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8-5-3 廷臣たち

2024-06-13 04:43:23 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
5 ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰
3 廷臣たち

 新装のベルサイユ宮殿には廷臣の用に供するための多くの部屋があり、ルイ十四世はこれらを貴族たちに適当に与えたわけであるが、それこそ彼らにとって、まず何よりの恩寵であった。
 それから廷臣たちは何かの役職にありつかなければならない。
 前にのべた王の一日のスケジュールをとってみても、それらに参加、列席できる資格は厳重に定められ、王もこれを巧みに分配して貴族たちをあやつった。
 太陽王排便のときにも、それに参列できることは廷臣の大きな特権の一つであったという。
 豪奢を愛する王は、万事にたいへんな浪費家であったが、廷臣もそうでなければならなかった。
 これは王の恩寵にあずかる一手段であるとともに、貴族たちの生活を苦ししくて、王権に頼らざるをえないようにする一つの政策でもあった。
 宮廷生活における出費は、当時の貴族が貧乏になった一因ともいわれる。
 そして廷臣たちは役職をねらって必死であった。
 ベルサイユ宮殿にきていたある外国人が書いている。
 「国王によって認められたいと思う廷臣たちの情熱は、信じがたいものがある。
 王が彼らのなかのだれかに一瞥(いちべつ)をあたえると、この男は運がまわってきたと信じ、誇らしげに吹聴(ふいちょう)するのだ。
 『王がわたしをごらんになった!』」
 機会を待ちながら、長い年月を空費する廷臣たちも少なくなかった。
 彼らの一人が新顔の廷臣に語ったという。
 「あなたのなすべきことは三つしかない。すなわちあらゆる人びとをほめること、どんな役でも空いたらすぐに願い出ること、そして出来るかぎり、控えの間にいることです。」
 廷臣たちにとって他人の失脚こそが望ましかったわけだから、陰謀、策動は日常茶飯(さはん)事であり、表面的には豪華で楽しげな宮廷生活も、じつは陰気で神経を緊張させ、刺激するものであったと思われる。
 ルイ十四世は人一倍、追従(ついしょう)や迎合を好んだ王であったので、この点を利用しようとする廷臣たちの努力も相当なものであった。
 妻がいつ、お産をするかと王にきかれたある貴族は、「陛下がお望みのときに」と答えたというが、この廷臣はまた王妃に、「いま何時か」とたずねられて、「王妃さまがお望みのままの時刻です」と答えたとあっては、いささか作り事めいているではないか。
 古典悲劇の作家として有名参ラシーヌはまた、王の修史官でもあったが、ある戦役に従軍しなかった。
 その理由を王にもとめられたとき、この文人の返答は巧妙なものであった。
 「従軍用の服を注文しましたところ、仕立て屋がまことにのろくて、それが出来あがるころには、陛下が攻撃された都市はすでにすみやかに落城いたしておりました。」
 ベルサイユの森をきり開いているころのことだが、視界をさえぎる一群の木々があった。
 王がこれに不満をいだいていることを知ったダンタン伯は一計を案じ、これらの木々を根元で切り、しかも一時倒れないように細工していた。
 つぎに王がこの場にさしかかったとき、木々はいっせいに倒れた。
 「私はこれまでこんなに愉快な光景に接したことがない」と、王はきわめて満足の態であったが、かたわらで見ていたブルゴーニュ公妃は女官たちにいったものだ。
 「もし王さまが私たちの首を望まれるときは、ダンタン伯は同じようにやってしまわれましょう!」
 女官といえば、貴婦人たちも王の気持ちにとりいるように努めた。
 ある日、寵姫フォンタンジュが王とともに外出したとき、みだれた髪をかきあげて持ちあわせたリボンでくくった。
 これはたいへん王の気にいった。
 すると宮廷の貴婦人たちはきそってこれと同じ髪型に変え、その後それはフォンダンジュ結びとして流行するにいたった。
 王は礼儀正しく、とくに婦人に対してそうであった。
 宮廷づきの洗濯女であっても、女性に向かっては自分から帽子に手をふれて礼をしたが、この礼法もつぎのように分かれていた。
 すなわち王は貴婦人に対しては帽子を完全に、男性の大貴族に対しては半分ほど取り、一般の貴族その他には帽子に手をふれる……というようなぐあいである。
 ルイ十四世時代はフランス絶対王制の最盛期といわれる。
 「朕は国家なり。」――王自身けっして口にしたことはなかったが、あまりにも有名なこの言葉が物語っているように、国務はすべて王を中心として展開した。
 王は王太子教育のため、『覚書きを口述筆記させたが、そのなかで、職務は他人まかせで、称号だけを持つような王にはけっしてなるまいと、述べている。
 彼はいわばそれを実行したわけである。
 王を補佐するのは大臣からなる最高国務会議、それから若干の専門別国務会議、ほかに人的には大法官、財務総監、陸軍・海軍・外務・宮内の国務卿などであり、中央政府の令を地方で実行するのは「王の目、耳、そして腕」といわれた地方監察官である。
 これら諸機構のもとに、フランス絶対主義の中央集権化が進められたが、それらが王の意志ひとつで左右されたことはいうまでもない。          



 なお大臣は一時にだいたい三人くらいで、職務の併任や重複は多かった。
 そして親政五十四年間に大臣の総数は十六人にすぎず、しかもそのうち貴族はきわめて少なく、彼らの側から「いやしい町人どもの治世」とよばれる一面が、ここにも現われていた。
 一方、ルイ十四世は絶対君主としての貫禄十分であった。
 からだは頑健、エネルギッシュで野心的であり、また幼いときから「王者の術(すべ)」として軍事を教えこまれた王は、野戦攻城といったことを大いに好んだ。一面、王はたいへん感じやすく、涙もろかった。
 「王の姿態は美しく、豊かな上背(うわぜい)で均整がとれた体躯(たいく)であり……
 容色は、威厳と気品とをたたえている」
 といわれるような王は、とくに馬上の英姿において颯爽(さっそう)たるものがあり、これを見る人びとは讃嘆したという。
 こういう王は自分が賞讃されることを喜び、追従や迎合をもとめ、前述したように、この点を利用するのが寵をうるための便法でもあった。
 また王はすべてに細かく気をくばったが、貴族たちの一身上の秘密をさぐるために、スパイを放ったり、手紙を開封することもためらわなかった。
 宮廷をはなれる者はその理由をただされ、出仕することが少ない者もその説明を要した。




8-5-2 太陽王のある一日

2024-06-12 00:59:08 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
5 ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰
2 太陽王のある一日

 ベルサイユの宮殿と庭園の工事には、当時の美術家たちが動員された。
 宮殿中央の主館を設計したのはル・ボー(一六一二~七〇)であり、マンサール(一五九八~一六六六)はこれをうけつぐとともに、有名な「鏡の間」や礼拝堂を建造した。
 この「鏡の間」の装飾にあたったループルン(一六一九~九〇)は、画家としてよりも装飾家として天才的であり、かずかずの絵とともに、宮殿のため椅子、テーブル、じゅうたん、銀細工、鍵穴までデザインした。造園を担当したル・ノートル(一六一三~一七〇〇)は個人的にも王に親しかった。
 そしてこの雄大、豪華なベルサイユ宮殿は、当時のバロック美術を代表するものであった。
 そしてルイ十四世はベルサイユに熱心であっただけに、またものごとを統(す)べる才に長じていただけに、宮殿から庭園と細部にいたるまで、最後の決を下すのは王自身であった。
 王はしばしばル・ノートルをともなって何時間も逍遙(しょうよう)し、ちょうど将軍たちと軍事について論ずるように、樹木や泉水の配置などにかんして意見をのべるのであった。
 一六八二年五月、ルイはその新しい宮殿にうつったが、そのときはまだ万を数える人びとや数千の馬が働いていたという。
 主要なものは完成していたが、全体的な造営や改修は王の治世を通じてつづく。宮殿の二階、昇ってゆく朝日に面して、公私にわたる王の部屋が位置している。王妃、王族の居室のほかに、廷臣の用に供すべき多くの部屋が準備されてある。   

 いまや「王座の飾りもの」となった貴族たちは、主の寵愛をうるために、出世の機会をつかむために、領地を離れてベルサイユに集まってきた。
 「暦と時計さえあれば、遠く離れていても、王がいまなにをなさっているかを推測できる。」
 それほど、ベルサイユにおける王の日常生活はわずらわしいまでに、整然と時間を定めてとり行なわれた。
 ある記録をたどってみると、だいたい、つぎのようなぐあいである。
 とくに命じた時間に起きる場合を別として、八時が告げられると、部屋係が王のベッドに近づいて、言上する。
 「陛下、八時でございます。」
 王の部屋の寝台がある部分は、柵をもって他(ほか)としきられている。
 寝室へはいれるのは、王族や廷臣たちの大きな特権であり、四つほどのグループに分けられ、順を追って出仕する。王が目ざめると、王弟や王子たちが入室してあいさつする。   
 八時十五分、幼時の王に授乳した乳母がやってきて接吻する。
 王は医者たちの軽い診断をうけたのち、アルコールで手をあらい、その日に必要なかつらをえらぶ。
 かつらをつけるのは当時の貴紳の風習であり、ルイ十四世はそのために自慢のブロンドの頭髪をそらせてしまったという。
 それから王は上靴をはき、夜着のうえにガウンをまとう。
 肘かけ椅子に腰かけ、一朝おきにひげをそる。終わると、かつらをつけ、こうして「起床」の次第がはじまる。
 百人ばかりの廷臣たちがこれに列席し、王の着がえを見まもるわけだ。
 まず靴下、つづいて半ズボン、靴と、身仕度はととのえられる。
 しかしまだガウンのままで、王は白パン、水などの軽い朝食をとるが、紅茶、コーヒー、チョコレートの類は好まなかったらしい。
 朝食後、王は夜着をぬぎ、下着をきるが、寒いときにはそれは温められている。
 このときは二人の召使がガウンをかかげて、人目をさえぎる。
 つぎに王は剣や装身具などをつけ、ネクタイやハンカチーフは自分でえらぶ。
 王が上着をきると、帽子、手袋などをわたされるが、これらの品々は一つ一つ、廷臣か、召使によって王にさしだされる。
 下着を手わたすのは最高の特権であり、王太子か、王族がこれに当たるのが通例である。
 夜着をぬがせるなどの作法も、正確に定められていた。
 起床の次第が終わると、王はミサのまえに政務の間へはいり、その日のいろいろな命令をあたえたりする。
 ミサのあとは、謁見がある木曜日と聴罪司祭に告白する金曜日をのぞき、王は政務の間で国務会議をひらく。
 昼食は一時に一人でとる。
 食事は、銃を持つ三人の兵をふくむ十人の護衛に守られて運ばれるが、その行列にぶつかると、廷臣は帽をぬぎ、礼をし、低い声でいわねばならぬ。
 「王さまの召しあがりもの。」
 すべての食物、酒類が毒味されていることはいうまでもない。
 ところで食事といえば、毎日ではないにしても、ルイ十四世は死のまえの週まで公開で食事をとったと記録されている。
 王のナイフをあつかう手つきのあざやかさに、見物の人びとは感心したという。
 「太陽王」「大王」といわれたルイ十四世であるが、当時のしきたりとして、一般国民の見物の対象となったものとみえる。
 これは王および王族は、国民のものという考え方からでたものと思われ、この点、わが国とはかなり違っている。
 とくに王宮がパリにあったころには、朝から晩まで市民たちがおしかけ、盛り場同然の騒ぎだったというから、日本の皇居のありかたとも違っていた。
 さて昼食後、王は軽い狩りをしたり、運動のため、あるいはつづけられている造営作業を見まわるため、散歩するが、この散歩には多くの廷臣たちが同行するならわしであった。
 帰ってくると、王は政務の間で少しのあいだ執務する。
 晩餐はおそくなる。
 このときは王族も食卓につき、男女の貴族たちも同席するが、なかには立っている者もいる。
 王は間食をほとんどとらないので、ひじょうに空腹であるうえに、元来たいへんな大食漢であった。
 したがって盛りだくさんの料理だったらしい。      



 食後には歸踏会、音楽会、トランプ遊び、天気がよければ庭園での集(つど)いが行なわれたり、あるいは王は王族との語らいにすごすのが習わしであった。
 王が就寝のときには、またその礼式がとり行なわれる。
 朝、身につけた場合と同様に、こんどはぬいでゆくが、やはり廷臣たちの立ち会いのもとである。
 王がからだを洗ったりするころには、同席の人数も少なくなる。
 ローソクを持つ役目は、特別の名誉である。
 おつきの者と小姓たちが最後に残り、王は犬たちに食糧をあたえたり、これらとたわむれたのちべッドにはいる。
 小姓たちは明かりを消し、おつきはベッドのカーテンをとざして退去する。
 絶対君主はこうして眠りにつき、ベルサイユの夜はふけてゆく……。 



9-5-1 ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰

2024-06-09 04:44:27 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
5 ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰
1 愛のかたみ

 ベルサイユは、ルイ十四世の情事と深い関係をもっている。
 ルイはすでに一六六〇年スペインからマリー・テレーズを王妃にむかえ、政略結婚とは思えないほど、まともな結婚生活をおくっていたが、王妃以外の女性に心をうごかさなかったわけではない。
 一六六一年、二十二歳の王に見そめられたルイーズ・ド・ラ・バリエール(一六四四~一七一○)は十七歳、田舎貴族の娘ながら、いちど聞くと忘れがたい低く甘い声や、宮廷の脂粉の香になじまぬ新鮮さをもっていた。
 「草むらに咲いたかわいいすみれ」のような風情には、なんともいえぬ魅力があった。
 ルイはこのルイーズをつれた狩りの道すがら、ベルサイユに心をひかれてしまった。
 パリの南西およそ十一キロにあるこの森には、まえの国王ルイ十三世が、狩リの休息のためにつくった小さな館がある。
 そこで憩いながら、ルイ十四世は恋情に酔った眼をもって、木々を、池を、やわらかい日ざしを眺めた。ベルサイユは王にとって、ルイーズによせる愛情と分かちがたいものとなった。
 二人とそのお伴が宿るには小さすぎる館を大きくすること、それはまた二人の幸福を永続させるしるしともなるであろう。
 しかし一つの愛ははかなかった。
 ウブで清純なルイーズは、王の寵妾として公にふるまうことには適していなかった。   

 なんということもなく、思わずもうかんでくる恥じらいがちな彼女の涙は、かっては王の心をとろかしたが、いまではかえってハナにつくようになってきた。
 ルイーズに対する王の愛情は数年にしてうすらぎはじめ、一六七四年をもって終わる。
 一方、ベルサイユに対する愛着は年とともにつよまった。
 ルイ十四世は前述のフロンドの乱以来、パリがきらいになっていたし、王母の死去(一六六六)ののちは、それがおこったパリの宮殿はなにかにつけて王の心を悲しませた。
 また大王として、母の威光を国の内外に輝かすために、壮麗な宮殿に君臨する必要があった。
 当時の財務総監コルベール(一六一九~八三)はパリを愛し、王宮を中心としてその美化をつづけたく、またせっかく増大したフランスの富が浪費されることはおもしろくなかった。この富こそ彼の政策によったものであるから。
 国家の強弱は所有する銀の量によるとは、彼の信念であったといわれる。
 コルベールを登用したのは、王の幼少時代に事実上の政権をにぎったマザランである。
 新興のブルジョワの出であフたコルベールの才をみとめたマザランは、ルイ十四世に遺言したという。
 「この男をおつかいなさい、まことに忠実ですよ。」
 一六六一年、マザランが五十九歳で世を終えたとき、ルイ十四世はもはや宰相をおかず、親政をはじめる決意を示した。
 そして最高国務会議を改組し、メンバーを少数精鋭にきりかえた。
 コルベールはこの最高国務会議の大臣となり、さらに財務総監をつとめた。
 彼は当時、政界、官界に進出したブルジョワのよい例であろう。
 コルベールが立身するためには、ニコラ・フーケ(一六一五~八〇)との戦いがあった。
 フーケもやはりマザランの側近で、手腕を発揮した人物である。
 一六五三年、財務長官となったフーケはすぐれた財政家、政治家であるのみならず、学芸保護者でもあり、コルベールとはうってかわった派手な性格であった。
 かって王母はいった。
 「もしフーケが美女と壮麗な建物を愛しすぎなかったならば、非のうちどころがないのだけれど……。」
 いかにもフーケは宮殿のような大邸宅に住み、マザランのあとは自分がつぐものと思っていた。             

 ルイ十四世が凡庸な君主であったならば、おそらく彼はフランスをうごかす人物になっていたであろう。
 しかしフーケのもとに招かれ、「夢の国のような宴」、王侯をもしのぐ豪奢な生活に接して、ルイは屈辱と脅威とを感じた。
 王は帰路につくとき馬車に足を入れながらいった。
 「私は今後二度とあなたを招こうと思わないでしょう。お招きしても、満足していただけないでしょうから。」
 フーケの贅(ぜい)をつくした接待は逆効果となった。
 王の返礼は彼を獄に投ずることであった。
 なぜなら、フーケの財源は国費の乱用や収賄にあったからである。
 このときコルベールは証拠をそろえ、またフーケの裁判にあたっては、これを不利にするために書類に作為をほどこしたといわれる。
 一六六一年に逮捕されたフーケは、裁判ののち、六四年、終身禁錮となった。
 彼の失脚によって大臣となっていたコルベールは、六五年、新たに設けられた財務総監の地位についた。
 そして彼の名は、当時のフランスの経済や文化の発展ときり離すことはできない。
 財政改革、保護関税による輸出入の調整、商工業、とくにゴブラン織などの織物や奢侈(しゃし)品工業の保護育成、王立の特権工場の設置、東インドおよび西インド会社などの創設、インド、北アメリカ、アフリカ、アンティーユ諸島などにおける植民地経営(北米ではミシシッピ川流域に、ルイ王の名をとったルイジアナが開発された)、海軍の増強――こうした王権、国家権力による経済上の保護繁栄政策は一般に重商主義とよばれるが、それは一名コルベール主義ともいわれるほど、フランスでは彼によって推進された。
 こうしてフランスは当時の「貨幣戦争」に競合していった。
 またコルベールは文化上でも、「科学アカデミー」「音楽アカデミー」「建築アカデミー」などをつくり、彼自身も「アカデミー・フランセーズ」の一員となった。
 振り子の発明や光の波動説で有名なオランダのホイヘンス(一六二九~九五)も招かれて、フランスで研究をしている。

 コルベールは前述のように、ベルサイユ宮造営に積極的でなかったが、畏敬している王のためには、やむなく出費をがまんした。
 ベルサイユは沼沢などが多く、工事に不便な土地柄であり、一六六八年ごろから本格化した壮大豪華な宮殿の建築は、およそ四半世紀を要する一大難工事となった。
 徴用された労働者、農民のあいだに事故、凍傷、悪疫による多くの犠牲者がでて、「毎晩荷車にいっぱいの死者を運びだす」ありさまであった。
 水にめぐまれぬベルサイユにこれをひくことも難事業の一つであり、セーヌ川の水を水道などで利用することとなった設備は、全ヨーロッパをおどろかせ、フランスを訪れる人びとはこれを見物するのがならわしであったという。



9-4-5 王の交替

2024-05-26 19:32:13 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
4 イギリスの王政復古から名誉革命へ
5 王の交替

 王と国教会との争いは、「寛容宣言」をめぐって最高潮に達する。
 一六八八年王は、六月の第一日曜と第二日曜に、教区教会の説教壇の上で、「寛容宣言」を読みあげることを命じた。
 しかし聖職者のなかには、良心にもとづいて、「寛容宣言」を拒否するものがあらわれた。
 カンタベリーの大主教サンクロフトほか六名の主教が、聖職者に「寛容宣言」を読み上げることを強制しないように請願した。
 王は、他に対するみせしめとして、この七名を煽動(せんどう)罪で訴える。
 しかしロンドンの陪審員は無罪を宣し、彼らが釈放されたとき、ロンドンの民衆の興奮はすさまじいものであった。
 こうしてジェームズは、ホイッグ党はもとより、カトリシズムとむすびついたことで、トーリー党、さらにイギリス国教会まで敵にまわすことになり、王権の地盤は極度に狹くなってしまった。
 しかし当時、革命がおこらなかったのは、ジェームズには王子がなく、王のあとには、オランダ総督で新教徒のウィレム三世に嫁している王女メアリーが即位し、ジェームズがカトリシズムのために行なったことを、全部廃棄するであろうと考えられたからである。
 ところが一六八八年六月十日、王太子が出生したのだ。
 これは、完全に人びとの希望をうちくだいた。
 一六八八年六月三十日、七主教が釈放されたと同じ日、おもな国教徒、トーリーおよびホイッグ党員の署名のある招聘(しょうへい)状が、ウィレム三世に送られた。
 「我々は日ましに悪い状態におちいり、みずからの立場を守ることが困難になっております。
 人民はみな、その信仰、自由、財産にかんし政府のいまのやり方に満足しておりません。
 二十名の人民のうち、十九名までが変化を欲しております。貴族やジェントルマンの大部分も同じように不満であります。我々は殿下が上陸されるとき、かならず殿下のもとに馳(は)せ参じ、全力をつくして、殿下をお迎えする準備をさせておきます。」

 一六八八年十一月五日、ウィレム三世はイギリス西南部、デビンシアのトーベーに上陸した。
 軍にもみすてられたジェームズ二世は、情勢に望みがないことをさとるとともに、亡命を決意した。
 しかし王はケント州で捕えられ、ロンドンに送りかえされてきた。
 当時ウィンザーにいたウィレム三世は、むしろジェームズが亡命してくれるほうが好都合であった。
 そこで彼は王と会談することを拒否し、王が漁船に乗ってフランスにのがれることを黙認したのである。
 翌八九年一月十二日、召集された暫定議会は、
  「ジェームズ二世王は政務を放棄し、そのため王位は空位である。」と宣言する。
 ウィレム三世は、メアリーを傷つけてまでも王冠をうける気持ちはなく、共同統治が望ましいと考えた。
 それで事態はつぎのように進んだ。暫定議会は「権利宣言」を起草し、ジェームズを非難した――
 「新教および王国の法律と自由とを破棄し、根絶しようとくわだてた。」
 そしてウィレム二世およびメアリーが、「権利宣言」中の王権に対する制限を承認したのち、議会は両者に共同統治者として王冠をささげた。
 これがイギリス王ウィリアム三世(=ウィレム二世)とメアリー二世の即位である。
 一六八八~八九年のこの変革は、一滴の血も流されなかったので「名誉革命」とよばれる。
 そこではトーリー党とホイッグ党とが結合し、革命が社会の深層におよばず宮廷を中心とする上層部の勢力交替にとどまったが、立憲王制への道がひらかれることとなった。      

 トーリー党とホイッグ党とは、ジェームズ二世の絶対主義、カトリシズムに対する反感と、モンマスの乱にみられるような人民蜂起に対する危惧によって、結ばれていたといえよう。

9-4-4 モンマス公の乱

2024-05-19 04:34:28 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
4 イギリスの王政復古から名誉革命へ
4 モンマス公の乱

 一六八五年チャールズ二世が没し、カトリックの王弟がジェームズ二世としてあとをついだ。
 即位後まもなく召集された議会は、トーリー党が優勢で、六一年以来のどの議会よりも宮廷に対して好意をもち、たとえばそれが承認した予算は、チャールズ二世の即位当時の約倍額であった。
 ところが議会の会期中に、ジェームズの夢を破るような事件がおきた。それはチャールズの庶子、モンマス公の乱である。
 彼は前述のようにシャフツベリーによって王位継承者にかつがれたこともあったが、このパトロンの死後、オランダで、おちぶれていた。
 八五年六月、彼はアムステルダムの大商人の援助によって船を借り、百五十名ばかりの一隊をひきつれて、イギリス南西部に、上陸した。
 しかしホイッグ党の貴族やジェントルマンは田舎の屋敷にこもって動かず、公のもとに集まったのは、サマセットやデボンなど南西部諸州、とくにサマセット州のターントンの毛織物業地帯の下層民約六千名であった。当時毛織物業は、アイルランドの低賃金と廉価羊毛の競争のため不況にあえいでいた。
 ピューリタン弾圧立法によるピューリタンの苦痛も、反乱の一要因となった。彼らの目的は教皇派の王のみならず、イギリス国教会を廃止することであった。
 しかし、モンマスの部下は烏合(うごう)の衆である。
 指揮はなっておらず、武装は不完全、棒に大鎌をくくりつけて進軍する者も多かった。
 反乱がおこった諸州の民兵や、正規軍は王に味方した。
 ロンドン市、議会、都市、地方の役人やジェントルマン、さらに国の世論も、王と法とを支持する。モンマスの運命は決した。王軍に破れ、捕えられた彼は、王の前にひざまずいて涙とともに嘆願したがゆるされず、処刑された。三十六歳。
 モンマスの部下のうち、数百名は兵士の手によって、また「血の裁判」で処刑され、八百名以上のものが奴隷としてバルバドスに売られた。このとき捕虜を奴隷として売る認可をもらったのは、宮廷の寵臣たちであった。
 モンマスの反乱は、「旧イギリス最後の人民の反乱」といわれている。            

 ジェームズはこの反乱の深さにおどろき、常備軍を増強した。前王の大常備軍設置の計画が反対をうけたにもかかわらず、ジェームズは兵数を三万にふやし、一万三千の兵をロンドン市の西部に駐屯させて、市に圧力をかけた。
 常備軍は、イギリス人にもっとも肌のあわないものである。
 そしてカトリック教徒のジェントルマンが、この軍の将校に任命された。
 兵士たちはカトリック教徒ではない。そこで、彼らを改宗させようとしたが、いたずらに憤慨をまねいたにすぎなかった。
 一六八七年四月、ジェームズは「寛容宣言」を発布してカトリック教徒や非国教徒に対して礼拝の自由をあたえ、彼らが公務につくことをさまたげていた法律を全部廃止した。
 非国教徒は最初は感謝したけれども、やがてこの自由が奴隷化に通ずることに気づき、これを拒絶した。
 一六八八年六月、第二の「寛容宣言」が発せられ、カトリック教徒が文武の公職に就任した。
 非国教徒たちは「寛容宣言」が、「審査法」を廃止し、悪魔の権力、すなわち教皇およびカトリック教会を復活する狡猾(こうかつ)な手段であるとにらんだ。
 そこで彼らは国教徒とむすんで、王に反対した。