カトリック情報 Catholics in Japan

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9-4-3 政党のはじまり

2024-05-13 04:32:35 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
4 イギリスの王政復古から名誉革命へ
3 政党のはじまり

 こうしてチャールズは、王権の基礎としてカトリシズムを利用することを断念し、イギリス国教会のアングリカニズムにのりかえた。
 「キャバル」に代わって、新しく任用されたダンビー伯トマス・オズボーン(一六三一~一七二一)は、クラレンドンの政策をうけつぎ、国教会とむすびついて王権の伸張につとめ、国王の政策を通過させるために、機密費をばらまいて議員を買収した。
 しかし反対があった。イギリスには依然として、国王絶対主義を悪とする一種の政治的なピューリタニズムがあり、この考えの人びとは革命を恐怖したけれども、極限情況のもとではこれを是認した。
 ただし彼らはピューリタン革命時代の父祖のように、国教会や王室を廃止することを考えず、カトリシズム以外のすべての宗派に自由をみとめることによって、国教会の独占を破壊し、議会の権限をひろげて、王権を制限しようとした。
 これを指導したのが、「キャバル」の一員だったアシュリー(一六二一~八三)である。
 彼は明敏な人物で、チャールズ一世、長期議会、クロンウェルといつも主流にくっつき、チャールズ二世の復位にも重要な役割を果たした。
 彼は宗教上ふかい信仰がなかったから、寛容の観念をたやすくうけいれることができたし、絶対主義をきらったのは、そこでは自分の明敏さを発揮する機会がなかったからである。
 彼は王の真意を知らずに寛容宣言を支持したが、実情を知るとともに、議会で果敢に王に反対し、審査法の通過に尽力した。そしてアシュリーはシャフツベリー伯に叙せられ、一六七五年、国王絶対主義と国教会に反対するものを集めて、ブリーン・リボン・クラブを組織した。
 ところがその後、タイタス・オーツ事件がおこった。
 タイタス・オーツ(一六四九~一七〇五)はまえにイエズス会士であったが、一六七八年つぎのような教皇派の陰謀を暴露した。
 すなわちイギリスの教皇派が、国王を殺害してカトリックの王弟ジェームズを王位につけ、カトリシズムを復活する謀議をめぐらしているというのである。
 この根拠のない捏造(ねつぞう)は、一般にひじょうな衝動をあたえた。
 シャフツベリー派はこれを利用して宣伝を行ない、彼らこそ真に国民の味方であることを示そうとした。
 こうして争いはダンビーがひきいる宮廷党と、シャフツベリーが指導する地方党とのそれとなった。
 その最大の争点は王位継承問題である。
 チャールズ二世には男子がない。法定相続人になっていた王弟ジェームズは、カトリックであったから、シャフツベリーらの地方党は、彼を法律によって王位継承から排除しようとする。
 チャールズはこれを阻止するため、一六七九年から八一年のあいだに開かれた議会を、次々に解散した。
 第一議会で、王位継承排除法案は第二読会を通過しただけであったが、この議会では有名な「人身保護法」が制定された。
 これは容疑者の理由のない拘束、または長期の拘束を防止するため、人身保護令状を発して、拘禁の理由を明らかにし、正式の裁判にかけることを規定したもので、チャールズ二世はしばしば理由なくして、拘禁を行なっていたのである。
 第二議会では王位継承排除法案が庶民院を通過したが、貴族院で否決された。
 この第二議会の解散後、国内に不穏な空気がみなぎった。
 チャールズはロンドンの大衆の圧力を避けるため宮廷党の拠点オックスフォードに、第三議会を召集した。
 王は、いったんジェームズが王位を継承してからイギリスを去り、娘のメアリーおよび夫のオランイェ公ウィレム三世が摂政に就任することを提案した。これを拒否した地方党のシャフツベリーは、王の庶子モンマス公をジェームズの代わりに王位継承者とすることをもとめた。
 チャールズは、「私は屈服しない。私は脅迫されない」と答えて、数時間後議会を解散し、地方党を唖然(あぜん)たらしめた。宮廷党と地方党との対立が激化するうちに、前者はトーリー党、後者はホイッグ党とよばれるようになった。
 これはたがいに相手を嘲弄(ちょうろう)してよんだあだ名である。
 トーリーは「アウトローとなり、イギリスの植民や兵士を掠奪、殺害して生計をたてている無産のアイルランド人」のことであり、ホイッグは「主教を殺し、王に対して反乱をおこし、長老主義や共和主義を推進したスコットランド西南部の厳粛同盟の輩(やから)」をさした。
 そしてトーリー党が王の世襲権と王権に対する無抵抗を主張したのに対し、ホイッグ党は宗教上の寛容と王権の制限を主張したが、両党の社会的地盤もちがっていた。
 トーリー党は、貴族、ジェントルマンが中心で、うしろには、国教会やおくれた農民大衆がいた。          

 これに対し、ホイッグ党は、大商人や新興の金融家と、これに関係のふかい貴族、ジェントルマンを地盤とし、その背後には都市のピューリタンで中産階級の下層のものがいた。
 一六八一年の議会解散後、ルイ十四世から財政上の支持をえたチャールズは、議会を召集せず、絶対主義をつよめ、ホイッグ党をおさえてトーリー党を優遇した。
 これに対し、ホイッグ党員の過激派は武装抵抗を計画する。同時にクロンウェルの老兵たちのあいだでも、チャールズ二世および王弟ジェームズの暗殺計画が進められた。
 しかし、一六八三年、これが暴露し、その結果、捕えられたホイッグ党員を、ロンドン塔が待ちうけていた。
 ホイッグ首脳部のなかで、シャフツベリーは、これよりさきオランダに亡命、そこで死亡、エセックス伯は剃刀でのどをきって自殺、ラッセルおよびシドニーは裁判をうけ、暗殺計画には積極的でなかったにもかかわらず、処刑された。



9-4-2 ドーバーの密約

2024-05-12 03:02:02 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
4 イギリスの王政復古から名誉革命へ
2 ドーバーの密約

 一六六〇年、チャールズ二世はクロンウェルの航海法を更新、拡充した。
 当時はロンドンの実業界ばかりでなく、宮廷も貿易には熱心で、親王、大臣や上流社会のめんめんが貿易会社に出資した。たとえば王の弟で、海軍総司令官であったヨーク公ジェームズ(一六三三~一七〇一)が、王立アフリカ会社の初代総裁となり、東インド会社の株を買っている。
 一六六四年、イギリスはアフリカ西岸のオランダの根拠地を占領し、アメリカ大陸でもニュー・ネーデルラントをとって、ニュー・アムステルダムをニュー・ヨークと改めた。

戦争とペストに痛みつけられて、さらにロンドンに大火事が起った

 そして、第二次イギリス・オランダ戦争(一六六五~一六六七)がおこったのである。
 ところが戦争の最中、一六六五年の春から六六年末にかけて、猛烈なペストがイギリスをおそった。
 西アジア方面からオランダをへてきたものである。
 ロンドンが中心で、ひどいときには死亡者が、一週間に七千名におよぼうとするありさま。
 人口五十万のうち、七万が死んだという。
 宮廷はハンプトン・コートからソールズベリーに避難し、少なからぬ聖職者が信者たちを見すてて逃げだした。
 このときピューリタンの牧師が生命の危険をおかして、そのあとをうめたが、だれも法律違反であるとして訴えうるものはなかった。
 悪いことはつづくものだ。ペストがおとろえだしたころ、大衆にとって、「神の怒り」の証拠とも見られる不幸がおこった。
 一六六六年九月の第一週、東風のもとでロンドンに火事がおこり、四日間で一万三千戸を焼いたのである。
 この大火によって、イギリスの戦時財政は極度に悪化した。
 一六六七年六月、オランダの艦隊がテムズ川河口に攻めこみ、ケント州のチャタム港をおそって四隻を焼き払い、旗艦を曳き去り、イギリスはブレダの和を講ずることをよぎなくされた。
 このように戦争指導がうまぐゆかなかったことから、クラレンドンは議会の攻撃をうけ、ペストや大火まで彼のせいにされ、一六六七年八月辞職した。
 そのあとはクラレンドンのような一人の大臣ではなく、一団の大臣が王をたすけて政治を指導することになった。
 この一団は彼らの頭文字をとって「キャバル」とよばれ、一種の内閣であった。
 しかし連帯責任ではなく、大臣が個々別々に王と交渉をもち、王からの信頼度もさまざまであった。
 王は「キャバル」を利用して、外交の二面政策を実行した。
 一方ではフランスのルイ十四世に対抗するため、一六六八年オランダ、スウェーデンと三国同盟をむすぶとともに、他方では一六七〇年ルイ十四世と「ドーバーの密約」をむすんだ。
 これは正規の外交ルートをとおさず、王の極秘の個人的交渉にもとづき、「キャバル」のなかでも知っていたのは、カトリック教徒の連中だけであった。
 この条約によって、イギリス王はルイ十四世の対オランダ戦争(一六七二~七八)に参加するとともに、カトリシズムの真理を確信するむねを宣言し、イギリスの事態がゆるせば、カトリシズムに改宗することになり、フランス王はこれに対して友情をあらわすため、金を支払い、必要がある場合は、軍隊を派遣することを約束した。
 チャールズはルイ十四世との密約にしたがって、国内ではカトリシズムを復活させるため、宗教上の寛容というかくれみのを利用した。
 すなわち王は一六七二年、寛容宣言を発したが、議会は王の真意を見抜いて、七三年これを撤回させた。
 そして「審査法」を制定し
 「文武の官職をもつものは、いかなるものも国王至上権をみとめ、国王に対する忠誠を誓わなければならない。
 上記の官職にあるものは、イギリス国教会の慣例にしたがって、聖餐(せいさん)の聖礼典をうけなければならない」
 とし、カトリック教徒を官職からしめだした。



9-4-1 イギリスの王政復古から名誉革命へ

2024-05-11 22:21:12 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
4 イギリスの王政復古から名誉革命へ
1 チャールズ二世の帰国

 イギリスでは護国卿オリバー・クロンウェルの死(一六五八)後、事態は共和制から王政復古にむかった。
 一六六〇年五月二十五日、たくさんの人びとがドーバーの海岸に集まっていた。帰ってくるチャールズ二世(在位一六六〇~八五)を一目でも見るためである。
 船から下りたった王の肉欲的な厚い唇、頑丈な鼻、人を茶化すような目は、今までのピューリタンになれていた国民感覚には、まったくそぐわないものであった。
 チャールズは国王軍の敗北後大陸に走り、一六五〇年スコットランドからイギリスに侵入することに失敗してからは、王政復古まで亡命をつづけた。
 彼は放縦な生活をおくり、オランダで若い女と関係して一人の庶子をもうけ、これをモンマス公(一六四九~八五)に叙した。のちのモンマスの乱の主人公である。
 亡命中チャールズを忠実に補佐したのが、バイト(のちのクラレンドン伯、一六○九~七四)で、一六五八年大法官の称号をあたえられた。
 チャールズの帰国前、イギリスでは四月に選挙が行なわれ、暫定議会が召集された。新議員には国王派や長老派が多く、九〇パーセントは、王の復位を支持していたといわれる。             
 この議会に対して、王の使者が復位のための条件を提示した。
 これが「プレダの宣言」で、バイトの筆になり、王がオランダの同市で声明したものである。
 この宣言はピューリタン革命中の行動に対する大赦、土地購入者の権利、信仰の自由の三点を確認し、しかも絶対君主の復活ではなく、王と議会という伝統的体制の復活を約束していた。
 そこで議会はただちに宣言の受諾を決定し、王のイギリス上陸が実現したわけである。
 復位した王は、三つの約束に忠実であったろうか。
 大赦については、主としてチャールズ一世の裁判に参加したものが除外され、十三名が処刑された。
 クロンウェルの墓が十二年目にあばかれて、遺体を刑場につるしたのち、首をウェストミンスター・ホールでさらしものにした。
 革命中に没収された王や教会の土地は、もとにかえった。
 国王派で土地を没収されたものは特別の請願もしくは普通の訴訟で、これをとりもどす権利をあたえられた。
 しかし自発的に土地を売り払ったものには、補償がなかった。
 土地をえた側では長老派は国王派が売り払った土地を手に入れていたので、所有権をみとめられた。
 ところが独立派は王や教会の没収地を購入したので、無償で土地を旧所有者にかえさなけれぜならず、大打撃をうけた。
 宗教問題では、王政復古に大きい役割を果たした長老派が期待をよせたが、王は彼らをイギリス国教会のなかへ包括しようとした。
 しかし一六六一年五月ひらかれた議会は「騎士議会」とあだ名されたことからもわかるように、長老派が減少して国王派が大多数を占め、ピューリタンに竍する弾圧立法を行なった。
 第一の「都市自治体法」(一六六一)は、「イギリス国教会の儀式にしたがって聖餐(せいさん)の聖礼典をうけないものは、都市の公職に任命もしくは選出されない」と規定している。
 都市が、ピューリタンの勢力の中心であったからである。
 第二の「礼拝統一法」(一六六二)によって、ピューリタニズムを国教とすることには終止符がうたれた。
 すべての聖職者や教師に、国教の一般祈祷書の使用が命ぜられ、約二千名の聖職者が追放された。
 第三の「宗教集合法」(一六六四)は、同一家族に属しない五名以上のものが、イギリス国教会の方式によらない宗教上の集会に出席することを禁止し、累犯(るいはん)者を七年間植民地に追放することにした。
 最後に「五マイル法」(一六六五)が制定され、「本王国の法律に違反して非合法な宗教集会において説教しようとするものは、従来、牧師、副牧師、牧師補であった都市の五マイル以内にきてはならない」ことになった。
 これは彼らを、支持者である大衆から隔離するものである。


9-3-9  デ・ウィットの苦悩

2024-05-10 18:43:19 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
3 イギリスのピューリタン革命
9 デ・ウィットの苦悩

 さて前述のように、一六四八年ウェストファリア条約で、オランダの独立も国際的に承認され、平和も回復された。
 しかし、ときの総督、オランイェ家のウィレム二世(在職一六四七~五〇)は、さらにスペインとの戦いをつづけようとしたが、これは、南のスペイン領ネーデルラントを支配しなければ、オランダは安全でないと考えたためである。
 これに反対したのは、商業上の利益を第一とし、平和を欲するアムステルダムをはじめとする、ホラント州の諸都市であった。
 そこでウィレム二世は一六五〇年、ホラント州の指導者六名を逮捕し、アムステルダムを夜間に急襲しようとした。
 アムステルダムに至る街道には、途中、何本かの道が交差した地点があり、迷いやすかったので、交差点近くの外科医の家の窓に、道しるべの燈をつけることにしておいた。
 ところがその外科医がうっかりして、十一時に燈を消してしまったため、軍隊が道に迷って機を逸した。
 一方、アムステルダムは軍隊の接近を察知して市の門を閉じ、周囲の土地に水を氾濫させて防衛態勢をとった。
 このためウィレム二世の急襲は失敗におわり、その数ヵ月後、彼が急死し、中央集権の夢はついえさった。
 彼の死後一週間目に、のちのウィレム三世(在職一六七二~一七〇二)が生まれたが、政治的空白ができ、これがホラント州の貿易商人進出の絶好の機会となった。
 彼らは州主権を主張して、分権的共和制の実現を期した。
 これを指導したのが、ヤン・デ・ウィット(一六二五~七二)で、事実上一六五三年以後ホラント州の宰相というべき地位にあった。
 そしてこのころ、オランダは、ピューリタン革命中のイギリスと交戦状態にはいったのである。
 オランダは独立戦争のときには、イギリスの援助をうけてスペインと戦った。
 しかしスペインの勢力が衰えてくると、オランダとイギリスは貿易、植民地支配の主導権を争う二大海上国家として対立するにいたった。
 この争いの過程で、一六五一年十月、イギリス議会は航海法を制定した。
 これは、イギリスやその植民地に輸入される品物の輸送を、イギリスや産出国などの船舶に限ることによって、オランダの仲継ぎ貿易に打撃分あたえることを目的としていた。
 ふつう航海法はクロンウェルの名とむすびつけられているが、彼はむしろその制定に反対であり、イギリス貿易商人たちの発想にもとづいたものである。
 これによって両国の関係はますます悪化し、一六五二年、第一次イギリス・オランダ戦争(一六五二~五四)となった。
 イギリス海軍優勢のうちに、この戦いは終わったが、その後、王政復古時代に第二次(一六六五~六七)および第三次(一六七二~七四)のイギリス・オランダ戦争が行なわれている。
 この第一次、第二次の戦いにおいて、その指導に、講和に、中心となったのはデ・ウィッ卜である。
 彼に登用されたデ・コイテル(一六〇七~七六)が一六六七年、オランダ艦隊をひきいてテムズ川にはいり、イギリス側に損害をあたえ、ロンドン市民のドギモを抜いたことは有名である。
 第三次の戦いも、デ・ウィットがこれに当たらねばならなかった。
 しかもこのときは陸においても、ルイ十四世のフランス軍の侵入をうけていたのである。
 国家存亡の危機にあたり、ふたたびオランイェ家をいただいて難局にあたろうという、国民感情が強くなった。
 一方、国難を招いた責任者として、デ・ウィットに対する非難が高まり、一六七二年八月、彼は職を辞した。
 同月二十日、彼は暴徒によって虐殺される。
 ブルジョワ共和主義者で、教養人、寛容で無私、ひたすら国事につくしたこの政治家は、海にイギリス、陸にフランスによって挟撃される小国オランダの苦悩を、一身に背負うように倒れたのである。
 一方、総督となったウィレム三世は、堤防を破壊して洪水戦術をとるという背水の陣をしいて、フランス軍に対抗した。
 またデ・ロイデルが指揮するオランダ艦隊は、イギリス海軍の侵入を防いだ。
 やがてフランスの強大化を恐れる諸国の動向によって、国際状勢も変わり、オランダは一六七四年イギリスと、七八年フランスと講和する。
 イギリスとの和平後まもなく、ウィレムはのちのイギリス王ジェームズ二世(一六八五年即位)の長女メアリーと結婚した。
 この関係でウィレムは妻とともに一六八八年、名誉革命のとき、イギリス王に迎えられた。
 彼はその後も国際政局の中心として、とくにフランスの侵略戦争に対抗する。
 しかしオランダ自体の国力は、たびたびの戦争をへて、十八世紀には急速に衰退に向かっていった。



9-3-8 オランダの繁栄

2024-05-09 02:21:03 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
3 イギリスのピューリタン革命
8 オランダの繁栄

 一六四八年六月十日、オランダのパーク駐在ポルトガル大使は、本国に至急便を送った。
 それは、オランダ人がウェストファリアの条約成立のお祝いをしていることを報告するとともに、つぎのような文をしるしている。
 「ここでは講和は、本月五日午前十時、最高裁判所において、条約の条文を読みあげることによって公表された。
 この日、この時刻がえらばれたのは、八十年前、この日、この時刻に、エグモント伯とホルン伯とがブリュッセルにおいて処刑されたからである。
 国民は、二人が自由を擁護して倒れた同日同時刻を期して、自由の身になることを期待した。」

 ピューリタン革命がちようど高潮期にさしかかる一六四八年、ネーデルラントのオランダは独立戦争(一五六八~一六四八)を完遂してカトリシズムの牙城スペインの絶対主義的支配から解放され、新教の若き共和国として、国際的承認をかちえた。
 オランダはこの八十年にわたる戦争中にも、海上においてしきりに活動した。
 オランダ商人は早くからポルトガルのリスボンにおもむき、東洋商品を買い、これをアントワープをへて北ヨーロッパにもたらし、仲継ぎ貿易の利益をおさめていた。ところが一五八〇年ポルトガルを併合したスペインが、オランダ船をスペインやポルトガルの港からしめだしたので、否応(いやおう)なしに直接、東インドに進出せざるをえなくなった。
 オランダはジャワ、スマトラ、モルッカ諸島を手中におさめ、一六一九年ジャワにバタビアをつくって、東洋経営の中心とした。合同東インド会社が設立されたのは一六〇二年で、世界最初の株式会社である。
 その後、オランダは一六四一年マライ半島のマラッカをとり、各地に商館を設けて東洋貿易の大部分をにぎり、南アフリカにケープ植民地をひらいて、本国と東インドとの連絡拠点とした。
 一方、オランダはアメリカ大陸にも進出し、一六二一年西インド会社をおこしたが、この方面ではたいした成功を収めることができず、オランダの主力は東インド方面にあった。             
 オランダは、他国の三分の一ないし二分の一の安い運賃で十分利益をあげ、「世界の運搬人」といわれた。
 その工業も、仲継ぎ貿易に依存する加工・仕上げ関係がおもで、オランダの基礎産業である毛織物工業も、大部分はイギリスから未仕上げの白地の毛織物を輸入し、これを染色し、仕上げを行なって、輪出したのである。
 したがってオランダの繁栄は産業よりも貿易を土台とするもので、貿易商人が社会的に大きな勢力をもった。
 当時オランダのみならず、ヨーロッパ経済の中心となったのはアムステルダムである。
 戦争で衰えたアントワープに代わり、アムステルダムは、ヨーロッパ経済の中心が地中海地域から北に移動する時代の流れにのり、「世界貿易と国際金融の中心市場」となった。
 そこではロンドンより八十年も早く、一五八五年以来毎週、商品の価格表が発表されている。
 画家レンブラント(一六○六~六九)が活躍したのは、このアムステルダムであった。
 オランダが誇る大哲学者スピノザ(一六三二~七七)も、アムステルダムのユダヤ商人の家に生まれた。
 また十七世紀オランダでは、経済的発展につれて投機がさかんになったが、なかでも有名なのはチューリップの球根に対するものであろう。
 十七世紀にはその高価な品種がつくられ、少しの球根で邸宅が買えたり、結婚の持参金代わりになったそうである。
 一六三〇年代、オランダ人は、一般大衆まで、なけなしの金をはたいて球根の売買に狂奔した。
 あの色とりどりの美しい花を咲かせるチューリップが、人間のもっとも強烈な欲望の対象になろうとは。
 そしてゆきつくさきは、いつでも同じように、大衆投機家たちの大損失であった。

 このオランダ、正式にいえば「ネーデルラント連邦共和国」は、イギリスなどの諸国にくらべて、国家組織上かなりちがった点がある。
 第一に国民的統一国家ではなく、ホラント、ゼーラント、ユトレヒトなど、自由に独立した七州の連合体であり、国家連合という観がつよい。
 連邦議会(全国会議)は州議会から派遣された代表者の会合にすぎず、彼ら代表者も自分の意志によって議決を行なうのではなく、それぞれ自分の州議会の決議にしたがって行動した。
 ところでこの連邦議会を実際にうごかしたのは、七州のなかで国家財政の五八パーセント以上を負担し、他州を圧倒する経済力をもつホラント州であった。
 このホラント州議会では、投票権は十八対一で、貴族よりも都市の力が断然つよく、その中心はあのアムステルダムであった。
 そして、このアムステルダムの貿易商人の意向が、ある意味でオランダの政治を左右したといえよう。
 第二のオランダ国家の特色は総督制である。
 総督はオランダ語のスタットハウダーの訳であるが、封建君主の代官を意味する。
 総督は各州の議会から権限をあたえられた行政官であり、一人で数州の総督を兼ねる場合もあった。
 この官職は、独立戦争の指導者ウィレム一世(在職一五七九~八四)以来、広大な領土をもつ名門貴族オランイェ家がほとんど独占した。
 そしてホラント州を背景とする貿易商人が各州の権利を主張し、分権的な共和制を主張したのに対し、総督オランイェ家は、封建貴族のほかに、中小市民や農民の支持をえて、集権的絶対君主制への機会をねらいつつあった。