浦川和三郎司教『基督信者宝鑑』天主堂出版、大正8年発行
3-2 衣服については尚更注意せねばならぬ
私どもの肉体は霊魂ほどの値打ちを持たない。昨日は虚無でしたが、明日はもう腐ってひとつまみの土になるべきものですから、むやみにこれを飾り立てる必要の無いことは申すまでも無いところである。
しかしながら、肉体だって実は聖霊の住み給う神殿である。
しばしばキリスト様の籠りまします聖櫃となり、不滅の霊魂もその中に宿っているのだから、十分これを尊重し、これに身分相応な服装をさせるのは、少しも不都合はありません。
衣服は絹布であっても綿布であってもとにかく清潔でなければならぬ。いくら絹布だって、破れ下がっているとか、汗臭い垢光がしているとかいうのは、本人の心の自堕落な、締まりのない証拠なので、信者たるもの、最も慎まなければならぬ所である。
さらばとて、あまり華美な着飾りをするのもよろしくありません。
私どもは、洗礼を授かるときに、「悪魔の栄華を棄て、イエズス様の背後から十字架を担いで進む」を約束しているのだから、世間の人がたとえどんなに華美な着飾りをしていても、自分までがそれにひかされるはずはないのである。
聖ベルナルドはかつて妹に書を送って
「妹よ、美服をまとうよりも、美徳を着けて、イエズス様の御心にかなうように努めなさい。すべて衣服はあまり値高くもなければ、お粗末にもなく(聖人一家は華族でしたから)身分相応で、質素なのがよい。
値高い服を欲しがるのは虚栄心から出て来るので、その虚栄心の奴隷となるというのは、 まだまだ世間を愛している証拠なんだよ」
と申されました。
交際上、人中に出なければならぬ時でも、自分は質素を旨とせるキリスト信者たることを決してわすれないで、まことの神様に仕えている人と、そうでない人とはどこか異なる点があるということを、世の人に見せなければならぬ。
聖モニカは、少女時代に華美な衣服を父母から与えられたことがありました。生まれて一度も父母の命に背いたことのないモニカも、
これだけには喜んで従おうとはいたしませんで、やはり当時信者の少女等がまとっていた質素な白い服に満足していました。
モニカは見た目よりも心を、身の飾りよりも心の飾りを重んじ、聖ペトロが婦人等を戒めて
「その飾りは表面の縮らし髪、金の飾環、身に着けたる衣服には在らずして、 貞淑と、謹慎なる精神の変わらないことにあるのだ。これこそ、天主様の御前に価が貴いものである。」
(ペトロ前3-3)
と申されたのを、そのまま実行しようと心がけたのであります。
要するに、私どもはキリスト様に倣い、十字架をかついで進むべき者であるから、あくまで虚栄の害を認めて、それにとらわれないように努めなければならぬ。
虚栄にとらわれた婦女子が身飾りに費やす時間は大したものである。
ちょっと外に出るにも、服は二重ねも三重ねも取り出して、あれにしようか、これにしようかと長い間思案の首を投げる。やっと決定がついて着替えてからも、幾度となく前を見、後ろを眺め、化粧鏡の前に立っては、顔の、頭髪のとなでさすりして一人で感心します。
外を歩くうちにも人が立って眺めでもすると、もうもう嬉しくてたまりませんが、時たま自分よりも容貌の優れた、服装の華美な人でも見たものなら、それはそれは無念の唇を噛み締めるという塩梅。
こうなっては実に困ったものではありませんか。
もしや学を修め、業を習い、信心の勤行を励み、将来は賢母、良妻として世に立たれるだけの用意をしておくべき少女にして、益にもならぬ身飾りに、その貴重な時間を潰すようだったら、実にその行く末が案じられる。
いつの日か、審判の庭に立って、虚栄の為にむなしく費やした時を勘定されたら、なんと答弁することが出来ましょう。
「花のごとき少女時代は何をして過ごした。おまえに与えておいた物はどうした。金銭は、智慧は、心は、生命は何の為に遣い潰した。
ここに差し出せ。おまえの事業を。」
と言われたら、どんな御答が出来ましょう。
事業を!事業を!
衣服より外に何の事業を持っていますか。
しかし、衣服が天主様の尊前にどれほどの値打ちがありましょう。
永遠の世界にどれほどの光り輝きとなるでしょう。
「よく身飾りをした、良い娘だよ」
と天国で讃められることがあるでしょうか。
そのうえ、虚栄は霊魂の救済にはよほど剣呑である。
「少女の心から虚栄を取り去らば、たちまちにして天使ともなされる」
とある神学者は申しました。
実に身飾りに肝煎る婦女子は、高尚な思想、清い望み、美しい感情などを起こすことができるものではない。
肉体あって霊魂あるを知らず、衣服あって徳行あるを思わず、
ただ、肉体を崇め、ただ、美服を拝んでいると、いつのまにか肉欲の奴隷となり、邪淫の穴に落ち込み、不浄の淵に耽溺するに至るのは、火を見るよりも明瞭であります。
虚栄はこんなに恐るべきものであるから、キリスト信者たる者はつとめてこれを抑え、衣服でも髪でも年齢と身分に応じるとはいいながらも、なるべく質素を旨とするように心掛けなければならぬ。もしや虚栄心に揺すぶられるようなことがあるときは、鏡の前に立つかわりに、十字架の下にひざまづいたら、どんな身飾りをすべきかわかるでしょう。
実に十字架の上には、私どもの鑑とあおぐべきイエズス様が在すでしょう。
「世間はわざわいなるかな。わたしは世間の為には祈らない」
とまでおっしゃったイエズス様がいらっしゃるでしょう。そのイエズス様が十字架の上から
「おまえはなんでそんな着物やお化粧を気にするのだ。我が弟子になろうと思う者は十字架を担ぐべきではないか」
と叫んでおられるのが聞こえませんか。
頭には茨を冠り、顔は唾に汚れ、全身隙間もなく傷つき破れて、世の人の体を撫で擦り、身を粉飾りたがる虚栄の罪を償っておられるのが見えませんか。
それを見て、それを聞いては、とても衣服だのお化粧だのといっておられたものではありますまい。
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3-2 衣服については尚更注意せねばならぬ
私どもの肉体は霊魂ほどの値打ちを持たない。昨日は虚無でしたが、明日はもう腐ってひとつまみの土になるべきものですから、むやみにこれを飾り立てる必要の無いことは申すまでも無いところである。
しかしながら、肉体だって実は聖霊の住み給う神殿である。
しばしばキリスト様の籠りまします聖櫃となり、不滅の霊魂もその中に宿っているのだから、十分これを尊重し、これに身分相応な服装をさせるのは、少しも不都合はありません。
衣服は絹布であっても綿布であってもとにかく清潔でなければならぬ。いくら絹布だって、破れ下がっているとか、汗臭い垢光がしているとかいうのは、本人の心の自堕落な、締まりのない証拠なので、信者たるもの、最も慎まなければならぬ所である。
さらばとて、あまり華美な着飾りをするのもよろしくありません。
私どもは、洗礼を授かるときに、「悪魔の栄華を棄て、イエズス様の背後から十字架を担いで進む」を約束しているのだから、世間の人がたとえどんなに華美な着飾りをしていても、自分までがそれにひかされるはずはないのである。
聖ベルナルドはかつて妹に書を送って
「妹よ、美服をまとうよりも、美徳を着けて、イエズス様の御心にかなうように努めなさい。すべて衣服はあまり値高くもなければ、お粗末にもなく(聖人一家は華族でしたから)身分相応で、質素なのがよい。
値高い服を欲しがるのは虚栄心から出て来るので、その虚栄心の奴隷となるというのは、 まだまだ世間を愛している証拠なんだよ」
と申されました。
交際上、人中に出なければならぬ時でも、自分は質素を旨とせるキリスト信者たることを決してわすれないで、まことの神様に仕えている人と、そうでない人とはどこか異なる点があるということを、世の人に見せなければならぬ。
聖モニカは、少女時代に華美な衣服を父母から与えられたことがありました。生まれて一度も父母の命に背いたことのないモニカも、
これだけには喜んで従おうとはいたしませんで、やはり当時信者の少女等がまとっていた質素な白い服に満足していました。
モニカは見た目よりも心を、身の飾りよりも心の飾りを重んじ、聖ペトロが婦人等を戒めて
「その飾りは表面の縮らし髪、金の飾環、身に着けたる衣服には在らずして、 貞淑と、謹慎なる精神の変わらないことにあるのだ。これこそ、天主様の御前に価が貴いものである。」
(ペトロ前3-3)
と申されたのを、そのまま実行しようと心がけたのであります。
要するに、私どもはキリスト様に倣い、十字架をかついで進むべき者であるから、あくまで虚栄の害を認めて、それにとらわれないように努めなければならぬ。
虚栄にとらわれた婦女子が身飾りに費やす時間は大したものである。
ちょっと外に出るにも、服は二重ねも三重ねも取り出して、あれにしようか、これにしようかと長い間思案の首を投げる。やっと決定がついて着替えてからも、幾度となく前を見、後ろを眺め、化粧鏡の前に立っては、顔の、頭髪のとなでさすりして一人で感心します。
外を歩くうちにも人が立って眺めでもすると、もうもう嬉しくてたまりませんが、時たま自分よりも容貌の優れた、服装の華美な人でも見たものなら、それはそれは無念の唇を噛み締めるという塩梅。
こうなっては実に困ったものではありませんか。
もしや学を修め、業を習い、信心の勤行を励み、将来は賢母、良妻として世に立たれるだけの用意をしておくべき少女にして、益にもならぬ身飾りに、その貴重な時間を潰すようだったら、実にその行く末が案じられる。
いつの日か、審判の庭に立って、虚栄の為にむなしく費やした時を勘定されたら、なんと答弁することが出来ましょう。
「花のごとき少女時代は何をして過ごした。おまえに与えておいた物はどうした。金銭は、智慧は、心は、生命は何の為に遣い潰した。
ここに差し出せ。おまえの事業を。」
と言われたら、どんな御答が出来ましょう。
事業を!事業を!
衣服より外に何の事業を持っていますか。
しかし、衣服が天主様の尊前にどれほどの値打ちがありましょう。
永遠の世界にどれほどの光り輝きとなるでしょう。
「よく身飾りをした、良い娘だよ」
と天国で讃められることがあるでしょうか。
そのうえ、虚栄は霊魂の救済にはよほど剣呑である。
「少女の心から虚栄を取り去らば、たちまちにして天使ともなされる」
とある神学者は申しました。
実に身飾りに肝煎る婦女子は、高尚な思想、清い望み、美しい感情などを起こすことができるものではない。
肉体あって霊魂あるを知らず、衣服あって徳行あるを思わず、
ただ、肉体を崇め、ただ、美服を拝んでいると、いつのまにか肉欲の奴隷となり、邪淫の穴に落ち込み、不浄の淵に耽溺するに至るのは、火を見るよりも明瞭であります。
虚栄はこんなに恐るべきものであるから、キリスト信者たる者はつとめてこれを抑え、衣服でも髪でも年齢と身分に応じるとはいいながらも、なるべく質素を旨とするように心掛けなければならぬ。もしや虚栄心に揺すぶられるようなことがあるときは、鏡の前に立つかわりに、十字架の下にひざまづいたら、どんな身飾りをすべきかわかるでしょう。
実に十字架の上には、私どもの鑑とあおぐべきイエズス様が在すでしょう。
「世間はわざわいなるかな。わたしは世間の為には祈らない」
とまでおっしゃったイエズス様がいらっしゃるでしょう。そのイエズス様が十字架の上から
「おまえはなんでそんな着物やお化粧を気にするのだ。我が弟子になろうと思う者は十字架を担ぐべきではないか」
と叫んでおられるのが聞こえませんか。
頭には茨を冠り、顔は唾に汚れ、全身隙間もなく傷つき破れて、世の人の体を撫で擦り、身を粉飾りたがる虚栄の罪を償っておられるのが見えませんか。
それを見て、それを聞いては、とても衣服だのお化粧だのといっておられたものではありますまい。
よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。