カトリック情報 Catholics in Japan

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パリオリンピック、豪雨の中の開会式

2024-07-27 12:40:58 | 時事
 NHKの生中継でパリオリンピックの開会式を見ていました。演出や意匠は東京オリンピックよりも、はるかに良いものでした。東京にも何本もの川がありましたし、遊覧船も水上バスも定期運航しているのですが、オリンピックの開会式に利用しようと考えついた人はいませんでした。もっとも、パリでは、ツアーで行けば、セーヌ川周遊が当たり前にパッケージングされていますし、フランス人であれば、そのくらいは誰でも思いつくのかもしれません。

 このように企画はとても素晴らしかったのですが、それらを台無しにしてしまう残念な要素もありました。
 開会式の大部分が豪雨だったのです。途中、少しの間だけ、雨がやみましたが・・・。

 時期が時期ですし、パレスチナやウクライナでは、大勢の民間人が苦しんでいます。特にパレスチナでは殆どの人が丸腰で、深刻な飢餓に直面していますし、凄惨さが際立ちます。

 このオリンピックは、神様の祝福を受けていないのかもしれませんね。一体、今までのオリンピックの歴史で、開会式に豪雨だなんてどれだけあったことでしょう。これまで、聞いたことも、見たこともありません。


 フランス政府も、その気になれば、天候をコントロールできたでしょうに。周囲の自治体との間にうまく調整がつかなかったのでしょうか。

 既に30年前には人工降雨技術が存在しますし、北京オリンピックでは、大々的に使われて、開会式をはじめ、大事な日は必ず快晴になりました。ヨウ化銀を打ち上げて、街に近づく水蒸気を早い段階で雨雲にしてしまい 街の上空に達する前に降雨させてしまえば、街はその日、快晴になります。既に各国で、しばしば使われている技術ではあります。
 そういうコントロールにも失敗し、当日は、大雨・・・。教会の長女と言われたフランスで、今、神様がこの式典を祝福しているとは、考えにくいです。おそらく、神様はお泣きになっているのでしょう。

【追記】開会式のイベント中、フランス王室を血祭りにあげ、フランス革命を称揚する演出がなされたようです。見てはいましたし、フランス革命をイメージしているという説明はありましたが、王室惨殺まで含めているとは気づきませんでした。


 


【追記2】 昨夜未明、日本選手団のボート出現までは見ていましたが、その後、しばらくの間、眠ってしまっていました。フランス革命の演出は、日本選手団が映る前後でしたから、かろうじて覚えていたのですが。

 その後、随分と冒涜的な催しが繰り返されたことを知りました。驚いています・・・。東京オリンピックとは、別の意味でひどいですね。








9-8-2 シレーの恋人たち

2024-07-27 10:18:02 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
8 フランス啓蒙思想――貴婦人たちのサロン
2 シレーの恋人たち 

 ボルテール(本名はフランソワ・マリー・アルーエ、一六九四~一七七八)はパリの公証人の家に生まれ、ブルジョワの出である。学生時代から早熟で、野心家、才気にあふれ、何ごとにも闘志満々といったタイプであった。
 卒業後、親のあとをついで法律家になろうとしたが、どうも法律は無味乾燥でおもしろくない。つぎに外交官をめざしたが、これもものにならなかった。
 身持ちも悪く、札つきの不良青年であったが、そうするうちに文筆家として出発することとなった。
 しんらつな諷刺と皮肉にとんだ筆は、当時の政府に対する批判におよび、一七一七年から一時バスティーユの監獄ヘいれられたこともあった。
 一七二六年、三十一歳のボルテールはすでに詩人、劇作家として名もでていた。
 ところがある貴族と争って、またバスティーユヘ投獄され、数ヵ月後、イギリスに亡命ということで釈放された。妙なことから、彼は年来の希望であるイギリス行きを果たすことができ、この地に三年ほど留まることとなった。
 十七世紀以来フランス文化は国際的に尊敬されているので、彼はその文人として好遇され、知識人とひろく交際することができた。
 一方、イギリスはその経験論哲学、ニュートン物理学、シェークスピア、あるいは信仰上の寛容、言論の自由、議会制度にもとづくデモクラシーなどにおいて、ボルテールの思想形成に大きな影響をあたえた。      

 フランスに帰り、悲劇『ザイール』(一七三二)などで文名をあげていたボルテールが、一七三四年出版した『哲学書簡』(一名『イギリス便り)は、イギリスで見聞したことを書簡体にした一種の文化評論である。
 そこでは宗教、哲学、文学、政治、社会など、種々の面で民主的なイギリスと、絶対主義的で不寛容なフランスとが対比されている。
 ところがこの書物が当局ににらまれたこともあり、ボルテールはその追及をのがれて、パリからロレーヌ地方のシレーにうつった。
 ここでシャトレー侯夫人(一七〇六~四九)の邸宅に身をよせたが、夫人は彼の情人兼親友ともいうべき存在となった。ボルテールより十二歳年下で、そのころ二十七歳のこの女性は夫と別居し、自由な生活をおくっていた。
 シャトレー夫人はニュートンの書いたものを翻訳したり、ライプニッツの哲学を論ずるなど、なかなかの才媛であった。
 ボルテールは彼女を「女のニュートンさん」などとよんでいる。
 しかし一方では夫人はダイヤモンドを好み、衣装にこり、官能的でもあった。
 ボルテールは十五年間(一七三四~四九)シレーですごすこととなったが、劇に、詩に、論文に、歴史物に縦横の筆をふるい、彼の一生において、もっとも多作な時代だったといわれる。
 彼は邸宅に物理や化学の実験道具を持ちこんだり、舞台をもうけて自作の芝居を上演したりした。
 シレーの邸宅で、ボルテールは金にあかせて、贅沢な生活にふけった。          

 大改築を加えた豪勢な屋敷のみならず、その邸内には小川あり、森あり、丘あり、谷ありというありさまで「地上の楽園」とまで評されたという。
 ボルテールはすでに高い文名のうえに、父から相続した財産を、外国貿易などに投資したり、また富くじでもうけたりして、当時の文士としてはめすらしい財産をつくった。
 しかしこのシレーの生活も終わるときがきた。二人の仲が冷たくなっていたとき、夫人は若い愛人に夢中になり、一七四五年その子をうんだが、それがもとで世を去ったのである。
 五十六歳のボルテールは、一七五〇年七月ベルリンを訪れた。プロシア王フリードリヒ二世の招きに応じ、その宮廷につかえるためである。
 この王はいわゆる啓蒙専制君主であり、フランス文化に心酔し、かねがねボルテールの名をしたっていた。
 これまで両者は長らく文通しており、また二、三度ボルテールは王のもとへ行ったことがあった。
 ボルテールはプロシアの宮廷に三年ほど滞在した。
 彼は有名なサン・スーシー(無憂)宮にも部屋をあたえられ、側近の知的グループの一員として、豪奢(ごうしゃ)な生活をおくった。その史書、『ルイ十四世の世紀』(一七五一)は、ベルリンで発行されている。
 しかし彼の自由奔放、わがままな性格は、窮屈な宮廷生活にけっきょくは適していない。
 またパリにくらべると、田舎町のベルリンにも不満で、彼はドイツ人をみくびっていた。
 そのうえ、利殖にたけたボルテールは、この道で裁判沙汰までおこした。王のほうでもやっかいなものを背負いこんだと、しだいに後悔する……。      

 こうして一七五三年、ボルテールはプロシアを去り、やがてスイスにおちついた。
 そして文筆活動に専念したが、代表作の哲学小説『カンディド』(一七五~九)などの発表とともに、彼の本領、いわば当代無比のジャーナリストとしての面目も発揮される。
 時事的な面では、絶対主義やカトリック教会に対する攻撃、とくに、高位の聖職者や教徒の不寛容などに向けられた。
 「恥知らずをたたきつぶそう(Ecrasons I'infame)」、彼の手紙の末尾には、しばしばこう書いてあったというが(ただし用心のためか Ecr. I'inf. などと略して)、いわばこれは彼のモットーであったのであろう。



聖パンタレオン殉教者    St. Pantaleon M. 

2024-07-27 09:42:26 | 聖人伝
聖パンタレオン殉教者    St. Pantaleon M.              記念日 7月 27日


 聖会の初代300年にわたるローマ諸皇帝の迫害中、最も残酷酷烈を極めたのは、恐らくディオクレチアノ及びマクシミアノ両皇帝が共に天下を治めていた頃のそれであったろう。その迫害はまず小アジアなるディオクレチアノの首都ニコメディアに勃発したが、その際当局のやり玉に上った初殉教者の中に、本日記念する聖パンタレオンも加わっていたのである。
 彼の生涯の歴史的記録としては、殉教録の記事以外に何一つ残っていない。それも当時の弾圧の結果か、ほんの要点だけをとどめた簡単なものに過ぎない。しかしそれに依れば、彼の父はオイストルジオという高官の異教者、母はキリスト信者でこの母の敬虔な祈祷と立派な行為は、司祭ヘルモラオの指導と共に、後に青年パンタレオンが信仰を見いだして洗礼を受ける上にあずかって大いに力あるのであった。
 彼は医術を業とし、その方ではかねてから令名があったが、受洗後ただ天主を信頼して祈るだけで、一人の盲人をたちどころに癒した。この明らかな奇跡を見ては不信の父も驚嘆の心を禁じ得ず、ヘルモラオ司祭について教理を学び、ついに熱心な信者となるに至った。
 そればかりではない、ディオクレチアノ皇帝の許へ統治上の相談に来たマクシミアノ皇帝は、右の奇蹟を聞いてパンタレオンを自分の侍医に召し抱えた。けれどもかような栄職についても、思い上がって救霊を忘れるようなパンタレオンではない。相も変わらず熱心に信仰の務めを守っていたのである。
 その中にキリスト信者探索の手はいよいよ厳しくなり、パンタレオンも皇帝の御前に召され、棄教を迫られた。皇帝は彼の従前の功労を少しも顧みず「キリスト教を棄てよ、さらばその方はなお朕の厚き信任を得て、栄達は思いのままであろう。これに反しあくまでその信仰を守り通すつもりならば、生命はないものと覚悟するがよい」と甘言及び威嚇を以てその心を動かそうと努めた。しかしパンタレオンは既に洗礼の時誓った通り悪魔とその栄華とを棄てた者である。命を惜しみ不義の栄耀を望んで天主を離れる筈がない。言下に信仰を擲つ事は絶対に出来ぬと答えたから、皇帝は烈火の如く憤り刑吏に命じて彼をオリーブの木に縛り付け、その手を頭に釘付け、さまざまの恐ろしい責め苦にあわせた末、その首を斬り落とさせた。
 かようにして名医パンタレオンは迫害の嵐に華と散った。けれどもその壮烈な犠牲の死は彼を牢獄の如きこの世から永遠の故郷に導く解放に他ならなかった。彼が間違いなく天国に入ったことは、その殉教後さまざまの奇蹟が起こった所からも知られる。
 彼はその生前の職業より今も医術に携わる人々から保護の聖人と仰がれている。また先に記した如く、頭に釘を打つ拷問にも屈しなかった所から、脳病頭痛に悩む人々の代祷者に選ばれることもしばしばある。

教訓

 我等が聖パンタレオンに学ぶべきはその忠実と堅忍不抜の精神である。我等も彼の如くいかにこの世の栄耀栄華を種に誘惑されても、正しい道、天国への一筋道から一歩も離れてはならない。