えられないということです。

医学上の判定基準は死の3徴候のように、数値などを用いて死を客観的に判定できます。
それが科学の役割だと思います。
しかし、死をどのように迎えるかは科学には判定できないと思います。
本人や家族がどのように死を迎えるかは、その人たちの死生観、つまり意味づけではないでしょうか。
誕生に関して言えば、科学は胎児が障害をもって生まれる確率を提示できますが、それが幸か不幸かを決めつけることはできないでしょう。
そのような価値に関わる思考と科学的思考は分けて考えるべきではないかという点で、科学は死の意味に答えられないと、ひとまず言えるのではないでしょうか。

くり返しますが、そうであるからこそ(客観的に一致しないがゆえに)、それぞれの意味を他者と話し合う必要があるのだと思います。
死んだらただのモノになると思う人もいれば、天国に行くと思う人もいます。
死後の世界を科学が客観的に証明できない以上、その死生観はそれぞれでしょう。
カントは、そのことを因果論的にとらえる悟性(数学、経験科学はここでは区別しながらもこのカテゴリーに入ります)と区別して、証明できない問いを考える「理性」としました。不死、神、自由は因果論的に証明できないと考えたわけです。
その意味で科学者が様々な死生観をもつことは当然のことですが、それと科学的に死を判定(認識、評価)することは別です。
「靖国出会おう」という死生観を国家が植えつけることはあってはならないとは思いますが、それは科学認識とは別の位相、つまり意味や価値に関わる問題ですから、科学的に誤っていると判定すべきものではないでしょう。
できることがあるとすれば、なぜ自分と相反する考え方をもつのか、それぞれの考え方に至る背景や理由などを語らいながら、「理解」を深めていくことではないでしょうか。
もし、その思想に問題のあるのだとすれば、なぜそういえるのかは科学的思考とは別に政治的倫理的思考の対象だと思います。
戦後の社会科学は戦争を二度と起こさないために進んできたことは評価していますが、戦争が起きた原因を明確にすることと、なぜ戦争を起こしてはならないのかを意味づけることは別の作業だと思っています。
意味や価値づけをしないままに、科学的手法を用いるのが官僚的であというのは、ご指摘の通りだと思います。
僕は、単純に科学を原因―結果の因果関係を明らかにする学と認識しています。
科学者に哲学は必要かもしれませんが、それはいわゆる科学的方法や思考と区別されるものではないでしょうか。

【マッケ】
科学が記号を使うことに懸念があるようですが、科学より数学がより以上に記号を使います。日本語の漢字は記号ではありませんか。音楽の音符も記号です。その音符もどんな楽器でどのように演奏するかによって全然変わります。
あらゆる分野で記号が使われますが、人間の作り出した、すぐれた文化だと思います。
その記号を内容のないものにするか、豊かなものにするかは、使う人の教養の豊かさによって決まると思っています。記号はとてもシンプルですが、その背景にはとても多くの概念が集約されています。
最もシンプルな<1>という数字を<数>としてみた場合と<量>として見た場合は全然違います。
数は、非連続(分離量)であり、量は<連続量>なのです。連続量には<無限>の概念がつきまといます。
無限は宇宙の世界までつながり、夢とロマンを語ることに結びついて楽しくなります。数は<数えるもの>であり、量は<測るもの>です。
測る作業には誤差がつきものです。また測った量をどう解釈するか。
例えば、0.0001を影響のあるものと見なすか、ほとんど影響のないものと見なすか。
それは時と場合によって異なります。これを科学では<程度の問題>と言って、とても重要な問題です。
自分の体重を量るとき、0.0001Kgはほとんど無いもと見ますし、有害物質の場合は無視できなくなります。放射能を考える時、危険と見るか、ほぼ大丈夫と見るかは、条件の中で考え、絶対的に硬直的に考えるのでなく、相対的に柔軟に考えるのが<程度の問題>です。
また、見る角度、自分の立ち位置を変えてみるという<相対性原理>はとても重要だと思います。見方を変えることで、今まで見えなかった世界が見えてきます。
「発想の転換」「パラダイムシフト」は科学の歴史の中で重要な役割を果たしてきました。

【ねもち】
結局、科学ってなんなのでしょうか?
科学=哲学なのでしょうか?
科学を細分化する意味はあるのでしょうか?人文、社会、自然、この一般類型に意味はあるのでしょうか?
科学の一般的な辞書的定義はただしいのでしょうか?

【マッケ】
じゅんさんはゼミに集中してください。
ねもちさんから質問がありましたので。
<科>とは病院の○○科のごとく、個別という意味です。全体をいっぺんに見られないから個別に分けて見るというわけです。
「分ければ分かる」という発想です。しかし、絶えず<総合>という作業をしていかないと専門バカにおちいります。
かつてすべてを語った哲学者アリスとテレスをガリレオは、落下の法則の説明で打ち負かした。
大きな風船も針一本で破裂させるのと同じ事です。科学の方法の根幹は「大胆な発想で仮説を立て、観察事実、過去のデータ、実験、論証、時間的経過などで、仮説が正しいかかどうか裏付けをとり、真理にせまっていく」ことだと思っています。
科学は個別具体的な問題を対象にし、哲学は全体的抽象的にとらえると言う点で違いますが、個別の問題を考える時、その人の持つ哲学が発想の原点になり、また逆に個別の問題を極めて原理をつかんだ時にそれを自分の哲学を豊かにし、深化できると思っています。
もともと科学は自然科学が先に発展しました。
その方法論を社会、人間に対象を広げていきつつあります。
もともと大きな対象を細分化したのではなく、細分化したところから、総合化しようとしているのだと思います。