カフェロゴ Café de Logos

カフェロゴは文系、理系を問わず、言葉で語れるものなら何でも気楽にお喋りできる言論カフェ活動です。

Café de Logosとは?

2017-12-19 | カフェロゴって何?―活動の趣旨
       

Café de Logos(通称カフェロゴ)は文学、哲学、アート、映画、政治、経済、社会、教育、科学、医療福祉、農業などなど、言葉で語れるものなら何でもお気楽に語り合いができる移動式の言論カフェです(※ほんものの喫茶店ではありませんので、ご注意ください)。
しかも、他店に間借りして、かつそのお店の珈琲、紅茶、あるいはお酒をいただきながら語らいます。
福島市を拠点にしていますが、要望があればどこへでも開店します。

カフェロゴには、その場を主催するカフェマスターがいます。
マスターによってその場のテーマや進め方、ルールは異なりますが、そこに場の個性が生まれるというものです。
けれど、カフェマスターだけでは喫茶店は潰れてしまいます。
その意味で、そこに集う参加者たちこそが、その店を盛り上げる主人公なのです。
テーマを提起するカフェマスターも、それに応答する参加者も、それぞれが主人公になれる場。
それが劇場としてのCafé de Logosです。

興味があればその場にパっと集い、興味がなければ素通りする。
仕事帰りに一杯ひっかけながら語り合う。
そんなお気軽なカフェ&バーとしての場がCafé de Logosです。

カフェロゴは代表者をもたず、この社会実験に賛同する人自身が当事者となり、企画の実行者=カフェマスターになります。
その企画の趣旨に賛同する人がひとりでもいれば、その企画は実現しますが、参加者がいなければ集いそのものが自然消滅する可能性があります。
なので開催の有無については注意してください。
お客が来なければ、お店をたたんですぐ休憩する。
そんな気まぐれなカフェ&バーがCafé de Logosです。

この言論活動のポイントは語り合いを媒介する「テキスト」の存在です。
何もないところで「さぁ、〇〇について話しましょ」といわれても意外と困っちゃいます。
人が話してみたくなるためには、それを媒介するものが必要です。
それが「テキスト」。
テキストといっても教科書じゃありません。
時に、それは本や新聞記事、雑誌、論文であったり、映画や絵、写真、映像、音楽などなど、その形式は様々です。
そして、それは「人」であったりもします。
他人にはわからない仕事内容や家事、育児、介護などなど生死の現場での苦労、悩み、葛藤。
それら個々の稀有な経験の「語り」は、人生の機微を共有できる素材そのものなのです。
それらを語ってもらいながら、それを受け取った人がさらに応答していく。
抽象的な問いからだけでは生まれない、リアリティを考えさせらえるものこそが「テキスト」です。
この活動では基本的にそれを媒介にして各人の考え方や感じ方を語り合っていく場です。

それで何が生まれるかはやってみないとわかりませんが、言葉や対話が未知の世界を開く可能性を信じて、語り合いの場を創造しましょう。
かつての古代ギリシアのアテネという町では、その辺の居酒屋や街角で市民同士が喧々諤々議論し合う文化があったそうです。
そんな言論の活気が、街なかのそこかしこで生まれる街になることを夢見る人たちが交差する「場」。
それがCafé de Logosです。

この社会実験は常に試行錯誤をくり返していきます。
それゆえ、いま、ここに書かれている活動の趣旨も、常に「書き換え」の可能性があります。
代表をもたないこの活動は、各企画のカフェマスターの個性によって運営の考え方も方法も変わります。
それでも、そのノマド的な遊動性は新しい時代の活動のあり方なのかもしれないと、とりあえず実験を試みるわけです。
ただし、それぞれの文章の署名は必要です。
個人が書いた文章や活動の企画運営を団体名で代理=代表することは、どこか読み手に無責任さを感じさせながら不安にさらします。
というわけで、Café de Logosでは、それぞれの活動企画書や文章は当事者のカフェマスターの署名を記します。
その意味で、カフェマスター同士の合意のもとで加筆修正変更されることに開かれています。
そのことが望ましい活動へ開く可能性を担保するからです。

Café de Logosは個々のカフェマスターのお店がつながったネットワークです。
それは空間的なまとまりのない「商店街」といった方がイメージしやすいかもしれません。
文学屋さんもいれば、アート屋さんもいる。
哲学屋さんもいれば、科学屋さんもいる。
政治屋さんもいれば、教育屋さんもいる。
育児屋さんもいれば、介護屋さんもいる。
ただし、それは学校でお勉強してきた専門家という意味ではありません。
自分が直面している問題は、それぞれが専門家なのです。
それぞれの屋号はそれぞれのマスターが名乗れる自由を認めるのがCafé de Logosです。

というわけで、ゆるいネットワークの言論商店街の始まりです。(文:渡部 純)


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