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『〈政治〉の危機とアーレント』読書会・Facebook編②

2017-10-30 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
『〈政治〉の危機とアーレント』読書会・Facebook上での議論第二弾です。


【いけだ】
いよいよ明後日ですね。楽しみです。がんばって読んでいるのですが、果して読むことができるのか少々不安になってきました。どうやったら読むことができるのか?
ここは思い切って、まずは素朴な疑問を投げてみようと思いまして。ものすごく初歩的な質問だと思うのですが質問させて下さい。

①P7 後ろから4行目「④以前にはヒューマニストの抽象的…実体になって」について
・「ヒューマニストの抽象的指導原理にすぎなかった『人類』」の定義しについて詳しく知りたいです。
・その「『人類』が現実に存在する実体に」なった、何を表現しているのでしょうか?いきなり出現してきているように感じます。

②P41 3~5行目「『支配・被支配…「政治以前」的なものであるのだ」について
3行目の「政治」と4行目の「政治」は別の意味ですか?整理したいです。

③P41 7行目「政治はだんじて生命、生活のためにあるのではない」とありますが…先を読めば出てくるのかもしれませんが、アーレントのいう政治は何のためにあるのですか?生命や生活について「自由・平等な次元で自由に語り合い、活動し合うこと」もあるのではないかと・・?

④P44 9行目「一定の政治体で…社会的なるものに次第に変わってゆく」について
「社会的なるもの」の定義が知りたいです?

⑤P54 8~9行目「『私的所有』…いわゆる『福祉国家』である」について
ここで言っている『福祉国家』は、現在の北欧などの福祉国家のことではなく、経済から切り離された政治が行われている状態で成り立っている国家を想定しているのですか?
そして、
P54 7行目~11行目 したがって~その意味するところは、私的所有の自由を守るのは政治の権力と経済的権力の分離であり~
私的所有の自由とは?またここでいう政治とはアーレントがいう政治ではなく、現在一般的に言われる政治と解釈するのが素直ですか?
そうなると、私的所有の自由を守る⇒政治と経済が分離している⇒経済に対して一切の政治的関与をやめる⇒ハイエク?となって福祉国家と結びつかないような気がします。

少しずつ読み進めているのですが、「自分らしく暮らせるための安定した基盤」について分からなくなってきました。
自由ってなんだろう?この辺りをじっくり聞きたいです。


【じゅん】
⓵について
これは文字通り「人類皆兄弟」的な理念としての「人類」ではないでしょうか。
ベートーベンの「歓喜の歌」なんかがその典型でしょうし、啓蒙主義時代のカントの「世界市民」なんて言う考え方もそれに当てはまるでしょう。
つまり、理念としての人類をヒューマニストたちは掲げて平和とか自由の実現を夢想してきたわけですが、今日のグローバリズムにおいて、実際に国境を人類がまたいで出会うようになったら、平和どころか欲望むき出しの植民地主義的経済や排外主義とか、具体的な人類の出会いはなんかめちゃくちゃですわ、って感じではないでしょうか。

⓶・⓷について
3・4行目の「政治」は同じで意味でしょう。
「」付はアーレントにおける「政治」という意味で統一されていると思います。
近代政治学での政治概念は生活保障や安全保障のための「統治」を意味しますが、アーレントにとってこれは政治以前の私的領域、つまり家事や家政に属する営みなんですね。
「政治」はこれとは区別されておりまして、生活保障や生命維持のための安全保障に関する営みではないのです。
生活の必要にかかわるものは、人間の生物としての欲求に関わるもので、全ての人間に関わる問題ですが、そうであるがゆえに、アーレントは個性など無くなってしまうと見ます。
政治は、個性を際立たせる空間なので、食欲や睡眠欲など人間の画一的な動物的部分を議論の対象にするところではない、というわけです。
ここはアーレントが批判される最も重要なポイントですが、まぁ、何度も議論になるでしょう。
くり返すと、アーレントの「政治」は人間がお互いの差異を際立たせることができる営みです。
オリンピックの競技空間が典型例で挙げられますが、まぁそれに限らないでしょう。
祭りや演劇なんかで主役を張ったり、議論のなかでもナイスな発言とか、そういうのも入るでしょうね。
「お見事!」とか、「音羽屋!」みたいな、称賛を得るためにお互いが競い合う闘技空間だ、なんていったりします。
もちろん合意を目指す目指す必要もあるのですが、アーレントの場合それは二の次に位置付けれがちです。
合意のためお政治は手段化されちゃうから違うそうです。
あくまで、話し合いやパフォーマンスがそれ自体で目的とされるような営みです。利害が関わってはダメ。
年金の心配とか生命維持に関わるのもダメ。
じゃあ、何?って色々な具体例を考えると楽しくなるかもしれません。

⓸の「社会的なるもの」について
これは、はっきり言って漠然としていてかなりわかりにくい概念です。
が、頑張って説明すると、アーレントの「政治」は人と人とが直接話し合ったり協力し合える営みですから、自ずとそれが実現する範囲というのは一定の限界があるように思われます。
ところが、大衆社会のように、人の数が無数に膨大化すれば、人と人のコミュニケーションは不可能になりますよね。
大衆社会では一人一人が孤独化するといわれますが、そうした人々の言論活動が不可能なほどに人口が増えると、効率化のためにお互いにコミュニケーションをもたずに済む領域が拡大します。
この文脈では、とりあえずそのような人々が孤立した無数の集団状態を社会状態が成立した領域といってよいと思います。
そこにおいては、人々は個性的に行為するどころか、無意識のうちに画一的な行動パターンをとるようになります(これは社会学者D.リースマンの「孤独の群衆」という研究で明らかにされました)。
言い方は悪いですが、そこにおいて人間はマス(群衆)という点で、虫や動物と変わらない行動パターンをとるわけです。
チャップリンは「モダンタイムス」の冒頭で、ヒツジの蓄群がいつのまにか地下鉄入り口から出てくる無言のサラリーマンにかさえ合わせているシーンでもって、そのことを秀逸に表現しています。
社会科学の統計方法は、その蓄群かしたという人間集団の傾向を明らかにする点で意味を成すわけですが、アーレントは社会科学的思考に批判的なわけです。
ま、社会科学の方法が悪いというよりも、社会科学がそうした人間のユニークネスに関係のないところに関心を向けることにアーレントは不満をもったのでしょう。

⓹「福祉国家」について
本文では「」がついているので、現実の福祉国家というよりは、私的所有の自由を守るための政治の権力と経済の権力を分離する構成体という、理論的な意味で使われていると思われます。
現実の北欧の福祉国家は、それこそ政治と経済(成長)の結合によって構成されているので、アーレント的な意味でいう「福祉国家」とはやはりずれるといわざるを得ないでしょう。
その続きの疑問については、なかなか複雑なところがありますにね。
アーレントによれば、私的所有の切り崩しは政治と経済が結合した資本主義の進展とともに進んだわけですから、少なくとも政治は経済と切り分けるとともに、経済権力の暴走に歯止めをかける役割を果たさなければならないことになります。
そこでの政治は、いちおう利害関係から切り離して判断する営みという点では、アーレント的な意味での「政治」に当たるとも言えます。
ただし、私有財産を確保するためになされる政治は、アーレントの「政治」概念とずれるじゃないか、とも言えそうです。
ただ、アーレントの場合はいつでもそうですが、概念同士を截然と区別しながらも、相互に浸透しあうところもないわけじゃないので、その辺はまぁ、適当に…と言ったら怒られるんでしょうけれど。
少なくとも、ハイエクのように経済の論理の自由に任せて政治は関わらないという意味での切り離しではないでしょう。
政治は生命の必然性を目的にしないことに存在意義=自由があるわけですから、むしろそこを保守することによって、結果的に経済の論理を政治に侵入させることに歯止めをかける営みとして、「政治」を再生しようという思惑が、アーレントにはあると思われます。

【いけだ】
今夜の読書会はお疲れ様でした。質問その1です。
自宅で繰り返し議論となるのが、アーレントのいう「政治」には役割りがあるのか?です。
アーレントが言う「政治」と「社会」で考えると、僕らのいう政治は「社会」のことであるので、小さい子がいるけど働きたい、この場合は保育園が必要、そうなると保育園を整備が必要。これは僕らのいう政治の役割だと思います。個人では限界があることをみんなで支えるのは政治の役割だと、これらも政治以前、社会の役割となると、「政治」の役割ってなんだろうと迷子になりました。
P37 8行目アーレントが~それが人間のあり方に深刻な変容をもたらすとアーレントは考えていたのである。人間のあり方へ影響を与えることが「政治」の役割と考えると、僕らのいう政治の役割はどこが担うのか?
あれこれ考えてしまいますね。

【しまぬき】
私も同じことを感じました。でもこの 「政治」はどこか魅力的でもあります。

【じゅん】
アーレントの場合、政治そのものが目的だと言っちゃうから、何かのための役割、つまり手段としての政治っていう議論はしないですね。
けれど、それは僕らの時代にはとっても想像しにくいことですね。
じゃ、古代ギリシアにそんなものあったのかよ、と言いたくなるけれど、アーレントは常にそうですが、けっして抽象的な哲学議論はせずに、必ず歴史の出来事にその概念の手掛かりを求める。
彼女には言葉というものが経験に基礎づいているという信念があると思います。
けれど、それは、いわゆる社会科学的なエヴィデンスを見つけるという仕方ではなくて、なんというか、彼女の理念形みたいなものが歴史の出来事の瞬間に垣間見えたものを、牽強付会といってもいいくらい強引に結びつける。
逆もしかりで、彼女が批判しなくちゃいけないものは、たとえごく一部触れているだけでもコテンパンにつついちゃう。
彼女のルソー論なんか、ひどいなぁと思うくらいです。まぁ、書かれたものだけを批判の手がかりとする人文学的手法ってそういうもんだといわれりゃそうなんだけれどね。

で、話を戻すと、政治の役割をあえていえば、共同の中で個々人を光り輝くものにすること、ではないでしょうか。
保育園設置の行動が非政治的なのではなく、もしその運動なり活動なりに取り組む過程で、たとえば「池ちゃんってこういう人なんだ~、へぇ~、意外~」と、他者が称賛したり感嘆したりする瞬間、それを出現させる営みが「政治」なのかなと思います。
黒澤明の映画「生きる」って、まさにそうだと思います。
凡庸で仕事に意欲も興味も何もない主人公の市役所課長が、末期の胃がんを自覚した瞬間に、それまで無関心だった住民からの要望である公園設置に同僚を巻き込みながら(協同に?)奔走します。
公園設置なんて、お役所としてはなんという仕事でもないといえばそうだけれど、その奔走に彼の「誰」性が突然際立って、住民たちが彼の葬式で泣いたりする。
さらに、お役所仕事をテキトーにやり過ごしていた同僚たちが、彼の生きざまを見て、一瞬だけれど公共に尽くす仕事人としてのプライドを取り戻す。
こうやって、彼の行為actionが、人と人との関係の網の目に「予期せぬ」actionを無限に連鎖させていく。
これを出現させるのがアーレントの政治なのでしょう。
なので、政治の役割は、というより誰かの個性が共同の内に際立つ運動そのものが「政治」なのだ、というこです。
まぁ、要は祭りだ祭りだ、よいよいよいよいってかんじ。

【マッケ】
<要は祭りだ祭りだ、よいよいよいよいってかんじ。>とかいうので共通理解があるようですが、私にとっては何のこと?
参加させてもらったグループでは今までの研究会、対話の中で、共通認識となっていることでも、私にとっては初めてのことで、何のことやら分からない。さらに、アーレントの独自の言葉の使い方、公共と社会の区別なども難しくしている理由です。
この研究会はアーレントの考え方、生き方を知ることが目的化せずに、あくまでもこれが手段であってほしいわけです。
現実の問題とどう関係して、私たちの生きる指針になっているかを議論してほしいです。

【じゅん】
失礼しました。
「祭りごと」は「政(まつりごと)」、すなわち政治の語源だということです。
和光市での読書会の差異に、佐藤和夫さんご自身がそのような例を挙げられたわけですが、これはいけださんにしか通じない話ですので、この会の参加者全員が共有しているものではありません。
長野県諏訪の御柱祭などは縄文時代にルーツがある祭とされますが、数年に一度のあの大祭のために人々が日々の生活を生き、協働で成し遂げることが千年単位で脈々と受け継がれているのはものすごいことですが、本来、祭とはそのような日常生活から解放され、人々が結集してある種の不思議な「力」を生み出すわけですが、それが「政治」であり、その不思議な結集力をアーレントは「権力」と名づけたと思われます。
(ちなみに、この「権力」も通常の暴力を独占した国家権力という意味とは異なるアーレント独特の概念です。)
そのように考えると、「祭り」は、それ自体が目的で、何かのために手段化される営みの事例として理解しやすいのではないでしょうか。
(神事のためとかいろいろタテマエがあるかもしれませんが、それ自体が目的となって人が集う活動であるという点では、むしろ理解しやすい例かと思いますが)。
しかもそれは、労苦以上の快楽をもたらす祝祭性が伴います。
現代ではそのような目的それ自体となる活動は、なかなか存在しませんが、アーレントの挑戦はその再発見を試みているととらえてはどうでしょう。
マッケさんご自身が実践されてきた研究会や対話の会の経験から理解をすることはできないでしょうか。
そうした目的それ自体になる活動が、今の社会のなかにはなかなか見つけにくいし、ほとんどの活動は何かの手段になっている。

この読書会が、アーレントを通じて生き方を現代社会の問題を考えるということを目的としているという点は、おっしゃる通り共有されていると思います
もし、それが伝わらなかったとすれば、それは私の力不足ですので、大いにご批判下さい。
むしろ、そこへの不満は具体的にどんどん出していただいて、この会全体で進めながら修正していければいいと思っています。
この本自体が「アーレントを読んだことがないけれど、読んでみようと気になる大学院生レベル」を対象として書かれたということですから、ある程度の専門用語を抜きに語ることは難しいかもしれませんが、そこはお互いに誤読を恐れずに言葉を言い換えながら挑戦してもらうしかないです。
そ私は現代社会の問題を意識して皆さんの問いに答えているつもりですが、それがわかりにくさをなおもたらしているのであれば、どこがどのようにわかりにくいのか、遠慮なく書いていただけないでしょうか。
アーレントの概念や言葉遣いがわかりにくいというのはそのとおりですが、そこは我慢してある程度辛抱していただけると、その過程から現代社会の問題を読み解いていくことは十分可能だというのは、僕自身がこうした哲学を読みだした経験からいえることです。
もちろん、次回はできる限り皆さんの議論が現代社会に結びつくように展開させましょう。

【しまぬき】
オープンな形で専門書(もしくはそれに準じたもの)を読むときには、それなりの準備や共通ルールの整備、などがあった方がいいのかもしれませんね。
空中戦ネイティブとしては反省すべきところです(マッケさん済みませぬ)。
ただ、この空中戦っていうのは、素人(だって読んだのは『エルサレムのアイヒマン』途中までぐらい)が、思いついたままにことばを垂れ流しているだけです(ライブ感は半端なかったですが)。
読書会を終えたらアーレントを以前より間違いなく読めるようになっていて、大きな効用を感じました。当然ながら誤読や曲解、勘違いを含めての話ですけれど。
論理的に理解できたとは少しも思いません。
分からなさの有り様が分かってきた、ということかな。
それは言葉をたくさん撃ち込まないと輪郭が見えてこない 「多動系+ 自閉系」のなせる仕儀、でもあります。
マッケさんの切り口から見るとアーレントの世界観ってどうみえるのだろう、というのにとても興味があります。