カトリック情報 Catholics in Japan

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カトリックがプロテスタントとキリスト教について議論するときの方法は?

2019-11-26 04:34:59 | 青年の友
リギョル神父『青年の友』聖ヨゼフ教育院

【附録3】カトリックがプロテスタントとキリスト教について議論するときの方法は?

 その上で、カトリック教徒が他のキリスト教徒(プロテスタント教徒)とキリスト教について議論するときに、どういう方法をとってよいかすぐに分かる。

 すなわち、極めて簡単にして、かつ、極めて明瞭な方法である。度々行われるように、重要でない問題について空論徒説を戦わせてむなしく時間を費やさずに、直ちに目的に向かって進み、公教要理を取り、プロテスタントに向かって、この要理書はキリスト教のすべてを含んでいるというはずである、簡単に約してはあるが、全部を含んでいるから、読んでご覧なさい、あなたは少なくとも幾分かのキリスト教者であるから、あなたの承認する点については、お互いに議論する必要はありません。
なぜならば、少なくともその点については同感でありますからです。他の点については、あなたが承認なさらず、または是認なさらず、もしくは了解にならぬ点でありましょうから、
その点には朱点でも打っておいでなさい。

 私の力で出来ますならば、ご希望の説明をいたしましょう、わたしたちは、どういうわけでこの書に書いてあるとおり信じているか、また、どういうわけでこの書に書いてあるとおり行っているか、その理由を申し上げましょう。もし、私の力で申し上げることが出来なければ、私よりも学者の方があなたにお話致しましょう。なぜならば、すべてわれらの信ずるところ、行うところには、あなたの学識にご満足を与えるだけの理由、説明がありますというはずである。

 この方法は、いくら簡明であっても、プロテスタント教徒は承知するかどうかは分からないが、しかし、少なくとも、明瞭的確に分かるに相違ない。キリスト教はどこに存するかを確かに知り得るに相違ない。

 ところが、プロテスタントの中には、自らキリスト教者であると称しながら、その実、明らかにキリスト教を知らない者が多い。

 それを明らかに知るようになったならば、キリスト教に帰依するかどうかは断言し難いけれども、諸君としては、その人の精神を照らし、その人の心を感ぜしめるが為に、出来るだけ力を尽くすはずである。

 また、諸君は、『真理を心に入らせるには、愛徳をもってこれを宣伝しなければならぬ』ということを忘れてはならない。

結論 
人物と行動。
諸君は善を行いつつ幸福となるであろう。
それは諸君の義侠心の程度に応じる。
また、諸君は自らを救いつつ、人を救うであろう。
これは諸君の徳行に対して提供さらるる、最もうるわしい報賞である。

キリスト教は唯一であるのに、どうして違った宗派がたくさんあるのであろう

2019-11-23 06:24:03 | 青年の友
リギョル神父『青年の友』聖ヨゼフ教育院

【附録2】キリスト教は唯一であるのに、どうして違った宗派がたくさんあるのであろう。

 たびたびこういう問題が繰り返されて、キリスト教は幾種あるか?もちろん、ただ一種しかない。でも、このようにたくさんの宗派もしくは名称の違ったものがあって、いずれも自ら称してキリスト教といいつつ、その実際は各々相異なっているのは、どういうわけであろうか?この現象の解釈は、次のとおりである。

 キリスト教はただ一つしかないけれども、キリスト教と称するところのものは、幾多の箇条で成り立っている。そのうちのあるものは信ずべき箇条で、あるものは守るべき箇条である。ところで、これらの箇条に対して、どういうことが起こって来るかというに、自らキリスト教者であると称する者のうちに、ある者はそのすべてを信じ、そのすべてを守ることを宣言する、その者は渾然たる全きキリスト教を保持しているのである。

 他の者はその全部を執らず、単に自分の意に適するもののみを採用する。すなわち、宗派Aは、10箇条の中から9箇条を採り、宗派Bは7箇条を採り、宗派Cは、2、3箇条しか採らず、最後には、何も採らない者もある。

 こういう相違を明らかに示そうとするには、図を書いて、日本にある一切の宗派の名称を一々記し、各宗派の名称の側にその保存してきた箇条の数を記したならば、その図の上で、カトリックは10箇条のうち全部の10箇条を保存し、すなわち、キリスト教全部を保存し、その次には立教が10箇条のうちほとんど9箇条を保存し、他の宗教は、ユニテリアン教に至るまで、だんだんその保存する箇条を減少して、ユニテリアン教になると、単にキリスト教という名称のみを存しているということが明らかにあらわれるであろう。

 こういう風にして考えると、どういうわけで唯一のキリスト教がこういろいろの宗派にわかれて、しかもそれらが皆キリスト教と称しているかが分かるであろう。

 同じく、キリスト教と称してはいるものの、その保存する所の箇条の数の多少に従って、ひとしきキリスト教ではなく、その間に多少深浅の別がある。このために、ある点については各宗いずれも一致するけれども、他の点については一致しないような奇象を示すようになるのである。

 それゆえ、各宗みな真であり、皆善であるとは言われない。各宗に真があり、善があるとは言える、しかし、いずれも皆真であり、善であるのではないのだから、そのうちから選択しなければならない。

 もし安心して、矛盾のないようにしたければ、道はただ一つ、全部のキリスト教、すなわちすべての箇条をことごとく採用することである。



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カトリック信者でありながら、日本人であるということが可能なのでしょうか

2019-11-19 04:23:42 | 青年の友
リギョル神父『青年の友』聖ヨゼフ教育院

【附録1】カトリック信者でありながら、日本人であるということが可能なのでしょうか。

 可能であるばかりではありません。これほど容易なことはありません。その法は、次に述べるとおりである。

 今では誰でも知っているように、日本政府では、「神道は何の宗旨でもない」と言明しました。これは、純然たる社旗上の崇敬で、生きている日本人が、死んだ偉人や、日本国の仁君又は傑士などに対して尽くすところのものである。すなわち、死者に対してのみ尽くす道であることを記憶しなければならぬ。この偉人崇拝は、どこに存するかといえば、4つのことに存している。偉人の記憶を忠実に保存すること、その鴻業偉勲を感嘆すること、かれらから承けた恩澤を感謝すること、その行為を模倣すること、もちろん、真に模倣するに足りる行為を言うのである。ところが、この4つのことの中で、カトリック信者が他の日本人のように、行うことが出来ないところのもの、否、行ってはならぬ所のものは一つもない。

 しかし、カトリック教徒と他の日本人と、どこが違うかと言うに、政府の言明によれば、神道はすなわち社会上の尊敬は人間以上に出でない、人間を崇拝するのみに止まっている。
その結果、もし日本臣民がこの崇敬の外に他の信仰もなく、他の崇拝もないならば、無神論の民であろうということになる。

 昔は八百万の神もあったのに、今後、一つの神もなくなるというのも、また、昔から「神国」と称せられて来た日本が、今まで日本全国山間僻地に至るまで神々を安置してきたのに、急に「神のない国」いわゆる無神国になるというのも、実に奇々怪々なことではあるまいか。神社は今でもまだ在るけれども、神の在さぬ社、いわゆる空虚の神社である。ゆえに、もはや、「神道」とは言わない。「神社教」という。あたかも、神々が門から追い出されたような観がある。

 しかし、これは別に驚くにも及ばない。私が思うに、やむを得ない勢いである。なぜならば、「科学は無神である」という。無神論をその主義としている。

 ところで、今日の日本臣民は、確かに多くの事柄に通じている民である。

 故に、その学問の為にも無神論者でなければならない。これは、論理である。キリスト教退治団などの組織せられたのは、一切の神を省いて、科学の勝利を全うせしむるた為ではあるまいか?どうもそう思われる。

 この点に対しては、カトリック教徒は黙している。議論はしない、議論した日には果てしがない。議論よりも、むしろ行為をもって謙遜にこう答える。

 「私は無神論者ではありません。幸いに神を認めております。神と人とは全然違っている者と致します。私は神は神らしく拝み、人は人らしく敬います。生死如何にかかわらず、人が人として価値があるのは、義務を忠実に果たすことであります。他に道はありません。その上で、神のおきて、すなわち、カトリック教徒の実践躬行しなければならないものを取って、仔細に調べてごらんなさい。いやしくも、忠実にその掟を守っているカトリック信者ならば、人としての資格乏しく、日本人としての資格が乏しいといわれようか、よく考えてご覧なさい」


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カトリック教徒であることは、国家に対して不忠であり国賊である?

2019-11-18 01:58:43 | 青年の友
リギョル神父『青年の友』聖ヨゼフ教育院

【45】カトリック教徒であることは、国家に対して不忠であり国賊である?

 諸君がカトリック教徒であるというので、国家に対して不忠であり、国賊であるように思われたことがあったかどうか知らぬが、もし諸君がそういうようなことを聞いても、決して心配するに及ばない。 ただ、それはお間違いですと答えればたくさんである。カトリック教徒であれば、忠実はカトリック教徒である以上は、かえって国家にできるだけ大いなる貢献をなすことができる。それはどういうわけであるかと言うに、今日、日本に入って来る一切の言論のうちに、最も激烈にしてかつ最も有害なものは、無神論である。

 いかなる風のふきまわしであろうか、こんな議論がはいってきて、「神もなければ、主もない、人は絶対的に独立自尊である。自主自由である、人間の上には、その意志の上に何物も無い」などと言っている。これは、実に無神論の根本義である。ところで、その帰結はどうであるかと言うに、人は何でも「自由気まま」に行うことができる、したい放題なことを為して差し支えない、少なくとも、出来ることならば、何でも為すがよい、全く自由であるという議論に堕ちてゆくのである。

 そういう議論の結果、どうなるかというと、それはもう度々見ることである、すなわち、おそろしい利己主義で、制裁もなく、恥もなく、一般に利己一点張りになってしまう。
論より証拠、商業においても政治においても、人々相互の交際一般においても、何がこれらを法律のように支配しているかといえば、それは利己主義ではあるまいか?そこからどういう害毒が流れて来るかは、別に証明するにも及ばない。証拠は何にもある。
世界の端から端までますます著しくなって来る。

 無神論と利己心、これが人民の大敵であるということは、誰もが承認するところである。日本国民にとって、第一に願いたいことは、どうか自らそういう経験をしないようにしてもらいたいということである。無神論と利己心が日本に優勢を占めないように妨げること、これが真にその国を愛する者にとって、最大義務である。

 ところが、諸君も知っているとおり、カトリックは、無神論と利己主義との当の敵である。すなわち、無神論の敵である所以は、カトリックの信条の第一箇条は、「我は神を信ず」ということである。利己主義の敵である所以は、その倫道の第一戒は、

「もし、あなたがカトリック教徒であることを希望するならば、あなたは自らを棄て、忍耐と勇気とをもって身を固めて進め」

ということである。したがって、同じ人が日本人であると同時にカトリック教徒であることが出来るだろうかなどと言わずに、
かえって、

「日本人民が、少なくとも多数がカトリック教徒でなかったのは、いかにも残念なことである。もしも、日本人民が無神論と利己主義との二大禍害を避けることが出来たなら、 その他に持っていた美徳と特性とによって、いかに大国民であっただろう」

というような時代の来ないように祈らなければならない。

 それはともかく、今日、こんなにも美しく、こんなにも盛世である日本国にとって、最も日本国に貢献する者は、信仰の人と棄私奉公の人であるということは、確固疑うことのできないことである。別な言葉でいえば、神を信じて、利己主義でない人物が最もその国に尽くす人であるということは、古今一貫の真理である。

 これに反して、今日のような、すばらしい国威国光が失墜するようなことがあれば、その原因は外にない、無神論と利己主義である。これが、実に、国家滅亡の基である。

結論
 人物と行動については、実に、以上述べたとおりである。それを、ありのままに示せば、これを見る人々は、遂には、カトリック教というものを適当に解してこれを守るならば、愛国心と衝突しないばかりか、かえってその堅固なる支柱であるということがわかるようになるであろう。

 信仰、義務、忠誠。

 万事はこの3つの言葉に尽きている。これより外に道はない。



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思想言論の戦争におけるカトリック教徒の使命とは

2019-11-17 08:49:26 | 青年の友
リギョル神父『青年の友』聖ヨゼフ教育院

【44】思想言論の戦争におけるカトリック教徒の使命とは

 生存競争と同時に、他にこれに劣らぬ激烈なものが一つある。おそらくは、この方がかえって重要であるかもしれない。それは、思想及び言論の戦争である。この点においては、多分日本に比すべき国はあるまいと思われる。あたかも、世界の中央に存在しているように、アメリカとヨーロッパの間に立ち、ほとんど世界中の主義言論が、風にでも吹き送られたように、舞い込んで来る。

 そして、それらの主義言論は、相互いに衝突し、相互いに攻撃して、その混乱が実に恐ろしいほどである。しかしながら、思想というものは、目に見えないものであるから、多くの人々はそれを認めない。いいや、それを見過ごしている。

 しかし、思想というものは、雲や風のように過ぎ去って行くものではない。人間の心の中に入るものである。また、真偽にかかわらず、必ず人の心の中に善悪いずれかの結果を生ずるものである。この思想戦においても、カトリック青年は重大な義務をもっている。そして、このために、特別の勇気が必要である。それは、カトリック教徒であるという確信を公言してはばからず、大胆にカトリックを擁護する勇気である。演説に、文章に、これを言明することが出来るかどうかは、私は知らない。また、それを為す時間と方法があるかどうかも知らないけれど、しかし、いずれの場合においても、社交関係や、友人間の談話等の場合がいつもあるから、諸君の品行を方正にすることと、諸君の人格を高潔にする必要が常にあるに相違ない。

 この場合において、行動のほうが言葉よりもなお雄弁である。諸君は、どのような困難な事柄に接してもくじけない確信を抱いていくために、カトリックというものはどういうものであるかと追想するはずである。

 カトリックは、2つの、短い言葉でもって表すことができる。「真」と「善」である。「真」である理由は、カトリックの信仰箇条12箇条は、もはや2千年にも達しようとしているが、まだ偽りであると証明されたことがない。しかし、その間に、人々はこれを攻撃することを止めたことはなかった。「善」であるという理由は、われわれカトリック者が守るべき十戒は、いまだかつて悪いという証明を受けたことがなかった。それゆえ、諸君は、恐れなく、また、間違う憂いなく、絶対的確信をもって、
「わたしはカトリックである。また、わたしは、全く完全なカトリックとなろうとする外に望みはない」
と断言することができる。

 諸君がそんな事を語るならば、きっと、嘲笑されたり、表面上軽蔑されたり、あるいは迫害されたりするだろう。ちょうど、他の人々が、何百人も、何千人も、同じ理由のために迫害されたとおりになること、間違いなくそうなるであろう。

 しかしながら、軽侮されることは、理由にはならない。真の理由として、カトリックの真と善に反対すべきものは、一つもない。