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衣服については尚更注意せねばならぬ『基督信者宝鑑』

2021-01-26 03:38:34 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行

3-2 衣服については尚更注意せねばならぬ

 私どもの肉体は霊魂ほどの値打ちを持たない。昨日は虚無でしたが、明日はもう腐ってひとつまみの土になるべきものですから、むやみにこれを飾り立てる必要の無いことは申すまでも無いところである。
 しかしながら、肉体だって実は聖霊の住み給う神殿である。
 しばしばキリスト様の籠りまします聖櫃となり、不滅の霊魂もその中に宿っているのだから、十分これを尊重し、これに身分相応な服装をさせるのは、少しも不都合はありません。

 衣服は絹布であっても綿布であってもとにかく清潔でなければならぬ。いくら絹布だって、破れ下がっているとか、汗臭い垢光がしているとかいうのは、本人の心の自堕落な、締まりのない証拠なので、信者たるもの、最も慎まなければならぬ所である。
 さらばとて、あまり華美な着飾りをするのもよろしくありません。

 私どもは、洗礼を授かるときに、「悪魔の栄華を棄て、イエズス様の背後から十字架を担いで進む」を約束しているのだから、世間の人がたとえどんなに華美な着飾りをしていても、自分までがそれにひかされるはずはないのである。

聖ベルナルドはかつて妹に書を送って
「妹よ、美服をまとうよりも、美徳を着けて、イエズス様の御心にかなうように努めなさい。すべて衣服はあまり値高くもなければ、お粗末にもなく(聖人一家は華族でしたから)身分相応で、質素なのがよい。
 値高い服を欲しがるのは虚栄心から出て来るので、その虚栄心の奴隷となるというのは、 まだまだ世間を愛している証拠なんだよ」
と申されました。

 交際上、人中に出なければならぬ時でも、自分は質素を旨とせるキリスト信者たることを決してわすれないで、まことの神様に仕えている人と、そうでない人とはどこか異なる点があるということを、世の人に見せなければならぬ。

 聖モニカは、少女時代に華美な衣服を父母から与えられたことがありました。生まれて一度も父母の命に背いたことのないモニカも、
これだけには喜んで従おうとはいたしませんで、やはり当時信者の少女等がまとっていた質素な白い服に満足していました。
 モニカは見た目よりも心を、身の飾りよりも心の飾りを重んじ、聖ペトロが婦人等を戒めて
「その飾りは表面の縮らし髪、金の飾環、身に着けたる衣服には在らずして、 貞淑と、謹慎なる精神の変わらないことにあるのだ。これこそ、天主様の御前に価が貴いものである。」
(ペトロ前3-3)
と申されたのを、そのまま実行しようと心がけたのであります。

 要するに、私どもはキリスト様に倣い、十字架をかついで進むべき者であるから、あくまで虚栄の害を認めて、それにとらわれないように努めなければならぬ。
 虚栄にとらわれた婦女子が身飾りに費やす時間は大したものである。
 ちょっと外に出るにも、服は二重ねも三重ねも取り出して、あれにしようか、これにしようかと長い間思案の首を投げる。やっと決定がついて着替えてからも、幾度となく前を見、後ろを眺め、化粧鏡の前に立っては、顔の、頭髪のとなでさすりして一人で感心します。
 外を歩くうちにも人が立って眺めでもすると、もうもう嬉しくてたまりませんが、時たま自分よりも容貌の優れた、服装の華美な人でも見たものなら、それはそれは無念の唇を噛み締めるという塩梅。
 こうなっては実に困ったものではありませんか。

 もしや学を修め、業を習い、信心の勤行を励み、将来は賢母、良妻として世に立たれるだけの用意をしておくべき少女にして、益にもならぬ身飾りに、その貴重な時間を潰すようだったら、実にその行く末が案じられる。
 いつの日か、審判の庭に立って、虚栄の為にむなしく費やした時を勘定されたら、なんと答弁することが出来ましょう。
「花のごとき少女時代は何をして過ごした。おまえに与えておいた物はどうした。金銭は、智慧は、心は、生命は何の為に遣い潰した。
 ここに差し出せ。おまえの事業を。」
と言われたら、どんな御答が出来ましょう。

 事業を!事業を!
 衣服より外に何の事業を持っていますか。
 しかし、衣服が天主様の尊前にどれほどの値打ちがありましょう。
 永遠の世界にどれほどの光り輝きとなるでしょう。
「よく身飾りをした、良い娘だよ」
と天国で讃められることがあるでしょうか。

そのうえ、虚栄は霊魂の救済にはよほど剣呑である。
「少女の心から虚栄を取り去らば、たちまちにして天使ともなされる」
とある神学者は申しました。
 実に身飾りに肝煎る婦女子は、高尚な思想、清い望み、美しい感情などを起こすことができるものではない。
 肉体あって霊魂あるを知らず、衣服あって徳行あるを思わず、
 ただ、肉体を崇め、ただ、美服を拝んでいると、いつのまにか肉欲の奴隷となり、邪淫の穴に落ち込み、不浄の淵に耽溺するに至るのは、火を見るよりも明瞭であります。

 虚栄はこんなに恐るべきものであるから、キリスト信者たる者はつとめてこれを抑え、衣服でも髪でも年齢と身分に応じるとはいいながらも、なるべく質素を旨とするように心掛けなければならぬ。もしや虚栄心に揺すぶられるようなことがあるときは、鏡の前に立つかわりに、十字架の下にひざまづいたら、どんな身飾りをすべきかわかるでしょう。

実に十字架の上には、私どもの鑑とあおぐべきイエズス様が在すでしょう。
「世間はわざわいなるかな。わたしは世間の為には祈らない」
とまでおっしゃったイエズス様がいらっしゃるでしょう。そのイエズス様が十字架の上から
「おまえはなんでそんな着物やお化粧を気にするのだ。我が弟子になろうと思う者は十字架を担ぐべきではないか」
と叫んでおられるのが聞こえませんか。
頭には茨を冠り、顔は唾に汚れ、全身隙間もなく傷つき破れて、世の人の体を撫で擦り、身を粉飾りたがる虚栄の罪を償っておられるのが見えませんか。
 それを見て、それを聞いては、とても衣服だのお化粧だのといっておられたものではありますまい。


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お化粧と衣服『基督信者宝鑑』

2021-01-24 05:06:28 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行

3-1 お化粧と衣服

 お化粧に気を奪られるのはよろしくない

 朝起きて顔を洗うと、鏡に向かって身飾りをするのは婦人女子の常習であるが、それについてキリスト信者たるものはどのような心掛けでいなければなりますまいか。いくら顔に墨がついていようと、衣服が垢光りしていようと、そんなことは少しも頓着しない婦人も困ったものだが、朝から晩まで鏡とにらめっこをしているハイカラ娘も始末に負えたものではない。
 要は、身分相応にするというにあるのだが、しかしどちらかといえば、キリスト信者たるものは、お化粧なんかに余り気を奪られては
ならぬのである。
 容姿ばかりいくら美しくても、万一、霊魂が汚れ果てていては、天主様の御目に何の価値がありましょう。
 これに反して至極醜い、人中に出れば笑い殺されるくらいの不器量に生まれついているにしても、心行きは気高くて胸の内は清く澄みわたり、少しの罪の汚れすら見当たらぬという人でしたら、どんなに天主様の御寵愛をかたじけなうすることができましょう。
 イエズス様も、容姿の美しい人を幸福だとはおっしゃらぬで、

「心の清き人はさいわいなるかな」

とおっしゃったじゃありませんか。

「美しい容姿は自分にも危険だし、人の為にもつまづきとなるのだから、わざわざおしろいなんか塗って、持ちもせぬ美しさを作り出してはならぬ。たとえ天然に備わっているのでも、あまり手入れなんかしないで、なるべくそれを隠したほうがよい」
と有名なテルツリアンは言っているが、実際そのとおり実行した聖人は多いものであります。

 たとえば、聖女アンセラ、メリシーのような人は、いわゆる花の顔、月の眉という方でしたが、しかし、心行きはなおさら美しく、自分の容姿がどのようであるのか、そんなことは気にも掛けないで、ただ一心に信心の務めに身をゆだねていました。
ところで、10歳の頃でした。
友達の一人が、
「アンセラさんの頭髪の美しいこと。後で、きっと立ち止まって眺める人が出て来て、立派な結婚ができますよ」
と、何気なく申しました。

 尋常の娘だったら、飛び上がって嬉しがるのだけれど、アンセラはさすが聖女だ、それを聞くや非常に驚いて、

「私は、イエズス様のほかに友達も要りません。夫も持ちません」

と即座に決心し、それからうるさい縁談なんか持ち込まれぬ予防をしておこうと、煙突のススを湯の中にたぎらせ、それで頭髪をごしごし洗いました。光沢も何も失せてしまうまでしきりに洗いました。

 そればかりか、今までに倍して厳しく断食するやら、身を打ち懲らすやらして、つやつやしい前の姿はどこへやら、やせこけたみすぼらしい小娘となって、その清浄潔白の美しい白百合を無事に保ってゆかれた、ということであります。

 この聖女のお手本にならって、容姿を壊しておしまい、とは申さないが、しかし、肉体美を拝むばかりにしている世の中にあって、聖女がわずかに10歳でありながら、もっぱら心の清き魂の美しさを求められたのを、せめてもの感心してください、と言いたいのです。
 感心して自分も容姿の美しさを望むばかりか、むしろ心の美しさを、寄る年波にも荒らされず、病の風にもやつれず、死んでも消えない心の美しさを望み、求めてください、と言いたいのです。

 とにかく、美しい花の姿を天主様に与えられたら、それがかえって仇になって罪を犯し心を汚し、救霊までも失うようなことになりはしないかと恐れなさい。
その反対で、人並みに劣った容姿を持って生まれ出ておれば、それこそひとかたならぬ天主様のお恵みをこうむったのだ、誘惑に対する丈夫な楯を与えられたのだと厚く感謝しなければなりません。
あまり野暮なことを申すようだけれども、世をこぞって豪奢華美に流れ、ひたすら肉体美を崇拝したローマ帝国にあって、紅やおしろいや演劇や遊芸などというものを一切遠ざけ、もっぱら福音的質素を実践実行して、それによってローマの悪風を一掃するに至ったのは、初代教会の信者ではなかったでしょうか。

 ただ今の我が国の腐敗といったら、ローマのそれに優りはしても劣りはしますまい。そうすれば、この滔々たる汚いならわしを改めて、純然たるキリスト教風に化すのは、われわれキリスト信者の責任ではありませんか。それにもってきて自分から世の悪風に染まるようでは、どうしてその重大な責任を全うすることができましょう。

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朝起きたらすべきこと 『基督信者宝鑑』

2021-01-21 04:32:47 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行

2-3

 終にキリスト様は、御よみがえりなされてからというものは、全く、この世の御方ではなかった。その思いも、その望みも、その心も、全く天に在す御父の方へと馳せ昇って居るのでありました。

 同じく、キリスト信者たる者は、目が醒めるとすぐに、身も心も天主様に献げねばならぬ。自分の心を献げて天主様を想い、自分の口を献げてイエズス、マリアの聖名をとなえつつ、聖衣なりメダイなりを恭しく接吻し、自分の手を献じて十字架の印をなし、ひざまづいて次の祈祷をとなえます。


 主よ、我は伏して主をおがみ、心の底より主を愛し、今日までかたじけなうせし数々の御恩、殊に昨夜、我を無事に護りくだされし御恵を感謝し奉る


 主よ、今日の思い、言葉、行い、苦しみはすべてイエズス、マリアの思い、言葉、行い、苦しみにあわせて主に献げ奉る。なお、今日のうちに蒙らるるだけの贖有はことごとく蒙りたきものと望み奉る。


 今日はどのようなことありとも、罪を犯して主に背くまじと決心し奉る。願わくは、御手を伸べて我を護り給え。聖母マリアよ、御陰の下に我を庇い給え。
守護の天使、保護の聖人よ、我を助け給え。

 終に聖母の元罪の汚れなき御やどりを祝し、そのおかげを以て清浄の徳を求めて頂く為に、天使祝詞を3度となえ、一度ごとに次の祈りを加えなさい。

 ああ、マリアよ、御身のけがれなき御やどりによりて、我が肉身を清らかならしめ、我が霊魂を聖ならしめ給え。アーメン


浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』

2021-01-20 08:22:59 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版。大正8年発行

2-2

 次にキリスト様が御よみがえりなされた後で、二位の天使が天降って墓の蓋石を取り外したが、その衣は雪のように真っ白で、その顔は太陽のように照り輝いていたものだから、番兵たちは肝をつぶしてその場にどうと倒れてしまいました。

 キリスト信者が床を離れるときも、天主様が見ておいでになる。守護の天使がついていらっしゃるから、たとえ見る人が居ないにせよ、なるべく肌を露さないよう、服を着終わってからでなければ、人前に出ないよう注意せねばならぬ。

「あなたたちは、謹慎を身にまとえ」

と聖パウロは申された。

 この謹慎の衣こそ天主様の聖意を喜ばせ、天使聖人等の目を楽しませ、悪魔には肝を潰させ、我が身の上にも天の祝福を豊かに呼び降すものであります。





浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』

2021-01-18 06:15:04 | 青年の友
浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』「2-1 起床 早く起きる」天主堂出版。大正8年発行

2 起床

 何事にも、「はじめを善くする」ということは極めて大切であって、「一日の計は朝に在り」ということわざさえあるくらいだから、一日を聖く過ごしたいと思うキリスト信者は、第一に起床を善くせねばならぬ。

 人が眠っているあいだには、呼吸こそ中止しないが、目も閉じ、耳も閉じる。五体は動かぬというように、全く死んで墓に横たわっているのも同様で、起きて床を離れるときは、ちょうどよみがえって、その墓を跳ね出るようなものである。
 だから、キリスト信者の起床は、ぜひともキリスト様がよみがえって御墓を出られたときのようでなくてはなりません。

2-1 早く起きる

 キリスト様は、朝早くよみがえられた。3日目の朝になると、まだ夜もほのぼのと明け渡らないうちに、サッサと御墓を出てしまわれた。大きな石を蓋した上に、封印を施し、番兵までもつけてあったけれども、主のよみがえりをとどめることは、できないのでありました。

 これは、キリスト信者にとって、何よりも立派な鑑ではありませんか。すべて朝寝は、身体にも霊魂にも百の害はあっても、一の益も無いものである。身体はそのために次第に柔弱に流れ、すこしの困難にも堪えきれなくなる。
 霊魂はなおさらだ。
 もう時間が無いから朝の祈祷もそこそこにして学校へ駆け出さねばならない。仕事に取りかからねばならない。黙想も出来なければ、ミサも拝聴されない。
聖寵をいただく方法は、一つも取っておくことができないから、誘惑の嵐が巻き起こってきても、これを防ぐだけの力がない。一度負けたら二度も負ける。
二度のは三度と始終負けて、終には救霊までも失うような始末に立ち至らないとも限らないのである。

 悪魔はそこをチャンと見込んでいるから、寝間には始終番兵となり、まぶたには重い石蓋をし、夜具には封印を施さんばかりにして、なるだけ遅くまで寝かそうとするものである。決してその手に乗ってはいけません。

 時が来たら、ぐずぐずせずに、床には火でもついたかのようにパッと跳ね起きなさい。なるほどそれは辛い。
 霜の朝、雪の日などはなおさら辛い。床の中はぬくぬくとして、何とも言えない心持ちがするのに、外にはパラパラと霰が降っている。
 寒い風がヒューヒューとうなっている。まだ暗い。今しばらく休んでいたいナ。早く起きたって仕様がないよ、
などとそんな時には、よく手前勝手な口実が出てくるものであるが、
 それには一切耳を傾けないで、その辛いところは、
「天主様に献げる今日の御初穂だ」
と思って、サッサと起き出ねばなりません。


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